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午前三時、影が息をする。
午前三時。
それは、世界がいちばん薄くなる時間だ。
古い団地の五階。
僕の部屋の壁は、夜になるとやけに静かだった。冷蔵庫の音も、車の走る音も、すべてが遠のいて、代わりに“何か”が近づいてくる。
最初は気のせいだと思った。
三日前の午前三時。
壁の向こうから、ゆっくりとした呼吸音が聞こえた。
すう……はあ……
すう……はあ……
隣の部屋は空室だ。半年も前から、誰も住んでいない。
それでも、音は毎晩同じ時間にやってくる。
昨日、僕は決心した。
壁に耳を当て、スマホで録音した。
音は、確かにあった。
けれど再生すると、呼吸音の奥に、かすれた声が混じっていた。
「……気づいた?」
ぞっとして、録音を止めた。
そして今夜。
午前三時ちょうど。
呼吸音が、壁ではなく――
僕の背後から聞こえた。
すう……はあ……
振り向く勇気はなかった。
代わりに、スマホの録音ボタンを押した。
画面には、はっきりと波形が揺れている。
だが音は聞こえない。
静まり返った部屋の中、
スマホのスピーカーから流れたのは、僕の声だった。
「……気づいた?」
その瞬間、気づいた。
あの呼吸は、
ずっと前から、この部屋にあったんじゃない。
僕の中にあったんだ。
背後で、ぴたりと呼吸が止まった。
そして、
今度は僕が、ゆっくりと息を吸い込んだ。
すう……はあ……
壁の向こうから、
誰かが耳を当てる気配がした。




