苗字が変わることとなりました。
長いこと続けていたひとり暮らしに、とうとう終止符を打つ日が来た。
「あちち…」
やや温めすぎたマグを携えながら、足早にソファへと向かう。
窓から入り込む風は春の訪れを告げるように柔らかい。
思い返せば、ひとり暮らしを始めたのは2年くらい前のこと。親の反対を受けながらも始めたこの生活は楽しいことばかりではなかったけれど、充実はしていた。…たぶん。
ひとり暮らしから一転。
家庭を持つこととなりました。
付き合って、1年と少しの彼。出会いはひょんなことで、その当時から考えると今まで関係を保てていることが不思議なくらい。
背が高くて、優しくて。時々ぶっきらぼうなあの人がしたプロポーズは簡潔且つ明瞭で。なんだか様子がおかしいなあと思っていたら、突然に『結婚しよう』と言い出した。真っ昼間に彼女の家で言うことですか…?
その時は開いた口が閉まらなかった。嬉しさと驚きと、言葉にし難い感情でいっぱいになったことを覚えてる。
そんな日さえも過ぎて、互いの家族への挨拶も済ませた。あとは式場選び、その他諸々の準備を進めるばかり。
…と、その前に結婚を伝えておくべき友人たちに連絡しなくては後が怖い。
マグに入った暖かいココアが手先に温もりを落とす。ゆっくりと口元に寄せると、甘く薫るチョコとミルクが鼻をくすぐる。
にしても、わたしが結婚とは。
神様って方は変わっていると思う。
マグから口へと流れ込んだそれは、なめらかな感触と同時にやはり温かさを伝える。ほう、と吐いた溜息はどことなく甘ったるい。
「……結婚かあ」
思いもしなかった事態に、実際のところ対応仕切れていない事実。
彼を愛していない、ということは決してない。むしろ告白によって今までとは違った、彼への思いが芽生えた気さえする。
新たな生活、場所、状況。…いい大人が不安がっていてどうするのよ。何もないところから、ふたりでわたしたちの家庭を作っていくのだろう。怖がることも、悲しむこともないのよ!わたし!
…と、考えても理解するのになかなか時間がいることも事実。当のわたしでさえこんなに混乱するのに、友人たちは突然の報告をどうとらえるのだろうか。
マグを携帯に持ちかえると、電話帳を開き友人の名前を目で追う。
連絡っていうけどみんな忙しいだろうし、とりあえずメールしとくか…何て言おう。あー、親のときより緊張する!
学生時代の友人、仕事先の人々、先輩、後輩。早く言えって怒られるかな。紹介しろって要求されるかな。いろんな人の顔と声が流れてきて、そしたら皆一様に、
「わたしのこと苗字呼びだ……」
つい笑ってしまった。
学生時代は勿論のこと、仕事先でも苗字もしくは苗字をもじった愛称で呼ばれていたな。
結婚ってことはあれでしょう、苗字も変わるってことでしょう?ここに来て苗字が障害になるとは、思い付かなかった。
うわーなんて呼ばれるんだろう。まさか旧姓じゃないだろうし、名前ってことも今更感があるし…。なにより慣れるのかな、わたし。
呼ばれ慣れた苗字から新しく変わるわたしの苗字。
「わたしの…だって」
なんでか暖かくなる。
…そういえば、彼だって初めは苗字呼びだった。
付き合って初めて、ぎこちなく名前を呼ばれたとき。嬉しいような照れ臭いような、やや上釣りながら返事をしたっけ。
気がつくと、窓からは西日が差していた。春も近づいたとはいえ、日が沈む時間はまだ早い。テーブルの上に置きっぱなしにしたマグもやや冷めて、薄い膜が張り始めている。
彼の仕事が終わったらわたしの苗字が変わることに関して訊いてみようかな。…なるようになる、って言われるのがオチか。
どことなく暖かくなった気持ちに任せて立ち上がる。さて、夕飯の買い出しに行かなくては。
…とりあえず、ご連絡メールの出だしは決めた。
『本文/苗字が変わることとなりました..』
おしまい。
日本史の授業で女性の結婚について取り上げられたことがありました。特に話を聞いていたわけではないけれど、なんだかひっかかって考えてるうちに捻り出したような話でした。
自分の苗字がお気に入りのわたし。婿養子になってもらおうかしら。