7.再びあいつが現われた
聖騎士たちは相変わらず私を空気のように扱い、カナコを構い倒している。そのため、彼女の気が私から逸れて随分と楽になった。
あの聖騎士たちは私を守ってくれているのかと思うくらいだが、おそらくカナコの気を引こうとしているだけなのだろう。聖騎士なんて本当に信用ならない。カナコが命じればエヴラールのように私を襲うかもしれないのだから。
でも今日は彼らに感謝してもいいと思う。カナコの暴言をそれほど聞くこともなく一日の仕事を終えることできた。
夕食をとるために行った食堂でもエヴラールに会うことはなく、それも本当に助かった。今あいつに会えば冷静でいられる自信がない。泣き叫んだところで皆に無視されるのだろうけれど、だからこそ悔しい。
こうして、軽い疲労と満足感を覚えながら、私は牢へと帰ることにした。
牢の中に一歩入って私はさすがに驚いてしまった。衝立で仕切られた六畳くらいの部屋ができていたのだ。中にはベッドとチェストが置かれている。
もっと驚いたのは、水場の奥にトイレ付のシャワー室が作られていたこと。魔力がなくても使えるタイプだ。隣には小さな脱衣場もできていたので、モイーズに音を聞かれてしまう恥ずかしさを我慢すれば、いつでもシャワーを浴びることができる。このシャワーはモイーズが移動可能な場所にあるが、彼は覗いたりしないと思いたい。
モイーズを振り返ると、彼は腕立て伏せをしていた。時折片手を床から離している。
「急に運動をして大丈夫なの」
モイーズの筋肉は最初会った時よりかなり落ちていた。ここに入れられてから体を動かしていなかったはずだ。
「朝からかなり体を慣らしましたので大丈夫です。食事も十分な量になりましたからね」
凄い速さで腕立て伏せをしているが、モイーズは息も切らしていない。
「急にどうしたの?」
「どうせ死ぬのだから、体を鍛える必要などないと思っていましたが、ミキ様のために生きるのならば、貴女を護らなければなりませんから。本来ならば皆に傅かれているはずのミキ様を、このような立場に追い込んだのは俺だから、せめてその御身を護りたいと思います」
「ありがとう」
おもわず礼を言ってしまった。皆から無視をされている私は、こうして会話ができるだけで嬉しいと思ってしまう。そして、今はかなりやつれているとはいえ、逞しくてイケメンの男性に護ると言われて舞い上がりそうになる。でも、モイーズは罪の意識から私に優しくしてくれているだけだ。
そこを勘違いしていると、チヤホヤされて女王様気取りのカナコのようになってしまう。
「ねえ、なぜ恋人を作らなかったの」
モイーズが春を売るような女を買ったから、こんなことになったのだ。モイーズならば、その気になればいくらでも恋人ができるだろうに。
「俺は聖騎士だから、魔王討伐に行かなければならない。無事に帰って来られるかもわからないのに、恋人など作って悲しませたくはない。遺される者の辛さは身をもって理解しているから」
それは私にも理解できた。恋人が危険な任務に赴くことだけでも辛いだろう。
「魔王討伐には聖女も同行するのよね。やはり危険なの?」
そんな怖い目に遭うくらいなら、聖女でなくなったのは幸運かもしれない。カナコが魔王討伐に行かなければならないと思うと、少しざまあみろと思ってしまう。
「魔王に近づくに連れ魔物の力が増大しますから、旅は危険ではあります。でも、二十人ほどの聖騎士が聖女様に同行し、全力でお護りしますので、歴代の聖女様の中で魔王討伐の際にお命を落とされた方はいません」
あのカナコの側に侍っている聖騎士が二十人に増えるのか。あんな奴らでも強いのだろう。
「聖女って、何ができるの? 何をしなければならないの?」
私にはもう関係のないことだけど、もし聖女のままだったら何をさせられたのか気になる。
「聖女様は癒しの力と魔を払う力をお持ちになっています。通常の魔物は聖騎士が使う魔法剣で滅することができるのですが、力の強い魔物や魔人は、聖女様の力で弱体化しなければ魔法剣でも通らないのです」
魔物も魔人も想像できないけれど、かなり危険な旅になりそうな気がする。そう思うと、皆がカナコをチヤホヤするのがわかる。彼女が力を使わなければ、魔王を討伐することができないのだから。
モイーズの両親は魔物に殺されたらしい。この世界の人々にとって、魔王は命を脅かすような存在で、それを倒すことができる聖女はとても大切に違いない。だからこそ、聖女を堕としたモイーズが第一級の罪人とされているのだろう。
でも、聖女でなくなった途端に、襲った男に咎めなしって納得できないけれど。
「聖女様が覚醒されると、魔王討伐がかなり楽になるのだが、今代の聖女様では無理そうだ」
「聖女が覚醒?」
「神の加護を得て聖女様の力が一気に増えることがあるそうだ。しかし、侍女長の話を聞く限り、聖女様の御心はあまり良くないようだ。この敷地内で侍女を襲うような真似をすれば、良くて追放。侍女が望めば断罪もあり得る。それなのに、何の咎も受けないのであれば、それは聖女様の意向だからだ。とても神の加護を受けるに相応しいとは思えない」
「それなら、少し安心した。この世界の男性は力づくで女性に性行為を強いても許されるのかと思ったから」
モイーズは婉曲だがカナコが悪いと言ってくれた。誰もがカナコに気を遣い、私を無視する中で、モイーズだけが味方でいてくれるようで嬉しかった。
「だが、油断は禁物だからな。十分に気をつけろ」
「うん、わかっているわよ」
昼間もなるべく一人にならないようにして、夜はここから出ないようにしよう。
衝立の中に入ってチェストを確認すると、下着や着替えが入っていた。タオルもある。何だか至れり尽くせりだ。
「あの、シャワーを浴びてくるね」
衝立の外へ出ると、モイーズはスクワットを始めていた。世界が違っても筋トレにはそれほど違いはないようだ。
「シャワー室には防音魔法がかけられているから」
それは本当に有難い気遣いだった。この世界には浄化魔法という便利なものがあり、尿意や便意さえも取り除いてくれるけれど、頼むのはちょっと恥ずかしい。
こうして、シャワーを浴び、少し広くなった部屋で私は眠りに就いた。
それから穏やかな日々が続いていた。
侍女の仕事はそれほど多くない。広い館内の掃除や大物の洗濯は専用の使用人がいる。庭は庭師の仕事だ。
侍女の仕事はベッドメイキングと聖女の部屋の掃除。そして、カナコの食事の世話くらいだ。仕事は別に辛くなかった。ホテルや旅館に勤めたと思えば、夜勤がなくて楽なくらいだ。
聖騎士たちにチヤホヤされているカナコはそれで満足しているのか、空気のように扱われている私にあまり絡んでこなくなった。
私はこのまま順調に過ぎていくものだと安心していた。
だから、油断していたのだ。
ある日、聖女の訓練へ行っていたカナコが予定より随分早く戻ってきた。彼女の不機嫌そうな様子から、訓練が上手くいっていないのだと予想がつく。剣の訓練に行っている聖騎士たちはまだ戻ってきていない。
「手を洗う水を汲んできて」
私を見るなりそう命じたカナコに、私は素直に従うことにした。私は桶を持って庭へ出る。
昼間に庭へ出るのは久し振りなので、色とりどりの花を楽しみながらゆっくりと歩いて井戸へと向かう。
井戸の周りには誰もいなかった。外の空気はやはり美味しく、私は大きく伸びをした。季節はわからないけれど、柔らかい太陽の光が暖かい。
ずっと屋内だけで過ごしていたので、ストレスが溜まっているような気がした。
何度か深呼吸を繰り返して、ようやく気が済んだ私は、桶を滑車のロープにかけた。もうすぐ聖騎士が戻ってくるだろうから、少々水を持って行くのが遅くなっても、カナコから怒鳴られることはないのではないかと思っていた。
桶を水面まで下ろして水を汲む。それからロープを引っ張って重い桶を引き上げなければならない。
呼吸を整えるための顔を上げると、近くにエヴラールが立っていた。
「ひぃ!」
私の喉からは悲鳴にもならないような声が漏れる。私は思わずロープから手を離し一歩後ろに下がった。
すると、エヴラールが黙って近寄ってきた。目はまっすぐに私を睨んでいる。
あの夜の腕と頭の痛みが蘇るようだ。早く逃げたいけれど、脚が震えて言うことを聞いてくれない。
「それ以上近づくと、井戸に身を投げるから」
それはただの脅しだった。でも、私を害そうとしている男に効くはずもない。
私は何をしているのだろうか? こんなところに無理やり連れて来られて、すぐに処女を奪われて、聖女でなくなったと言われた。それでも帰してもらえず、それどころか外にも出してもらえない。ここの庭でさえ一人になれば命の危険があるのだ。安全な場所はあの牢の中だけ。
聖騎士たちが魔王を討伐できたとしても、状況は変わらないかもしれない。
一生このまま怯えて暮らすのだろうか。そう思うともう頑張らなくてもいいような気がしてきた。
「私の世界では、恨みを持って井戸で死んだ女は、幽霊となって恨みを晴らすのよ。私だって、呪ってやるわ。おまえのことも、この世界だって。絶対に許さないから」
私は井戸を覗き込んだ。井戸は水面が見えない程に深い。桶が浮いているはずなので、ぶつかったら痛いかもしれないと思っていた。
「止めろ!」
焦ったようにエヴラールは私を止めようとする。私の脅しが思った以上に効いているようだ。魔王がいるような世界なので、呪いも存在するのかもしれない。
「近寄らないで」
そう言うとエヴラールはその場でピタッと静止した。
このままエヴラールから逃げられるのであれば、死ななくてもいいかなと思い始めていると、
「何をしているのです!」
そう怒鳴りながら侍女長が走って来るのが見えた。
「聖騎士エヴラール。貴方は自分のしていることがわかっているのですか! ミキは神に選ばれてこの地にやって来た聖女様なのですよ。降臨と同時に聖騎士に汚されて力を失い、再び聖騎士に汚され、ミキが恨みを抱いたままこの世を去るようなことがあれば、神はこの世界を許さないでしょう」
私はそんな神に選ばれたくはなかった。私が恨みを抱いたまま死んだらこの世界を許さないなんて、ふざけるなと言いたい。私が死んで一番に恨むのは私を選んだとかいう神に決定だ。
「違う。俺は」
「ミキ、とにかく牢へ行きなさい。エヴラールに襲われて怪我をしたとして、しばらく休職扱いにしますから。お願い」
言い訳をしようとしたエヴラールの言葉を遮り、侍女長は私の手を握り井戸から離した。
「わかりました」
私は走り出した。やはり死ぬのは怖い。牢にこもっていても事態が改善するとは思えなかったが、それでも、侍女長の手を振り切ってまで死にたいとは思わない。