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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

灰の記憶

作者: 辻道 陸

夜が明けることはなかった。

灰色の空は、朝も昼も夜も変わらずに垂れ込めていた。

陽光などもう誰も期待していなかった。

街の時計塔は止まったままで、人々は時間の概念を捨てた。

ただ、耐えるだけの日々。

アキはもう何日目かもわからない瓦礫の中で目を覚ました。

水は底をつき、食料の缶詰も錆びていた。

誰も来ないし、誰も助けに来ない。

そもそも、助けてくれるような誰かがこの世界にまだ生きているのかどうか、それさえ疑わしかった。


かつてこの街には、花が咲いていた。

アキの妹、ユナはよくその花を摘んで帰ってきた。

「お兄ちゃんに似合う色だったから」と笑って

あの笑顔が脳裏にこびりついて離れない。

だがユナは、あの日、アラームが鳴り響いた瞬間に外に出たまま、戻らなかった。

探すこともできなかった。

瓦礫の山は、もうすべてを無にしていた。

「きっと、どこかで生きてる」

そんな言葉は、もう何の力も持たなかった。

希望は、ここでは罪だ。

誰かを信じようとするその行為が、ただ心を削る。

だからアキは、今日もただ静かに、呼吸をしているだけだった。


遠くで音がした。

風の音か、崩れる建物の音か、それとも…誰かの足音か。

アキは立ち上がり、音のする方を見た。

けれど、そこにあったのは、ただひとつ

焼け焦げた人の腕だった。

「ユナ…?」

わからない。

もう、顔も声も思い出せない。

時間の経過は、記憶をすり潰していく。

優しさも、愛情も、希望も、すべてを。

アキはその場に膝をつき、頭を垂れた。

灰が降り続ける。風はなく、鳥も鳴かず、音もない。ただ静寂の中で、ゆっくりとすべてが風化していく。

そして気づく。

この世界には終わりさえ、もう訪れないのだと。

生きていることが、すでに罰だった。



アキはもう、何も考えなくなっていた。

腹が減っても、喉が渇いても、それが何の意味を持つのか分からなかった。

ただ本能のままに瓦礫を掘り、朽ちた鉄筋を避け、空き缶にたまる茶色い水をすすった。

口に入れても味がしない。

だが、吐き出すこともできない。

生きるとは、そういうことだった。


ある日、瓦礫の下で古びたラジオを見つけた。

もう使えないとわかっていても、指が自然に動いていた。乾電池は液漏れして腐っていたが、配線を直せば、もしかしたら──

そんな愚かな希望が、なぜか胸の奥で疼いた。


やがて夜がきて、また朝が来た。

だが、空は変わらない。

いつだって灰色で、太陽は一度も顔を見せたことがなかった。

それでもアキはラジオを直し続けた。

音は出ない。

ただの鉄くずだ。

だが彼にとっては、唯一

「音があるかもしれない」ものだった。

誰かが呼んでくれるかもしれない。

どこかで人が生きている証を、聞かせてくれるかもしれない。


五日目の夜、とうとうラジオのスイッチが入った

ノイズ音

だけだった。

砂を踏むような、骨を砕くような、ザラついた音。

そこに意味はなく、言葉もない。

ただ、耳の奥に残る不快な波。

それでもアキは泣いた。

なぜか涙が出た。

きっと、誰かの「気配」に似ていたからだ。

その夜、夢を見た。

ユナが笑っていた。

花を抱えて走ってくる。

でも顔はぼやけていて、声はノイズにかき消されている。

アキは必死に叫ぶ。

何かを伝えようとする。

だが、ユナはただ黙って、遠ざかっていった。

背中が、燃えていた。

目覚めたとき、ラジオは静かだった。

アキはもう二度と、電源を入れようとは思わなかった。

あれは「希望」ではなかった。

それは「死」の声だった。


彼はラジオを持って、瓦礫の外れに向かった。

そこには焼け野原が広がっていて、建物の骨が剥き出しのまま、時間に置き去りにされていた。

中心に穴があった。

深く、果ての見えない、闇の底。

アキはラジオを投げた。

音はしなかった。

底がなかった。

そして思った。

ユナも、ここに落ちたのだろうか。

もしそうなら

アキも、そうするべきなのかもしれなかった。



あの穴の前で、アキは長い時間を過ごした。

一歩、ただ一歩踏み出すだけで、すべてが終わる。

それはきっと楽なことだった。

空腹も、孤独も、記憶も、全部置いていける。

けれど、アキはまだ落ちなかった。

なぜか。自分でもわからなかった。

生に執着があるのではない。

ただ、死があまりにも静かすぎて、何かを裏切るような気がしたのだ。

その夜、初めて「声」が聞こえた。

「……アキ……」

風の音だったのかもしれない。瓦礫の軋む音かもしれない。

でも、それはたしかに聞こえた。

耳の奥に、名を呼ぶ声が染み込んでくるようだった。

優しくはなかった。

どこか、濡れた土のような、生臭い響き。

「……おいで……」

アキは振り返った。

誰もいない。

けれど、声は続いていた。

「……ユナが……」

そこで、声は消えた。

アキはその場にへたり込み、拳を握った。

寒い。

空気が、以前より冷たくなっていた。

まるで、街そのものが死にかけているようだった。


次の朝、街が“少し”変わっていた。

建物の輪郭が歪んで見えた。

色がなくなり、線が揺れていた。

まるで夢の中の景色のように、はっきりしない。

道の先には、見覚えのない建物が立っていた。

そこには確かに「花屋」の看板があった。

アキの心臓が跳ねた。


ユナの花屋。


でも、そんなはずはない。

あの場所は、真っ先に焼けた。

黒焦げのまま、何も残っていなかったはずだ。

それでも、そこにあった。

ドアを開けると、花の匂いがした。

懐かしい、記憶の中にしかない匂い。

足元には、青い花が咲いていた。

見たことのない花だった。

誰もいない店内。

けれど、アキは確かに“視線”を感じていた。

「……思い出して……」

耳元で、また声がした。

今度ははっきりしていた。

ユナの声だった。

けれど振り向いても、誰もいない。

「……ユナ……?」

声がかすれる。

喉が痛い。

久しぶりに言葉を出したせいだ。

誰かが返してくれると思っていた。

けれど、返事はなかった。

ただ、壁に一文字だけ、血のようなもので書かれていた。


「嘘」


その文字を見た瞬間、アキは崩れ落ちた。

今までのすべてが、ねじ曲がっていく。

声も、記憶も、あの花の匂いさえも。

ユナはもう、最初からいなかったのかもしれない。

この街に、誰も最初からいなかったのかもしれない。

アキは、自分が誰なのかもわからなくなっていた。

名を呼ぶ声も、記憶の花も、すべてこの灰色の空が見せた“夢”ではないのか。

それでも彼は、崩れかけた花屋の床にうずくまり、もう一度だけ、こう呟いた。

「……ユナ……おれを、見てるか……?」

返事はなかった。

ただ、花がひとつ、枯れて落ちた。



あれから、どれだけの日が過ぎただろうか。

空は変わらず、灰を降らせ続けている。

アキは、花屋を出てから、街を歩き続けていた。

建物の配置は日に日に変わっていった。

昨日までなかった家が現れ、知っていたはずの道が行き止まりになる。

まるで、街そのものが生きているかのようだった。

ある日、瓦礫の向こうに、ユナの姿が見えた。

確かに見た。

髪型も、背格好も、声も

あの頃のままだった。

アキは追いかけた。

名前を呼んだ。

何度も。

喉が裂けるまで。

だが彼女は振り向かず、ただ黙って歩き続けた。

追いかけていくうちに、街は暗転した。

空がより黒く、風は吹かず、灰の粒も止まった。

静寂。

すべてが止まった世界で、アキはついに彼女の背中に手を伸ばした。

そこで気づく。

それはユナではなかった。

彼女の顔は、誰かの顔を無理やり貼り付けたように歪んでいた。

目は合っているのに、何かが「見えていない」瞳。

口は笑っていたが、その奥には無数の歯が揺れていた。

「おかえり、おにいちゃん」

声だけが、ユナだった。

アキは一歩後ずさるが、周囲はすでに瓦礫ではなくなっていた。

すべてが花屋の中だった。

また戻ってきていた。

あの、血で「嘘」と書かれた壁の中に。

ドアを開ける。

だがその先も、花屋だった。

二つ目のドアを開ける。

そこにも、また同じ花屋があった。

空間がループしている。

逃げられない。

出られない。

「ここは…なんなんだ…?」

アキが呟くと、壁がざわめいた。

「ここは”あなたが選んだ場所”だよ」

それはユナの声ではなかった。

もっと低く、冷たく、飢えた声だった。

アキはようやく気づく。

この街は自分の記憶から生まれている。

ユナも、花屋も、声も──すべて、自分の罪悪感と

孤独が作った幻だった。

ユナはとっくに死んでいた。

あの日、アキが外へ出るのを止められなかったから。

何もできず、瓦礫の下に閉じ込めたまま、彼女の名を呼ぶことしかできなかった。

だから神は、世界を罰に変えた。

街そのものが、アキという存在のためだけに設計された終わらない迷宮。

そして、ここで“希望”を持つたびに、街はそれを弄ぶ。

逃げられない。忘れることもできない。

声は繰り返す。

「アキ……またはじめよう」

花が咲く。

灰の中に、青く咲く。

花屋の扉が、また開く。

アキはまた歩き出す。

それがすべての“はじまり”であることを知りながら。

永遠に。

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