東京因習ウカガイ様
暗幕の向こうで生徒たちが引き上げていく気配があった。良太を除く代表者として選ばれた生徒たちは一様に沈痛な面持ちをしていた。なかには震えている生徒もいる。目の前にいるウカガイ様が、本物の神や魔であるかのように、必死になって目線を下げ続けていた。
チリン、と澄んだ鈴の音を鳴らし、ウカガイ様が左手首から下がる赤い組紐をつまみ、空雛を目の高さまでもちあげた。
「啐啄同機」
と、良太たちの背後で真智が言った。続けて、低い声で経を唱え始める。
暗幕に閉ざされ薄暗くなった狭い舞台を、ウカガイ様が空雛を掲げたまま歩き出す。鈴の音はなく、代表者たちの呼気と読経だけが聞こえる。
ウカガイ様が一‐Aの生徒の前で止まり、顔に鈴を近づけた。
「見える? 見えてるか? 聞こえているか?」
尋ね、リン、と鈴を鳴らした。恐怖と緊張に震えているのか、動かないように全身に力を籠めているから震えているのか、判然としなかった。
ウカガイ様は一‐Bの前でも同じようにし、良太の前に立った。
「見える? 見えてるか? 聞こえているか?」
リン、と鳴った鈴の音に良太が顔を上げると、両脇の生徒がほとんど同時に息を飲んだ。
「見えてる。見えてる。聞こえてる……」
ウカガイ様が呟きながら一‐Dの生徒の前へ歩き出す。生徒は慌てて顔を伏せた。鈴の一音に震えないよう気を張っている。
そして、生徒すべてを見終えたウカガイ様はふたたび良太の前に立ち、右手を伸ばして頬を撫でた。初めて触れた手の平は、神や魔ではなく、松本千春の温もりをもっていた。
「お前だ」
ウカガイ様の声に他の生徒が息を吸った。安堵の息をつけば悟られると思ったのだろう、そのままとめ、耐えているようだった。
「他の者は教室に」
真智が言った。舞台袖に控えていた僧が生徒たちを連れて行った。
白宮学園高校初の伺降之祭祀は終わった。
だが、まだ代表者を決めたに過ぎない。
「ようこそ、ウカガイ講へ。そして、さよなら、菊池良太くん」
松本千春が言った。
良太は教室に戻ることなく帰宅した。
正式な伺降の儀式は土曜の夜から明け方にかけて行われた。場所はウカガイ講で用いた堂だ。 護摩を焚いた壇を背に、良太は既存のウカガイ様らを前に首を垂れた。
「明日から白宮のウカガイを務めさせていただきます。以後、よろしくお願いいたします」
良太は護摩壇に向きなおり、菊池良太と書かれた護摩を火に投げ入れる。護摩は一瞬で燃え尽き、名は消えた。これから卒業の日まで、白宮学園から菊池良太という個人は消えるのだ。
良太は一旦、壇から降り、後を真智が引き継いだ。
すでに松本千春の姿はウカガイ講になかった。
そして。
「行ってきます」
と、良太は自宅の三和土で呟いた。午前四時。まだ父も母も眠っている。父はともかく、母のほうは顔をあわせれば憐れみの混じった眼差しをむけてくるため、活動時間が大きく違うのは良太にとっても都合が良かった。
初日ゆえ、マンション前に来ていた迎えの車に乗り、教職員用の駐車場から校内へ。最上階の資料室Bに入った。
白檀が幽かに香る奇妙な部屋だった。略式の小さな護摩壇に机が一脚、壁の本棚に自習用の教科書や参考書、経典、歴史書などが並んでいる。そばにあった縦型のアルミロッカーを開けると黒い詰襟の制服とワイシャツが二着ずつ吊るされていた。
なるほど、と良太はブレザーを脱いで詰襟に着替えた。松本千春は他の生徒に混じって登校し、学内で着替え、ウィッグと化粧でウカガイ様に変身していたのだろう。
――自衛、なのかな。
良太は内心に呟きながら右手首に青い組紐を通す。三枚の円盤に三本の金属棒を通した鈴がヂリンと鳴った。正式名は、三界杵というらしい。興味はあるが理屈はどうでもよかった。姿見に、新たな白宮のウカガイが映っていれば、それで良い。
初仕事の時間だ。
一限の予鈴を聞いた後、菊池良太は倉庫Bを出た。
チリーン、ヂリーン、と、空雛とはまた異なる鈴の音が廊下に響く。不思議だった。授業の声が聞こえる廊下を平然と歩き、鈴の音を鳴らしていると、自分が人ではなくなったようだ。
鈴を鳴らしている限り、学内のどこにいても見咎められることはない。
足は真っすぐ一‐Cの教室に向かった。
授業の声はまるで経文を唱えているようにくぐもっている。窓から覗かなくても生徒たちの緊張が手に取るように分かった。良太はいつも松本千春が足を止めていたところで教室に振り向いた。ヂリン、と濁った鈴の音が鳴った。窓の向こう、不自然な空席の後ろで洋介が青い顔をしていた。
――怖がらなくていいよ。
良太は口の中で呟く。ごめん、と念じ、視線を空席の先に移した。
久我硝子。整った横顔に以前のような余裕はない。所詮は子供。そんな言葉が首をもたげる。
公立の小学校では世界の中心のつもりで過ごし、それを奪いかねないウカガイと松本千春を攻撃し、中学、高校とかつての栄華を追い続け、今に至った。
悪因苦果――幼き日の因果が巡り廻って辿り着く。
「久我さん」
ウカガイ様は言った。三界杵で窓ガラスをコツコツと叩き、尋ねた。
「僕が見える? 見えてるよね? 僕の声が聞こえる? 聞こえてるよね?」
窓越しに硝子の喉がぐぐりと動くのが見えた。
ウカガイ様は続けた。
「僕は見てる。僕は聞いてる。僕は、なんでも知ることができる。もう好きにはさせないよ」
気付けば、ウカガイ様は笑っていた。
悪行を未然に防ぎ、道を正す守り神として、ウカガイ様は口角を吊り上げていた。
*
一カ月後――夏休みを目前に控え、山中に気の早いセミの鳴き声が反響していた。
土曜は午前で授業が終わるのだろう、多くの子供らが農作業を手伝い、自転車を頼りに川へと急ぎ、はるか遠くに入道雲の浮かぶ空を見上げていつまでも来ないバスを待っていた。
その子供らの視線が、道を歩く少女に向かう。
黒いキャップをかぶり大きなサングラスをかけ、へそ出しのキャミソールにデニム、真っ白なスニーカーという出で立ちは、明らかに村の者ではない。
少女はスマートフォンを見ながら一軒の家に進み、呼び鈴を鳴らした。
ややあって出てきた訝しげな女に、少女は言った。
「怜音さんは御在宅でしょうか? お渡ししたい物があって来たんです」
女は申し訳なさそうに顔を歪めて、ごめんなさいね、まだ帰ってなくてと応じた。
いいんです、これをお渡しいただければ、と少女は手紙と奇妙な形の鈴を手渡した。
女が組紐をつまむと、卵型の鈴が垂れ落ち、チリン、と鳴った。
「ええっと……これを怜音に渡せばいいのかしら?」
「はい。お願いします」
深々と頭を下げる少女と手紙や鈴を見比べ、女は尋ねた。
「あの、お名前を伺っても?」
「――松本千春です」
少女は晴れやかに笑って答えた。
ここまでお読みいただきありがとうございました。
何年ぶりかの後書きになりますが、まずはダラダラ長くなってごめんなさい。猛暑で体調を悪くしたり身内が入院したりプロット込みの資料を紛失したりパソコンが壊れたりとめちゃくちゃ色々ありましてこんなことになってしまいました。まことに申し訳ありません。本当なら1、2カ月で終わるはずだったのも今は昔です。
ともあれ、ここまでお付き合いいただき、誠にありがとうございました。




