陽だまりの るてるてぼうず
もしもあのときこうだったら……、と人は人生に何度思うことだろう。それは取り返しのつかない過ちを悔やむ思いであることもあれば、今ある幸福を噛み締めるそんな思いであることもある。
僕は幸運にも後者だ。彼女に出会えたこと、それだけで僕の一生分の奇跡が消費されたことだろう。
なんて、はかることもできないが。
引き出しからあの手紙を取り出す。差出人の名も受取人の住所も書いていな い。あるのはその受取人の名前だけ。
――――この手紙が君と僕を繋いでくれた――――
僕はそっと引き出しにしまった。
あれはいつの日のことだったろうか。桜のつぼみが少しずつ色づき始めていた、そう、そんな日だった。
僕はそのころ新聞配りのバイトをやっていたんだ。
外に出ると少し肌寒い。僕は自転車のペダルに足をかけた。最初は重かったペダルも強く漕ぐたびに軽くなる。
最後の一軒。郵便受けに手をかけると何かが下に落ちた。
「ん?」
見ると手紙のようである。裏返すとメモ書きが貼ってあった。
この手紙を届けてください
お願いします
首が90度横に傾いた。
……僕に言ってるのか?
……届けてほしい……だって?
それなら郵便配達の人に頼めばいいのに…………………違う違う!
それならそれでどうして自分で届けにいかないんだ?
謎は深まるばかりだったが家を見上げてもしんとている。この時間だ。どの家もまだ朝には少し早い。
さて……どうしたものか……。
もう一度手紙を見てみると、相手方の名前は書いてあるが、そのほか住所も差出人の名前さえもない。
これはポストに投函しただけでは送ることは不可能だ。
さて、どうする?
このまま通り過ぎるのも、もちろんありだ。なんてったってここの住人とは面識ひとつない。
だけど……。
自分のお人好しに思わず苦笑した。自分の家の郵便受けを郵便ポストの代わりにする、理由はわからないが届けてやろうと思った。
ただひとつ困ったことは、やはり住所がないことには届けようがない。
弱った。僕は一端引き返すことにした。
翌朝、昨日と同じように新聞を荷台に積んで、 まだ日の届かなず、薄暗い小道を走り始めた。
一軒、二軒とまわっていくうちに、ある家で新聞を入れる手が止まった。
「この家……」
もしかしたら、と思ったが、すでに確信していたのかもしれない。
なかなかこの辺ではこの苗字をみかけない。本当は今すぐ確認したかったが、さすがにこんな時間にチャイムを鳴らすことはできない。
後でもう一度来ることにした。
それから数時間して、僕はその家の玄関の前にいた。チャイムを鳴らすが一向に出てこない。 もう仕事にでもいってしまったか……と諦めかけたころ、ドアがガチャリと開いた。
「何か用?」
背の高い男が眠たそうに目をこすりながら出てきた。
「あ、あの、結城さんですか?」
「そうだけど」
「これを預かっているのですが」
僕は手紙を男に渡した。男はあくびをしたあと封を切った。
顔がだんだん穏やかでなくなっていくのがはっきりわかった。
「もうここには来ないでくれ!」
男は手紙を僕の胸に押し付けて、ドアをバタンと閉めてしまった。
僕はあっけにとられていたが、二度と扉が開くことはなかった。
いけないと思いつつ、その手紙を読んだ。便箋の最後には女性の名前が記してあった。
二人は恋人同士であったみたいだ。彼女は重大な病を抱え、命の期限―余命を宣告されていた。
僕がその決断をするのに大して時間はかからなかった。どうしてもこのままでいたくなかっ た。
彼女に会いに行こう。その足でこの近くで 一番大きな病院へ向かった。 予想通り、彼女はそこに入院していた。
柔らかな陽光が差し込む個室にただ一人。窓の外に見える、もうすぐ開花間近の桜の木を見つめていた。
「こんにちは」
声をかけると初めてこちらへ体を起こした。
「新聞配達の方ですね」
見ず知らずの男がいきなり立っていたら少しは驚いても良さそうなものの、彼女は全く動じずに僕を見ていた。まるでこの世のものの中に は、すでに恐れるものなど何一つとしてないか のように。
「そうです」
それから後のことは実はよく覚えていない。吸い込まれてしまうというよりは奥深くの闇の中へ沈んでしまいそうな彼女の瞳を見ていると、 この場に自分を留まらせておくだけで精一杯だった。
引きずり込まれそうになる自分を守るのに必死だった。
そして、気づくと病室の前に立っていた。時間だけが経っていた。僕は何をしに来たのか、それさえも忘れていた。
こんな感覚は初めてだった。それでも僕はここに通い続けたんだ。あの不思議な感覚が忘れられずに。
彼女が忘れられずに。
ある日、彼女の容態が急変した。個室から特別な処置室へと運び出される。どうしたらいいのかわからなくなった。
いや。嘘だ。
彼女が何を求めているのかはこれだけ傍にいたのだからわかる。ただ、自分の心がそれを拒否しているだけだ。
それから10日が過ぎた。
一瞬でも目を離せばどこかへ行ってしまうのではないか………それでも祈ることしかできなかった。祈ることしかできなかった_____
ドウカカノジョヲ──────
「パパーーー!!!!」
勢いよく書斎に飛び込んでくる黄色い声。今日は世間で言うバレンタインの日である。
しかし我が家ではもうひとつ重大なイベントがあった。我が娘、さくらの五度目の誕生日である。
たちまち、廊下から妻の声。
「さくらー! パパのお仕事の邪魔しちゃだめ よ!!」
「ハーイ」 と言ってそろりと書斎に入りなおしてきた。
「パパ、パパ! これ!」
「なんだい?」
渡された箱を開けてみると、逆さになったてるてるぼうずがチョコレートを抱いている。 チョコレートはハートのチョコを4つくっ付けて、 さくらの大好きな四葉のクローバーの形になっている。
「間違えて逆に入れちゃったんだね」
笑いながらひっくり返そうとすると、
「だめーっ!!!!」
さくらが慌てて僕の手を制止してきた。
「このままでいいのー!! あのね、 てるてるぼうずはね、さかさにするとね、るてるてぼうずになるんだよ! るてるてぼうずはね、さかさだからね、あめをふらせるの。でもね、このるてるてぼうずちゃんはね、よつばちゃんもってるからね、ほら! だからねあめじゃなくてはっぴーをふらせるんだよ!! ママ がおしえてくれたの」
にこっと笑う。この笑顔。この瞳。
7年前の彼女そのものだ。
あの時あれから、彼女は戻ってきた。この世界へ。彼女は勝ったのだ。打ち破ったのだ。
そして、医者も驚くほどの回復を見せつけた。僕たちは退院してまもなく結婚した。
さくらが生まれた。何よりも愛おしい、しあわせ、喜びそのものだった。
確かに不安がないわけじゃない。いつか彼女が病を再発するかも知れない。
だけども僕たちは生きている。
生きている。生きているんだ。
守らなきゃならないものがあるんだ。
階下から妻たちの笑い声がする。
「一緒にがんばろうな」
日だまりのもとに置かれた、るてるて坊主をちょこんとつついた。
今回友人の螺子さんに執筆をすすめられこのような小説を書かせていただきました。小説は読むのは好きですが、書く方は経験がなく、いろいろと苦戦しました。しかし、執筆にあたって材料を集めようと思うと、普段目に入らないようなものが見えたり様々な発見をしたりしてとても楽しかったです。
読んでくださったみなさん、そして螺子さん、 ありがとうございました!