8話 --- 残念バースデイ
松崎のおじさまのところに届けられていた財布とバックを引っ掴むようにして受け取り、ピンヒールで不恰好になりながら駅まで走って家に辿り着いたのは9時過ぎだった。
「遅くなってごめんなさい、ただいま」
お風呂に入っていたお母さんに曇り硝子越しに一声かけてから自室に向かう。立て掛けてある姿見に映った自分を見て、そういえばこのドレス着たままで帰ってきちゃったな、と気付いた。これだけじゃない、和泉くんが履かせてくれた靴もだ。明日返しに行くにしても皺にならない様に下げておかなきゃ。そう考えながらワンピースを脱いだとき、明かりをつけていない部屋の中でなにかがうごめいていることに気付く。
「だだだ、誰っ」
慌てて点けた照明に照らし出されたのは、わたしがよく見知っているひとだった。
「……ま、雅くん!?」
わたしのベッドで大の字になって寝ていた雅くんはむくりと顔を上げると、いかにも眠たそうな様子で金髪に染められた短髪頭をぼりぼり掻きながら、
「……お兄様と呼べ」
と寝起き特有の不機嫌に掠れた声で言った。
「雅くん来てたの?」
「お兄様だっつってンだろが」
そう呼びたくなる要素は皆無の柄の悪さで吐き捨てると、雅くんは大あくびをする。
「はいはい分かったから。お兄様、勝手にわたしのベッドで寝ないでよ。……って、もう雅くん!わたしの『あるクマ』つぶさないでよっ」
ワンピースを着直して近寄ると、雅くんはいかにもうるさげに舌を打った。
「っせぇな、細かいこと気にしてンじゃねぇよ」
雅くんに枕代わりにつぶされていたクマのぬいぐるみを無理やりひっぱり出した。喜怒哀楽のぼんやりした微妙な表情に、右手と左足をふりあげて歩き出すポーズをしているこの『あるクマ』は、ここ数年で人気きゃらの仲間入りをしたゆるキャラだ。やる気のない力の抜けたかんじがかわいくって、いまわたしがとても気に入っているキャラクターだ。この大きいぬいぐるみと学校のかばんにぶら提げているちっちゃなマスコットはクレーンゲームの達人であるユキちゃんに取ってもらったものだ。
「そんな汚ねぇクマ、いまさら潰れたってどうってことねぇだろが」
「大事にしてるものなの。やめてよね、友達に貰ったものなんだから!」
「そんなん好きだなんて相変わらずてめぇはガキだな。何がいいんだか。不細工面に親近感沸くとか?」
「放っておいてよ。ねえ、もういい加減ベッドから下りてってば」
「メスガキが耳元でうっせぇな。……ってかさ、お前香水でもつけてんのか?」
雅くんは猫のように伸びをするとようやく起き上がった。凶器になりそうなごつい腕時計に、タトゥーみたいな柄の黒いTシャツ、下はスタッズ付きのダメージデニムを穿いている。つり目気味の雅くんに似合っているといえば似合っているけれど、不良っぽいというかチンピラっぽいというか。アマチュアの試合に出るほどキックボクシングが好きで、なまじ体型もやや細身なのに絞り上げた筋肉質だから、着ている物や本人の柄の悪さも手伝ってますます物騒なひとに見えてしまう。きつめな顔立ちのお母さんによく似たこの雅くんとは並んで歩いていてもまず兄妹に見られることはなかった。以前一度ユキちゃんに目撃されたときはわたしがこわいおにいさんからかつあげにあっているのだと勘違いしたユキちゃんに助けられそうになったことまであった。
「香水?」
「てめぇのベッド、なんか甘ったるい匂いしてンだろが」
「ああ。ちがうよ、柔軟剤の匂いだよ。シーツ洗うとき、いい匂いの柔軟剤をちょっと多めに使ってるの。お父さんのもお母さんのも同じ匂いだよ」
「------っは。だよな」ちょっとほっとしたような顔で「香水なんてつけて色気づきやがったのかと思ったけど、お前のその顔で家のベッドに男連れ込むとかありえねぇよな」と嘲るようにけらけら笑いだした。どうせわたしは派手めの雅くんにはすこしも似てない非モテのジミ顔だ。
「ってかお前、なんだその格好。……ああ今日誕生会行ってたんだっけか?ンなの着て出掛けるなんてどんだけ自分好きなんだよブスが。人に祝ってもらえるからって浮かれすぎだろが」
衣装室の高山さんには褒めてもらったものの、雅くんは容赦なくドレス姿のわたしを嘲笑してくる。まあ高山さんの褒め言葉は大人の社交辞令で、世間一般の感覚は雅くんの方なんだろう。
「はいはいどうせぶすですよー。調子に乗ってドレスなんて着ててすみませんね!でも今日はべつにわたしの誕生日会ってわけじゃありませんから」
「あー」雅くんは一瞬だけ考えこんだ後合点したように手を打った。「あいつ。あのクソガキか、ホテル屋の。なんて言ったか、えっと」
「……高大」
「そう、それ。あいつの誕生パーティだったってわけか。っつか哀れだよな、あんなのと誕生日いっしょとか。おまえみたいな地味はかすみすぎてどうせまた誰にも覚えててもらえなかったんだろ」
「……うるさいなぁ」
「まぁ、まだあんなのとツルんでたおまえも悪いな」
「違うよ、つるんでなんか……今日は友達に誘われて断れなかっただけだし……」
「そんな気合入れた格好してなに言い訳してんだよ、ブス。……なんだよその目。あのな、ブスはみじめだけど恨みがましそうな顔したブスは」
「もっとぶすだ、って言いたいんでしょ、どうせ」
雅くんの言いたいことなんて分かっていた。わたしのやけっぱちな言葉に雅くんは人の悪い顔でにやりと笑った。
雅くんは5歳上のわたしの実兄で、筋トレと格闘技が趣味の現在大学生三年生だ。小さい頃から美人が大好きで、むかしから美人な子とそれ以外の子に対する態度の差があからさまな嫌な男の子だった。無論わたしのことなんて常にブス呼ばわりで、お姫様の童話が大好きで憧れていたわたしに夢見ることを許さずに徹底的に「ブス」であることを突きつけて幼いわたしに現実を知らしめた男でもある。
「雅くん、着替えるから出てってくれる?」
促しても雅くんはのろのろ腰を上げるばかり。とりあえず先に取ってしまおうと鏡を見ながら髪の結び目に差し込まれたブローチに手を伸ばすと「それどうした」と目聡くブローチに気付いた雅くんがしげしげと眺めてきた。
「安いもんじゃねぇだろ。なんでガキがそんないいもん持ってんだ?パクッたのかよ」
「ちがうよっ、そんなことするわけないでしょっ。これは……」
でも持ち主に返さずに家に持ち帰ってしまったのなら、ぱくりなのかもしれない。ブローチだけじゃなくドレスもパンプスも。なんとも答えづらくて口ごもるわたしに「男に貰ったのか」と無駄に感の働く雅くんに指摘された。
「も、貰ったんじゃないよ……借りた……そう、借りたの!借り物だよこれ」
「ふぅん?」
雅くんはにやにやする。
「そういやあのクソガキ、ヒーロー気取ってンだか何だか知らねぇけど、俺がおまえのことブスって言うたび、よく俺につっかかってきやがったよなぁ?」
妙に含みのある言い方をする雅くんが何を言わんとしているのかはすぐに分かった。
「もう何勘繰ってるんだかしらないけど、これ、高大から借りたものじゃないから!」
「ああでも。『初実ちゃんはブスじゃない!』っつうあいつの正義感ぶったアレはヒーロー気取りってか王子様気取りっつぅのか」
「……何が言いたいのよ」
「べっつにぃ?」
こういうときの雅くんの顔って、実の兄ながら憎たらしさ百倍で勝てないこと承知でもぶんなぐってしまいたくなる。子供のときさんざん逆襲にあって泣かされまくったからもうしないけど。
「あのクソガキ、『初実ちゃん初実ちゃん』ってお前にべたべただったよな。けどお前、手作りチョコだかクッキーだかぐちゃぐちゃにされて泣かされて帰ってきたんだっけか」
「うるっさいなぁ!もうさっきから何年前の話してんの?それ幼稚園とか小学校のときのことでしょ、今更なんだっていうの」
だいたいただの義理チョコだったんだし。それも自発的にプレゼントしたわけではなく、みんな広海くんにあげるから初実ちゃんもあげようみたいなノリでしたことだ。
『こんなの、ほしくない』
そういって突き返された、うまれてはじめて家族以外のひとのためにつくったお菓子。手先が器用だったパパが、何度わたしが失敗してもにこにこ笑っておしえてくれたラッピングで、きれいに包んだチョコレート。なのにそれも全部びりびりに破られて、きれいなケースも潰されて。そのときのことを思い出して胸がツキンと痛んだ。もうずっと昔のことのくせに。
そう。昔の。
「雅くん、帰るの?」
雅くんは携帯とパスケースをポケットに突っ込むと、気だるそうに立ち上がった。かばんを持たない主義の雅くんの身支度はたったそれだけで完了する。
「もう遅いんだから泊まっていけば?」
「ならてめぇのベッド貸せ。お前がリビングで寝ろ」
「やだよ。お兄ちゃんがソファに決まってんでしょ」
「じゃあ帰る」
「もう、もとから泊まる気ないんでしょ。お父さ……久賀さんのこと、気にしてるの?だったら今日は九州で学会があるって言ってたから帰って来ないよ?泊まっちゃえば?」
雅くんは無言で部屋から出て行く。
「ねぇ雅くん、今でも久賀さんとお母さんのこと、反対なの?」
ちいさいころはお母さんのことをママって呼んでいたけれど、久賀さんと同居しはじめて久賀さんのことを「お父さん」と呼ぶようになってからは、それに合わせてママのこともママではなく「お母さん」て呼んでいる。お母さんと久賀さんのことを反対する気なんてないし、久賀さんのことも大好きだけど「パパ」と呼ぶことだけは出来なかった。わたしが「パパ」って呼ぶ相手は世界でたった一人「パパ」だけにしておきたいと思っているから。
「反対も何も一緒に暮らしてて事実婚状態じゃ今更俺が何言っても意味ねぇだろ。ってか俺だっていい年の男と女の仲に口挟むほど野暮じゃねぇよ」
「……ちょっと前までものすごいど野暮だったくせに」
お母さんが久賀さんとお付き合いを始めたのは、パパが天国へ行ってから数年後のことだった。フルタイムでばりばり働くお母さんに負けないくらい当時アルバイトをしまくっていた雅くんは、お母さんが「久賀さんと同居を考えている」と告げると「大黒柱ってのは家に二つもいらねぇんだよ」と言い残して家を飛び出してしまった。しばらくそのまま友達や彼女の家を転々とした後、雅くんはアパートを借りて家賃も大学の学費も生活費もすべて自分で工面していた。
「ねぇ雅くん。わたしって、ここにいてもいいのかなぁ?」
苦労しながらもちゃんと自活している雅くんを見て負い目もあったし、お母さんと久賀さんの新婚生活を邪魔しているのだという申し訳なさもあった。久賀さんがほんとうにわたしに良くしてくれるからついつい甘えてしまっているけれど、さすがに大学生になったらわたしも雅くんみたいに家を出たほうがいいのかな、と常々考えていたからついぽろっと口を出た言葉だったけど、聞き届けた雅くんは怖いくらいの顔で迫ってきた。
「お前……あいつに何か言われたのか」
「え?」
「何か邪険にされるようなこと言われたのかって訊いてんだよ!」
「ややや、ないない」
久賀さんは実母であるお母さんよりわたしにやさしいくらいだ。
「まさか……ここに居辛くなるようなことを、あいつにされたのかっ」
「じゃなくて!」
落ち着かせるために両手でぽんぽんと雅くんの胸を叩いてから、最近ちょっとだけ気に掛かっていたことを伝えてみた。
「お父さ……久賀さんってお母さんと幼馴染でずっとお母さんのことが好きだったみたいなこと……それもお母さんがパパと結婚しちゃってからもずっと好きだったみたいなこと、聞いたじゃない?」
久賀さんの従兄弟で、お母さんと久賀さん2人の共通の幼馴染でもあるおじさんからこっそり聞いた話だ。
「つまりさ、久賀さんから見たら所詮わたしなんて、お母さんの子供である前ににっくき恋敵の子供であるわけじゃない?なのにお父さんはわたしにとってもよくしてくれるけど、わたしはそれに甘えたままでもいいのかなぁ」
「……なんだそんなことかよ」
脅かしやがってと毒づく雅くんに頭をぼすぼす叩かれた後。
「そんな小せぇこと気にするような男だったらそもそも俺は許してねぇよ。まぁでもあいつとの同居が嫌になったら俺ンとこ来ればいいだろが。ブス一人の面倒くらい見てやら」
「……嫌だよ。だって雅くんのアパート、どうせ同棲してるおねえさんもいるんでしょ」
派手な雅くんの歴代のカノジョさんたちは、みんな負けず劣らずの派手なおねえさんたちだった。アイメイク盛り盛りゴテゴテでゴージャスな髪の、いわゆるギャル系の。カノジョさんの何人かに会ったことはあるけれど、その誰もに「これがほんとに雅寛の妹なの?」と失笑交じりの目で見られた。
「俺がオンナ切らすわけねぇだろ、ってか人様の厚意になに迷惑そうな顔しやがってんだよっ」
「や、乱暴すんのやめてよね」
わたしの頭をわしゃわしゃ乱暴にかき混ぜていた雅くんが、壁の時計を見て
「やべ。もう時間だ」
と言って玄関に駆け出す。
「じゃあな。ああ、それとブス実」
「初実!」
「ブス実だろ。おまえってさ、一生処女貫く予定?」
「は……!?」
「いくら男いねぇからってあんなダサいブラジャーないわ、俺は入れ物より中身重視だけどそれでもおまえのはやばい。あんなお嬢風に着飾ったところで男もドン引きな雑巾みたいなブラジャーつけてるなんて、女になる前に女捨ててるようなもんだ」
普通兄妹でここまで土足で下着の話題吹っかけてくるようなひとっているんだろうか。だいたい雑巾ってなんだ。使い古しだけどそこまでひどくないし!
「お、大きなお世話よっ」
その雑巾を和泉くんに見られたことまで思い出して暗澹たる気持ちになる。
「そんなんじゃいつまでたっても男出来ないで枯れていくだけだろが。母ちゃんとこでちょっとマシになるようなの買って貰えよ」
「うるさいな、お母さんのお店で扱ってるのはマダムさまとかおねえさま向けの高級ランジェリーだけだってば!ってか大きなお世話だし、だいたい妹にそんなこというなんてセクハラだよっ」
「なにがセクハラだ。ちんちくりんの分際で。あ、そうだ」
リビングへ取って返して何かを手にして戻ってくる。
「忘れてた。これやるよ」
投げつけられた紙袋を慌てて受け取った。
「今付き合ってるオンナ、仕事先で試供品もらえるんだとさ」
「試供品?」
「なんだその、化粧品カウンターっつうのか?そこでいろいろな。てめぇにもおこぼれやるよ」
じゃあなと言って乱暴に扉を開けると、駆け出すように雅くんは出て行った。
「もう、雅くん何なのよっ」
「あら雅は帰ったの?」
お母さんが濡れた髪を拭いながら洗面所から出てきた。
「うん。……これ何だろ」
ぐしゃぐしゃの汚い紙袋に無造作に入れられていたものを取り出すと。ひとつはピンク色の香水瓶、それからもうひとつは花の香りのする石鹸だった。前に付き合ってると聞いたのはお洋服のショップ店員さんだったから、また彼女が変わったのだろうか。
香水瓶はさくらの花びらがあしらわれたとても素朴な形で、手首に吹き付けてみると咲きたてのみずみずしさ、馥郁としたやさしさ、そこに一滴おとされた官能的な甘さが絶妙なバランスで複雑に交じり合う、乙女心をくすぐる上品でやわらかい香りがした。しかもいかにも香水というくどさもなくこれなら高校生のわたしでも普段使いできそうだった。
「まあこれ」
雅くんと瓜二つの釣り目を見張って、お母さんが香水瓶を手に取った。
「お母さん知ってるの?」
「知ってるわよ、フランスの有名なコスメブランドのものだもの。たまに自分へのご褒美って名目でここのボティミルクとか買ったりするわ」
「もしかして最近使ってるラベンダーの匂いのやつも、ここの?」
「そうそう。プロヴァンス系の自然派アイテムを扱っているお店で。ほらだから香水の香りもやさしいでしょう。……それにしても今付き合ってる子の影響かしら?こんな品のいいもの、とても雅のチョイスだと思えないわね」
「へぇすごいね。こんなのサンプルでもらえるんだって」
怪訝な顔するお母さんに、お兄ちゃんがカノジョさんから分けてもらったものだと説明すると、呆れた顔を返された。
「馬鹿ね、こんな立派なものがサンプルなわけないでしょ。どう見ても既製品じゃない」
「でも雅くんは」
「あのねぇ。昔から雅が天邪鬼なことくらい分かってるでしょ?初実に買った誕生日プレゼントよ。照れくさかったからラッピングもしないでこんな無造作に薬局の袋なんかに突っ込んできたのよ」
「……まっさかぁ」
けたけた笑うと、お母さんは溜息をついて「冷蔵庫の中見てみなさいよ」と言う。
「中にケーキ入ってるわよ、初実の好きな四谷堂の」
ちょっとだけわたしを責めるような目で言った。
「去年の失敗悔やんで今年は折角苦労して予約とってまで買ってきたのに、肝心の初実がいつまで待っても帰ってこないから不貞腐れてたのよ、お兄ちゃん」
「……だって。そんな」
「まあ連絡も寄越さずに勝手に初実と一緒に食べるつもりでいた雅も悪いけどね。男ってのはサプライズが大好きな生き物なのよ、あんなつっぱったふりした雅もおんなじ。けどサプライズってのはこんなふうに行き違ったときが悲惨よね」
「……じゃあ今からでも一緒に食べてけばよかったのに」
「これからバイトなんだって、深夜勤の」
「雅くん、携帯屋さんの契約社員とかもやってなかった?働いてばっかで卒業出来んのかな……」
「そうよね、適当にやってそのままぽんと卒業できるような大学じゃないのにね。学費のために働き詰めで単位落としたら本末転倒もいいとこよね。それでも頑固だから、意地でもわたしと芳くんから学費受け取らない気なのよ、全く」
「そんなお兄ちゃんが血の汗流して稼いだお金で用意してくれたんだから、お礼のメールくらいしときなさいよ」
寝る前は美容に悪いからときっぱりと相伴と断ったお母さんの横で、ひとりさみしく16歳のバースデーケーキをむさぼる自業自得の夜になった。