お兄ちゃん、絶対にモテないよね。
「アッ、アッ!これは違うんです!ほんとに違うんです!私はただ、彩光寺さんがここに残していった残り香を嗅いでいただけでっ!!」
「それ、私の認識と何も変わらないけど?」
彗は全身から滝のように冷や汗が落ちるのを感じた。
最も見られてはいけない瞬間を、最も見られてはいけない人物に見られてしまった。
気の利いた言い訳も思いつかない。
だが、人間が床に残した残り香を四つん這いになって嗅いでいる瞬間を他人に見られたら、誰も言い訳なんて思いつかない──彗はそう思った。
「……なに、あなた私のファンなの?」
「ッ!!!」
それだ、と彗の頭の中に雷が落ちた。
「はい!!私、彩光寺麗子さんの大ファンです!」
彗の言葉を聞いた彩光寺は、満更でもなさそうに口元を緩めた。
「ふーん、それでスタッフに応募したってわけね」
「はい。私の高校にヴェルサイユ・ロゼが公演に来てくれたときに女優の彩光寺麗子さんの演技に感銘を受けました。そのあとSNSで広告を見たときには『ぜひ働きたいな』と思い、応募しました!」
「……いやにスラスラ言葉が出るのね」
168回練習してよかった、と彗は思った。
「そう……私のファンなのね。あなた」
「は、はひっ!大ファンです!」
「ふぅん……」
彩光寺は嬉しそうに、しかし人を見下すような笑顔を浮かべながら彗のことをじっと見つめた。
「……ねぇあなた、私のどんな部分が好きなの?」
「……エッ!?」
ここで下手な答えを言って彩光寺に怪しまれることが、自分達の計画にとって非常にまずいことは彗にでもわかる。
「何固まってるのよ。ファンなんでしょ?」
「えっとぉ……」
彗は頭をフル回転させた。
体を使うのは大得意だが、頭を使うのは得意ではない。
とても頭が良い、自慢の兄の顔が彗の中に浮かんだ。
しかし今は自分一人で切り抜けるしかない。
「彩光寺さんの、香りがとても好きです……」
「でしょうね。でもそれはさっき見たから知ってる。それ以外よ」
彗が必死に捻り出した答えは、時間稼ぎにすらならなかった。
彗は彩光寺の姿を見た。
美しい顔、美しい髪、完璧なスタイル。
どこをとっても最高の美女。
(そうじゃん、褒めるところなんていっぱいあるじゃん!)
彗は落ち着きを取り戻し、勢いよく口を開いた。
「えっと……彩光寺さんはすっごい美人で、髪も超綺麗で完璧!スタイルもヤバいし……あ、お肌も綺麗!美容に気を遣われているんですよね?私なんて貧乏過ぎて家にシャンプーと石鹸しかなくて、何のケアもできてないんです!だから彩光寺さんの美貌が、超羨ましいです!」
言い終わった彗ははあはあと息を切らし、自分はやり切ったという達成感を感じていた。
「……それだけ?」
「えっ!?」
彗は驚愕した。ここまで褒められた人間が「それだけ?」と返してくるとは予想してなかったからだ。仮に自分が他人からここまで言われれば、嬉しくて数日は上機嫌でいられるだろう。
だが彩光寺はその美しい顔の眉間に皺を寄せ、明らかに不機嫌な表情を浮かべている。
(えっ、えっ、こんなに褒めたのに、何で怒ってるの!?)
「あなた、さっき私の『演技に感銘を受けた』って自分で言ってたじゃない。私の演技はどこが良かったの?」
彗は「しまった」と思い額に冷や汗を浮かべた。
あの志望動機の文言は宵に考えてもらったものをただ丸暗記していただけで、意味は全然知らない上に考えたこともなかった。
芸術鑑賞会でも彩光寺の演技はほとんど見ていなかったし、「かんめい」という言葉は書けないし意味も知らない。
「えっとぉ、あのぉ……その、なんか、すごいなって……あはは……」
「どの場面?どのセリフ?」
「……………」
彗は完全に言葉に詰まってしまい、彩光寺は「チッ……」と舌を打った。
自分の嘘がバレたと悟った彗は、目に涙を溜めて俯いた。
「何よあなた。劇団で働こうと思ったくせに、好きだっていう女優がどんな演技をやってるかも知らないの?劇団員として全然やる気がないのね。バカじゃないの?」
「………」
彗はぐうの音も出なかった。
やる気がないわけではない。自分がここに来ているのは神器奪還の潜入調査としてであり、彼女はそれに関してはやる気に満ち溢れている。
だが当然そんな説明ができるわけないので、彗は彩光寺の言葉に反論できずに俯くことしかできなかった。
「結局、あんたも『外側』しか見れないのね……」
彩光寺が小さな声で呟いたその一言は、彗には聞こえなかった。
「もう、いいわ」
苛立った彩光寺は彗を睨みつけ、髪を手で乱暴にかきあげて言った。
「あんたみたいなバカは、明日からもう来なくていいわ。ヴェルサイユ・ロゼの品が落ちるから」
彩光寺は最後に彗を横目でひと睨みし、楽屋のドアをバタンと閉めて出ていった。
「……………どうしよう」
胸が押しつぶされそうなほどの「やってしまった」という感情に呑まれながらも、彩光寺が部屋を出て行く瞬間、彗は確かに見た。
首から胸元へかけて何かを下げていることを示す紐が、彩光寺麗子のうなじにあるのを。
──────────────────
「ただいまぁ……」
「おお、おかえり。夕飯できてるぞ」
18時ごろに彗がアパートに帰ってきたとき、宵はフライパンで焼いていた餃子を皿の上に移している最中だった。
「これ」
彗は宵にぱさり、と一枚の封筒を投げるように渡した。
中には1万円札が一枚入っており、宵は「ありがとう。お疲れさま」と言ってその中身を「車購入資金」と書かれた封筒の中に移した。
その中には二人がこれまで懸命に節約し、働いて稼いだお金が貯められている。
彗は朝8時から夕方17時まで、途中1時間休憩ありで日給1万円。時給換算すると1250円で働いていた。
「はあ〜……」
彗はふらつきながら妙な足取りで部屋の中を進み、部屋の中にある小さなソファにうつ伏せに飛び込み、そのまま顔をソファの手すりに押し付けて動かなくなった。
「……どうしたんだ?」
宵は妹の様子がおかしいことに気がつき、料理をやめてソファのすぐ横の床に膝をついて、彗の頭の隣に自分の顔が来るように座った。
「お兄ぢゃあん……!!」
「うおっ!」
うつ伏せだった彗の頭がグルンと素早く回り、涙と鼻水をダラダラと流している顔が宵の方に向いた。
その回転の勢いと妹のグズグズになった泣き顔の迫力に宵は驚き、後退りして床に手をついてしまった。
「お兄ぢゃん、グズッ!……ごめん……私がバカだからぁ……バイト、クビになっちゃっだぁ……!」
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「ごめんん……わだじがバカだからぁ……」
宵は泣きじゃくる彗からスマートフォンを受け取り、その内部に保存されている今日の動画と音声をパソコンに取り込んだ。
彗から何時ぐらいの出来事かを聞き、動画の時間をそこに合わせ、再生する。
宵はその動画を確認してからしばらく考え込み、口を開いた。
「……いや、彗。お前は変なことはしていないぞ。彩光寺は匂いを嗅いでいたこと自体には怒っていないようだし、その後のやり取りもそこまで変じゃない」
「でもぉ、わだじが、演技のことどが、知らない、バカだからぁ……」
彗は泣きじゃくりながら、ズビッ!と音を立てて鼻をすすった。
「いや、バイトの高校生だぞ?そんなことで怒る方が不自然だ。何か別の理由で苛ついていたんじゃないか」
「でもぉ、私がバカでぇ……」
「今日は全て適切な行動だったぞ。気にするな。いち女優の意見だけでアルバイトをクビにできるとも思えないし、明日からも問題なく出勤を……」
「『バカじゃないよ』って慰めてよぉ!!さっきからさぁ!!妹がこんなに自分をバカバカ言って泣いてるんだからさぁ!!察してよぉ!!世界は理屈だけじゃないんだよぉ!!お兄ちゃんのバカァ!!」
宵は彗が怒鳴った勢いで、彗の目、鼻、口、あらゆる穴から噴き出ている液体を顔に浴びせられた。
「す、すまん」
顔を何かしらの液体まみれにされた宵は、妹になぜ怒られたのかは未だによくわからなかったが、勢いに押されて思わず謝った。
このままではまた首を掴んで持ち上げられたり、床に投げ飛ばされたりしそうだと宵は思い、とりあえず妹の頭を左手で撫で始めた。
そして右手でパソコンのマウスを操作し、彩光寺と彗のやり取りを何度も聞いた。
「………彩光寺は、何に苛ついていたんだ……?」
先ほどの彗とのやりとりで、人は言葉に表面上の意味だけでなく、相手に察してほしい部分を込めることがあるのだと宵は気がついた。
「うーん……わからん……」
だが妹の感情すら察することもできない宵が、それを知ることはできるはずもなかった。




