春華と夏波
彗が階段を降りると、トーストとバターの美味しそうな匂いがダイニングに漂っていた。
すでに宵は椅子に座ってテーブルに置かれた皿の上のトーストを齧っており、彗をチラリと横目で見た後にテーブルに視線を戻した。
(ふっ、夜中に驚いて飛び起きるとも知らずに……その余裕そうな顔も今日までだよ。お兄ちゃん)
彗はふふん、と少し鼻を鳴らしながら自分の椅子に座り、トーストを齧り始めた。
「あれ?」
キッチンの方から誰かの声が聞こえ、彗は驚いて声をあげた。
この時間、たいてい両親と祖父母は医院の方に行ってしまっているからだ。
医院と言うのは「月詠医院」のことで、宵と彗が暮らす月詠家が代々経営している医院のこと。
月詠家に受け継がれてきた魔法は主に弱った人間の体や心を回復させるもので、その魔法を医院にきた患者に現代医療と併せて施している。
魔法で癒されてるとは知らず、他の病院より早く体が回復すると感じている患者達のおかげで月詠医院の評判は良かった。
「魔法は人を癒すもの」という考えの月詠家は、魔女の一族ながらも過去に迫害を受けることも、周囲の人間に魔女だと気付かれることもなく、こうして現代まで繁栄してきたのだ。
しかし、評判が良いということは忙しいということ。
子供達の朝食を準備して早々に出勤するのが両親と祖父母の日課となっていたので、この時間に家に自分と兄以外がいるわけがない、と彗は考えていた。
「ばあっ!」
「やっほー彗ちゃん」
キッチンの奥から、二人の女性が姿を現した。
「春華おばさん!夏波おばさんも!」
彼女達は彗の叔母で、二人とも母の姉。
春華と夏波は明るい雰囲気のはつらつとした女性で、おっとりした雰囲気の母、秋奈とはあまり似ていなかった。
「春華おばさんっ!!あーそーぼっ!!」
彗は春華の元に駆け寄り、春華の脚に顔を埋めた。
春華はそんな彗を受け止め、「よしよし」と頭を撫でた。
彗はよく遊んでくれる春華が大好きで、出会うと必ずこうして抱きついていた。
「今日はクリスマスイブでしょ?夜のパーティのための料理の仕込みを早くからする為に、昨日の夜から帰ってきてたのよ」
春華は料理が得意で、よくこうして実家に帰ってきては腕を振るっていた。
「春姉ったらはりきっちゃってさ。七面鳥焼くんだーって。私はその巻き添えってわけ」
姉の方を見ながら肩をすくめて苦笑いをする夏波は、よく彗のことを遊びに連れて行ってくれて、叔母というよりは歳の離れた姉のような存在だった。
彗は、そんな二人のことが幼い頃から大好きだった。
「ところでブー子は?」
「冬子おばさんなら、まだ寝てると思うけど……」
夏波の質問に対し、宵が答えた。
「かぁー、あの子ももうすぐ30になるって言うのに情けない……」
夏波は再び肩をすくめた。
冬子は春華、夏波と同じく彗と宵の叔母で、末っ子だった。
彼女達は四姉妹で、春華、夏波、秋奈、冬子の順に月詠家に産まれた。
冬子は姉の春華や夏波とは違いまだ実家で暮らしており、たまにアルバイトや買い物に出る以外は自分の部屋に籠っている。
その体型から、春華と夏波からは「ブー子」という蔑称で呼ばれていた。
「ねぇ、二人ともいつまでいるの?」
彗はニコニコと笑顔を浮かべながら二人に聞いた。春華と夏波は幼い頃からよく遊んでくれたので、彗は二人が大好きだった。
「それが、今日の夜には帰っちゃうのよ」
春華が少し残念そうに微笑みながら答えると彗は「そんなぁ……」と項垂れた。
「ね、ね、それなら2人ともこの後遊ぼうよ!どっか連れてってよ!」
彗のその言葉を聞いて、宵が口を開いた。
「彗、話を聞いてたのか?おばさん達は忙しいって言ってるだろ。それに、今日は稽古の日じゃないか」
「あー……」
宵の言葉に、彗は顔を曇らせた。
彼女は完全に忘れていたが、今日は近所の道場で剣道の稽古がある日だ。
「稽古……?」
「ほら、言ってたじゃん。この子達剣道やってるんだって。なんか昴さんが昔やってたとかで」
首を傾げる春華に、夏波が説明した。
昴は宵と彗の父のことだ。
「ほら、9時には始まるんだから。早く準備しろよ」
「はぁーい……」
彗はトーストを口の中に頬張り、席を立った。
宵は妹が食べた皿や食器を片付けようとしたが、夏波が「いいよ、やっとくよ」と声をかけてくれたので「ありがとう」と頭を下げ、彗を追った。
二人が玄関を出ていく足音が消えた後、ダイニングに残った春華と夏波の表情は、徐々に無表情へと変化した。
可愛い甥と姪に向けていた優しく暖かい笑顔は消え失せ、二人は無表情のまま顔を見合わせた。
「……今夜、ね」
春華の低い声に、夏波は黙って頷いた。




