『踏みつけて進め』だよ
「え?そうだけど……」
彗は本名ではないその名前だが、大学では中村水で通っていることもあり、そう返事をした。
「わ、わ、すごい!有名人……いや、伝説の人と会えるなんて!」
陽奈は興奮した様子で、すっかり泣き顔も晴れ、近づいて彗の右手を両手で掴んだ。
「中村先輩、あなたは看護学科の伝説です!お会いできて光栄です!!」
「で、伝説!?」
彗は学生時代に色々とやらかした記憶はあるが、伝説と言われてしまうほどになっていることは知らなかった。
「はい!傍若無人で最強!どんな鬼教授にも怯まない心!残された数々の逸話!とんでもない成績だったのに何故かストレート卒業……まさに伝説です!」
「あ、あー……そうなんだ……?」
彗は苦笑いしかできない。
「私とは被っていなかったので、この目で見るまでは存在を疑っていました!でも、実在したんですね!?」
陽奈はいま三年生。彗が卒業したのは三年前。二人は在学期間が被っていない。
「だから私の学年では、『中村先輩』は実在しないとか、実習で苦しむ先輩たちが生み出した妄想だとか、幽霊だとか魔女だとか、いろんな噂があったんです!」
「実在してるし、妄想でもないし幽霊でもないよ」
彗は最後の一つは否定しなかったが、陽奈はそれに気づかず話を続ける。
「……でも、私はもうダメかもしれないです。このまま、実習やめようと思ってるんです。だから卒業もできません」
「え?なんで?」
また暗い顔に戻った陽奈に、彗は不思議そうな顔を浮かべた。
「もう、伊地目さんに耐えられないです……あと一週間、あの人にいじめられるぐらいなら、もういいんです、私……」
「え?無視すればいいじゃん」
「え?」
陽奈は、「中村先輩」の言葉の意味が分からなかった。
「だから、無視だよ。別にいじめって言ったって暴力とかじゃなくてネチネチ言われるだけでしょ?その間は好きなもののことでも考えながらさ、聞き流せばいいんだよ。変なラジオでも流れてると思って」
「…………!?」
陽奈は、中村水が何を言っているのか一瞬理解できなかった。
「い、いや、自分のことを悪く言っている人間を無視だなんて、そんなことできないです!怖いし……」
「え?だってこの実習終わったらもう会わないでしょ伊地目さんに。じゃああと一週間無視して、そのあと忘れれば、伊地目さんは陽奈ちゃんの人生にいないのと同じだよ」
「…………」
陽奈は驚愕した。
中村水の思考回路は自分とは違う。
精神が強い人間は、自分が嫌いな人間を「いないのと同じ」にできるのだ。
「それにさ、ここで諦めたら看護師になれなくなっちゃうじゃん。もったいないよ。陽奈ちゃんはなんで看護師になろうと思ったの?」
「……子供の頃、友達が大怪我をして、そのときにすぐに手当てとかができればよかったのに、できなくて……私に医療の知識があればって思って……」
「おおー!」
彗は驚き、感心したあとに「立派じゃん!」と言った。
少なくとも、母の後を追って深く考えずに看護師という道を選んだ自分よりも、この学生の方がえらい気がする。
「じゃあなおさらだよ!絶対あんなのに負けちゃダメだよ!頑張って看護師になろうよ!!」
彗は続ける。
「あのね。大きい目標があるならそういう途中の小さなことは『踏みつけて進め』だよ。山のてっぺんを目指して登ってる人が、途中でつまずいた石ころにずっと怒ってたら変でしょ?」
「…………」
陽奈は、自分の手を握り励ましてくれる中村水の顔をじっと見つめた。
問題児として「伝説」となっているこの人は、真っ直ぐで強い心と優しい心を合わせ持った、ヒーローのような人だった。
「わ、私、もう少し頑張ってみます……!」
陽奈が泣きそうな顔で、少しの勇気を振り絞ってそう言ったそのとき──
「こらああああああああああっ!!いつまで休憩してんのあんたはああああああああ!!!」
──部屋の扉が開いた。
扉の先には中年の看護師、伊地目が立っている。
「ひいいいいいいいいい!?ごめんなさいごめんなさい!!すぐ戻ります!!」
陽奈が反射的にペコペコと頭を下げるのを見た伊地目は、ベッドの上に女が一人座っているのを見つけた。
「お久しぶりー!伊地目さん!」
その女は、伊地目の記憶の中に封印していた、悪夢のようなあの日々を作り出した──中村水。
──伊地目さん、なんか触ってたら機械壊れちゃいました!(5回目)
──伊地目さーん、カードキー失くしました。また再発行お願いします!(13回目)
──伊地目さん、この患者さん殴ったら気絶したんですけどどうすればいいですか?急にお尻触られて、ムカついて殴っちゃいました
──あ、伊地目さーん!患者さんを車椅子ごと階段から落としちゃいました!どうすればいいですかー?
「あ……あ、あああっ……!」
伊地目は、気さくに手をあげて挨拶をする中村水を見て頭が痛くなり、頭を抱えてその場にへたり込んだ。
「中村水ッ……!!白衣の悪魔ッ……!!」
「え、そんな称号ついてたの私」
彗は「月詠の魔女」に加え、二つ目の称号を手に入れた。
「あ、あんたは早く持ち場に戻りなさいよ!もうっ!!」
伊地目は、陽奈にそう言い残して足早に去っていった。
これ以上中村水を視界に入れておくと、目眩で失神してしまいそうだった。
「ッ…………!!」
陽奈は、彗の方を見て目を丸くした。
自分をあんなに苦しめた伊地目を、一言挨拶しただけで追い払ってしまった。
「あ!あの!中村先輩!どうすればあなたのようになれますか!?」
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「って言われたからさぁ。私は言ってやったんだよ。『真っ直ぐ前を向いて生きてたらいいんだよ』って……言いながら、頭にポスッ、て私のキャップを被せてあげたんだよ」
家で夕飯を食べながら、彗は玲香と宵に今日の話を得意げに語っていた。
「いや、彗みたいな精神の人が増えたらこの世の秩序がなくなるからね?あとえらそうに『真っ直ぐ前を向いて』って言ってるけど、自分が直進しかできない暴走機関車で人を轢きながら生きてる自覚はあるの?彗。あと自分の帽子を相手に被せるのは麦わら帽子を被った海賊の特権だからね?簡単に真似しちゃダメだよ」
「直進しかできないお前は、周りの人間の助けがあって初めて普通に暮らしてるんだぞ。あとお前、魔族の情報収集してたんじゃないのか?そんなところで何してたんだ?」
「うるさいなぁ!!!!」
二人からの集中放火を受けて腹を立てた彗は、隣に座る宵の脇腹に頭から突進した。
宵は暴走機関車に轢かれたが如く、吹っ飛んで壁に叩きつけられた。
「私は今日、困ってる後輩をいい感じに助けたの!この話はそれでおしまい!!」
彗は、自分を慕う後輩が好きである。
8年間付き合っている彼氏に、とっくに高校を卒業したあとも「彗先輩」と呼ばせ続けるほどに。




