6話 --- 本日の主役
「あ、あ、あの。上野初実という者なのですが……」
相澤くんに指示されたとおり名乗ってみる。声が裏返っていたので不審に思われないだろうかと危惧したけれど、ホテルクラークのおねえさんはそれだけですべてを理解したかのようににっこり微笑んでくれた。
「上野様。お待ちしておりました。ではこちらへどうぞ」
そういっておねえさんはエレベーター前へわたしを案内すると、操作ボタンに備え付けられていたカードリーダーにわたしが持っていたカードキーを通す。
「お下りになるときは不要ですが、こちらから上がられるときはセキュリティ上、カードの読み取りが必要になります」
「は、はいっ」
ここはスイートルームの宿泊者だけが利用出来る専用のエントランスだった。まさにホテルの顔ともいうべきメインエントランスはホテル真正面にあってドアマンが何人も待機するおおきな玄関口であるのに対して、ここは人目を避けるように本館左手の奥まった場所にひっそりとあった。スイートルームを利用するVIPが他の宿泊者と遭遇せずにスムーズにチェックイン出来るようにという配慮と、社会的地位のある宿泊者を万全に警備するという安全上の問題で、こうして一般客とは別の専用エントランスが用意されていた。メインエントランスよりいっそう落ち着いたシックな内装は黒を基調に纏められていて、ぴかぴかに磨きこまれた大理石の床も水がゆるやかに伝い落ちる壁面も目にうつくしい。ここにいるだけでも洗練された高級ホテルの雰囲気が味わえた。
「ではこちらから直通の特別階にお通しいたします。こちらのエレベーターはスイートルームのある18階から20階のみに止まる、特別階ご利用のお客様専用のエレベーターでございます。本日上野様がご利用の18階は、専任コンシェルジュとして松崎が常在しております。ご不明なことご不便なことございましたらなんなりと松崎にお申し付けください」
そう告げてヨーロッパ調のクラシックな内装のエレベーターにわたしを誘導すると、扉が閉まるまでずっと頭を下げて見送ってくれた。
ひとりきりのエレベーターの中で急にどっと疲れが沸いてきて、ぴかぴかの鏡に寄りかかってしまう。帝宮ホテルの特別階にあるのは国内外の有名な俳優やミージュシャンなどのセレブはもちろん、国賓や公賓も利用する国内随一の客室だ。泊まりに来るのは難しいにしてもいつかすてきなお部屋を生で見てみることができたらいいのにな、なんて思っていたけれど。まさかこんな形で実現するなんて。
『上野さんの携帯はこの部屋に置いてあるんだ。どうしてそんなことをしたのかって?理由を聞くなんて無意味なことはやめたほうがいいよ。それよりも早く行くことだね。広い部屋だから一人で探すのはきっと難儀するよ?さあ行っておいで』
そう言って相澤くんが渡してきたカードキーが、まさか特別階のカードキーだなんて思ってもいなかった。庶民のわたしにわざわざ帝宮ホテルの特別階へ携帯を取りに行かせるなんて冗談なのか意地悪なのか嫌がらせなのかもうまったく意図は分からないけれど、なんにせよ遊びや余興の類のために特別階の部屋を使うなんてやっぱりお金持ちの感覚ってわたしには理解不能だ。
「さっさと携帯を取ってとっとと帰ろう……!」
決めたところで18階に到着した。
怒り交じりの決意を胸に、今日己の身に起きた不運に立ち向かうつもりで敢然とエレベーターを降りた。けれど、フロアに一歩足を踏み出した瞬間。自分の置かれた状況も自分が受けた仕打ちも忘れて思わず感嘆の言葉を漏らしていた。
「すごい……!」
そこから見えた景色があまりにも日常とは別世界すぎて一瞬で魅了されてしまった。特別階のラウンジはホテルの上階と思えないほど天井が高く、壁一面は大きな嵌めこみの硝子になっていた。そこから見えるのはうつくしい夜景のパノラマだ。幾億もの煌々とした光の粒が力強く輝く眩くも幻想的な景色は、使い古された「宝石箱のような」という表現が少しも陳腐に思えないほどの絶景だった。この夜景がより楽しめるようにという配慮なのかラウンジの照明もほどよく絞られていて、特別階利用者のみ自由に利用できるというバーカウンターやティールームもこの夜景を眺めるのに絶好の位置で配置されていた。この空間だけでも十分「特別」で贅沢だ。
ここに立ったら、誰もがあたかも自分が選ばれた人間であるかのように錯覚してしまいそうだ。
「お待ちしておりました、上野様」
立ち尽くして夢のようなラウンジに見入っていると、英国の執事さんみたいな格好をした初老の素敵な紳士がわたしを出迎えてくれた。背筋の伸びた佇まいもうつくしい男性のコンシェルジュさんだ。渋みの掛かった落ち着いた声といい、穏やかな物腰といい、とても心地よい。さすが国内最高ともいわれる伝統と格式の帝宮ホテルだ。
「ではお部屋までご案内いたします」
そういって前を歩く背の高いコンシェルジュさんの後ろ姿をみて、ぼんやりした夢見心地からはっとさめた。
「……あの。もしかして松崎のおじさま……?」
わたしが覚えている姿よりいくらかお年を召していたけれど、ロマンスグレーの色っぽい髪と堂々としながら紳士的で優雅な立ち振る舞いは記憶の中のその人と重なる。
「えっと、覚えていらっしゃいませんか、わたしおじさまには小さい頃とてもよくかわいがっていただいて……。それでよくおじさまから素敵な絵本をいただきました。ル・カインとかデュラック挿画のきれいな絵本をいくつもいくつも」
振り返ったコンシェルジュさんがにっこり笑う。すこし砕けたその笑顔に、おじさまもわたしが誰なのか気付いているのだと分かる。ほっと安心しかけて、けれど自分の野暮さに気付いて慌てて頭を下げた。
「そうだ……ごめんなさい。お仕事中にこんな話」
「上野様、こちらでございます」
そういって客室に通された。その部屋は恐ろしく広い部屋だった。入ってすぐの広間には6人掛けのダイニングテーブルがあって、おそらく寝室の入り口だと思われるドアの手前にはそれとは別に座り心地のよさそうな布張りの豪華なソファが並んでいた。カーテンの開かれた窓は大きくここからもきれいな夜景が一望できた。家具はアンティークな木目調のもので統一されていて、ラグジュアリーでありながらも落ち着いた雰囲気はまるで英国のカントリーハウスの一室のような趣きだ。
「お飲み物をご用意いたしましょう。なにかご希望は?」
「あ、いえ、その」
「では私が何かお口に合いそうなものをご用意しましょう」
そういって退室したおじさまがまた部屋に戻ってきたとき、手にしたトレイの上には瓶入りのジュースとグラスが載っていた。それはアプリコットのネクターだった。子供の頃からわたしが大好きな。思わずわたしが仰ぎ見るとおじさまは昔と変わらない魅力的な顔でにっこり笑ってくれた。
「……上野くんのところの初実ちゃんだろう、勿論覚えているとも。名前を見てすぐに気付いたよ。けれど、こういう場で声を掛けるのは無粋かと思ってね」
記憶の中のままのやさしい声で語りかけてくれる。
「いえ、わたしのほうこそ。いろいろ気が回らなくてすみません」
「しかし初実ちゃん、素敵なドレス姿だね。お姫様の出てくる絵本が大好きだった君も、もうこんなドレスが似合う素敵な女性になっていたんだね」
感慨深そうな目でわたしをみるこの松崎さんはそのむかしパパの上司だった方だ。わたしがまだ幼いころはよくお家に招いていただいたり、一緒にお夕食やお茶をたのしんだりと家族ぐるみでお付き合いさせてもらっていた。両家族の中でもいちばん年少だったわたしは、おじさまから誕生日やクリスマスのたびに贈り物をいただき、娘さんの仁美さんからは「わたしに年の離れた妹が出来たみたいね」と揶揄されるほどかわいがってもらっていた。
「おじさまからいただいた絵本、どれも大事にしています。絵がとってもきれいでいまでも宝物です」
「それはよかった。上野くんも、君に何度も『Cinderella』をせがまれて諳で覚えてしまったとよくぼやいていたよ」
楽しい思い出を懐かしむように言った後、不意におじさまの顔が翳った。
「上野くんのことは……残念だったね。あれから何の力にもなれずにすまないと思っていたんだ」
「そんな!おじさまはいまだにお年賀の挨拶もくださってて母も喜んでいます。見てのとおりわたしも、それに家族もみんな元気にしていますよ」
「それはなにより。ところで初実ちゃん、今は洋書を読んだりしているのかい?」
幼い頃、絶対パパやおじさまみたいに英語が得意になるのだと豪語していた自分を思い出し、恥ずかしくなってしまった。
「……ごめんなさい。実はおじさまからいただいた絵本も、いまだにその、ろくに読めなくて。もっぱら眺めているだけなんです」
「かまわないさ。装丁がきれいなものならこの前家を整理していたらまた出てきたよ。よかったら貰ってくれないか?無理にとはいわないが」
「いえ、うれしいです!そうだ、仁美おねえさんはいまでも翻訳のお仕事を?」
「ああ。嫁き遅れがようやく三年ほど前に片付いたんだが、イギリスの男と結婚してロンドンに行ったきりだ。帰ってきやしないよ。家内はさびしがっているが私は生涯独身のままでいる気かと危惧していたからようやく肩の荷が下りたような気分さ。初実ちゃんは今16くらいだったか?」
「はいそうです」
「すっかりきれいになってしまってね。見るからにかわいいお嫁さんになりそうな君なんて、きっともうそのうちすぐにお嫁に行ってしまうんだろうね」
「いえ、そんな、さすがにまだ全然予定ないですよ!」
自分でも悲しいくらいの否定に、おじさまはやわらかく笑うと。
「思いがけずに会えてうれしかったよ。ではそろそろ無粋な年寄りは退散しましょう」
「あ、あの、わたしもすぐ出ますんで!」
そう、おじさまに久しぶりに会えたのはうれしかったけどのんびりしている場合じゃない。
「わたしの探し物がここにあるって聞いてきたんです。それがみつかったらすぐに帰ります」
おじさまは不可解そうな顔になる。わたしにもよく分かっていない話だ、そういう顔して当然だろう。
「だいたいここはわたしみたいなお子様が泊まっていいような場所じゃありませんし。…いずれだんなさんと、こんな素敵な部屋、泊まることができたらいいなぁとは思うけど」
おじさまはなにも聞かずに微笑みだけを返してくれた。
「では是非素敵なご夫君とご一緒にお越しください。願わくば私がまだ現役でいるうちに」
「……努力します」
ちょっとだけ気障に胸に手を当ててお辞儀すると、おじさまは音も立てずに優雅に部屋を出て行った。
「努力します、か」
真っ先に脳裏に思い浮かんだのはひとつ年上の幼馴染。いつもは思い出すたび幸せな気分になるのに、今は重たく胸を塞いでくる。なにもはじめて付き合った人とそのままゴールイン出来るなんて本気で思っているわけじゃないけど。でも大好きで付き合っているなら、いつか未来にそういう幸せな結末があるのも素敵だなと夢見ることくらいは。
「忍ちゃん……」
じわりとまた涙が浮かんでくる。
「……わたしって、ちゃんと忍ちゃんの彼女なのかなぁ……?」
今度は堪えようと思っても人目がないせいで簡単に目からぽろぽろこぼれてしまう。こんなんじゃきっと、携帯が見つかっても忍ちゃんに電話なんてできない。そんな弱気な心を奮い立たせるようにほっぺたをぱちんと叩くと、まずはパーラーから見て回った。
「……まったく、どこに置いてあるのよ」
パーラーのテーブルにもダイニングのテーブルにもない。ソファを見てもチェストの抽斗を探ってみても、携帯電話なんて出てこない。ジュニアスイートはスイートルームより等級が下の客室らしいけど、それでも床面積はおそらく我が家のマンションと同じくらいはある。一人で探し物をするには無謀なくらいの広さだ。念のためトイレや大理石のバスルームも覗いてみたけれど、その豪華さにうっとりするだけで望みのものは影も形も見当たらなかった。
「もう、どこよ、宝探しかっての!」
いらいらしながら最奥の扉を開けると。やっぱりそこはベッドルームだった。瀟洒なランプと豪奢なソファが添えられた部屋の中央に、真っ白な羽根枕が仲良くふたつ並んだおおきなダブルベッドがある。いかにも寝心地よさそうにふんわりと盛り上がったベッドの上。そこにこのホテルには似つかわしくないものがあって思わず凝視してしまった。
「なんで……こんなところにクマ?」
ベッドの上には所狭しとクマのぬいぐるみが並んでいた。大きいもの小さいもの、定番の茶色から黒、ピンク色など色とりどりで、裸だったりお洋服をきていたり、手に小鳥を乗せているものもある。種類はさまざまだけど、耳にはみんな『Steiff』というタグがついていた。どれも造りが丁寧でとってもかわいい。でも上質な大人の空間である帝宮ホテルの客室にぬいぐるみはいささか不似合いだ。まさかホテルの装飾じゃないだろうし、それにしたってこんなにたくさん、誰が持ち込んだのだろう。不審におもいつつ、いちばん手前にあったダッフルコートを着たクマを手にとってみた。
「これ、パディントンだ」
小学生のときから愛読している童話の主人公だ。ちいさいころはこのパディントンがたべるイギリスのたべものがとてもおいしそうで、いまは「つねに正しくあろう」というパディントンの性格がいとおしくてだいすきになったお話だ。
「このぬいぐるみ、よく出来ててかわいいなぁ」
トレードマークである帽子まで忠実に再現されたクマをしげしげと眺めていると。急にばん、と大きな音がした。突然のことでその物音の大きさにびっくりしてバランスを崩してしまう。いつもだったらこれくらいで倒れたりしないのに、慣れない10センチ以上のピンヒールに足を取られてコケそうになりクマを抱いたまま顔面からベッドにダイブしてしまった。その間にも荒々しい足音がどんどん近づいてくる。わたしがいる寝室の前の扉でいちどぴたりと止まると、焦りの滲んだ荒々しい勢いで扉が開かれた。
わたしは突然の侵入者を、そして相手はクマを抱きしめてベッドに埋もれる私を、不審そうに見つめる。けれどお互い誰であるのか視認しあうと息を飲んだ。
「こ、こうだい!」
「……上野っ……!?」
肩が上下するほど息を乱し、いつもは前髪がさらさら流れるきれいな額に汗まで浮かべて立ち尽くしているのは、本日の主役、高大広海だった。