伺降
松本千春と一対一で話した翌朝、投票用紙は粛々と回収された。変わったことといえば、隣席に集まるのが中村由佳と萩原沙織ではなくなったことくらいだろうか。代わりに良太のほうに声をかけるということもなく、洋介も挨拶すら返してくれない。
良太の席は教室にぽっかりと開いた穴も同じだ。近づけば飲み込まれてしまう。そして、ひとたび飲み込まれれば、学校という村で八分にされる。
もう教室に良太の居場所はなかった。
前日に決定を伝えていたのもあり、良太は午後の授業を早退し、家から迎えの車に乗って真智に会った。他校のウカガイは来ていなかった。今回の祭祀は特殊例であるため、呼ばれていないのだという。真智は迷惑がるでなく、かといって感激するでなく、淡々と当日の流れを説明した。千春の言うように、投票は生徒たちの納得を引き出すための体裁でしかないのだ。
投票からさらに数日が過ぎ、東京は梅雨入りを宣言した。
六月、霧のように舞う極小の雨粒が傘を躱して肌を濡らす日だった。雨粒は嫉妬や情念のように纏わり憑き、拭っても拭っても感触が残った。
白髪交じりの髪をいつもどおり六対四に分け、現国の教員が耳に残らない語りをする。教室の半分は昼食を思い、残りは内申点のために耳を傾けるフリをしている。
東京に出てから二ヶ月、良太も東京に慣れつつあった。
教員の異様に長く思える話にも、進学を真剣に考えられる状況にない今にも。
地元と違う教室の匂いにも。長年その場に溜まり澱んでしまった空気にも。窓から見える昏く狭い曇天にも。声こそないが、隣席でほくそ笑む気配にも。
ただ、東京に来て、東京の学校に通って、未だに慣れないものが、一つだけある。
チリン、ジリン、と廊下から鈴の音が聞こえてきた。
歩くでなく、走るでもない足音ともに、廊下を進んできている。
チリン、ジリン、チリン、ジリン――。
音の主が、廊下側の窓の端に映った。壁に遮られ肩より上しか見えない女生徒。学校指定のブレザーではなく、古い形の白い半袖セーラー服。覚者になった後のことを憂慮し付けだしたという、艶はなくボサボサに乱れた黒いウィッグの襟足が揺れている。
良太は緊張から我知らず喉を鳴らし、手元のノートと黒板と、教壇の隅に置かれたモニターとそこに映るスライドを目で追う。シャーペンを握る手が震えている。
ふと、良太は僅かに目線を上げた。鈴の音がしないが、教室では誰も気にしない。
――見るな。見るな……!
良太はそう自分に言い聞かせた。松本千春の最後の仕事だ。いま反応してはならない。けれど、音の消えた廊下がどうしても気になる。
せめて見たのではなく見えたのだと言えるよう、まず隣席の久我硝子の様子を窺う。真剣とも退屈ともつかない物憂げな眼が手元を見つめている。方便は立った。良太は廊下の側へと――直ったばかりの窓へと首を振り、ヒュッ、と喉を鳴らした。
在りし日と同じく、窓に両手と額をつけるようにして、千春が教室の様子を窺っていた。
顔に幾筋か垂れる髪。見開かれた血走る瞳。乾いた唇の隙間から僅かに噛み締められた歯が覗く。呼気が聞こえてきそうな、微かな膨張と収縮を繰り返す鼻。
ウカガイ様である。
東京の特定地域にのみ存在する、謎の御役目を担う者――。
ウカガイ様を見てはならない。ウカガイ様に触れてはならない。ウカガイ様に話しかけてはならない。ウカガイ様の声に耳を傾けてはならない。教室の誰もが自然と仕来りに従う。
けれど良太は、まだ慣れない。
「……見てるよね? 私のこと、気付いてるよね?」
廊下から聞こえてくるウカガイ様の笑うような声に、絡む視線に、良太は躰を強張らせた。
鈴の音が鳴る。教室の前に向かい、扉を開けた。入ってくる。教員は語り続けていた。けれど、ウカガイ様は止まらない。まっすぐ教壇まで足を進め、ポケットから出した一枚の和紙を伏せ置いて、踵を返した。教室を出る間際、ほんの一瞬だけ、久我硝子を見やって。
おそらく硝子は気づかなかっただろう、興奮を隠すために身を固め、視線を何も記さない手に固定していたため、ウカガイ様が見せた侮蔑の眼差しに気づかなかっただろう。
ウカガイ様が教室を出て行き、扉が閉まると、教員がいま気づいたとばかりに教壇に置かれた和紙を取り、硝子のほうを見た。彼女は、そのときはじめて顔をあげた。ペンを手放し両手を机についていた。立とうとしていたのだろう。
しかし、教員の視線はそのまま横に滑り良太を捉えた。
「一‐Cの代表は菊池良太。先に体育館に――」
「なっ――!?」
ガダン、と硝子が立ち上がりかけ、教室中の視線が注がれた。
「どうした? 久我? 何かあったか?
「……い、いえ――ちょっと、ぼうっとしていました。すいません……」
硝子が呆然とした様子で持ち上げたばかりの腰をゆっくりと下ろしていく。教室に音のないざわめきが広がる。内部生も外部生もない波紋が良太に達する直前、穴に吸い込まれていく。
「……意外だった?」
良太は硝子にだけ聞こえるように囁きながら席を立った。いまはもう、良太は深淵そのものだった。生徒の誰もが見ようとせず、声を聞かないようにしている。
けれど、硝子にだけは見え、聞こえていた。
怒りのせいか驚愕か、はじめて歪んだ硝子の狐目を見返し、良太は口を開いた。
――なんで意外だったの?
声は硝子にしか聞こえないはずなのに、何人か表情を固くする生徒の姿があった。談合は許されない。投票に書かれた戒律を、いまになって思い出したのだろう。
そしてまた、硝子も気づいたのだろう。
降って湧いたウカガイ下ろしの機会に歓喜し、油断し、たった一日という期限に焦るあまり、自ら破戒の証拠を撒いてしまったことに。
良太は悠々と教室を後にし、体育館に向かった。他のクラスの、選ばれてしまったことに暗い顔をしている生徒たちすら良太を見なかった。内部生なのだから当然だ。投票の持つ裏の意味を理解し、また菊池良太という危険な外部生のことを知っている。巻き込まれたとすら思っていたのかもしれない。
良太たちは待っていた僧につれられ、更衣室で白衣に着替えた。
やがて体育館に全校生徒が集まり、真智が厳かに登壇して言った。
「これより、伺降之祭祀を執り行います」
壇に置かれた焼香台に香木が焚かれ、普段は火気厳禁となっている体育館に白檀の香りが流れた。真智がマイクとスピーカーを通して経を唱え始めた。
「唵 阿謨伽 尾盧左曩 摩訶母捺囉 麼抳 鉢納麼 入嚩攞 鉢囉韈哆野 吽」
光明真言――一切の罪を除滅し、転生する死者に光明をもたらす経だ。
つづいて理趣経。人の煩悩を肯定する経である。
若い生徒たちの生来の欲を認め人に代わりウカガイが見守るという意思表示なのだろう。
――チリン、ジリン……と空雛を鳴らし、ウカガイ様が顕れた。俄かに生徒たちの気配が張り詰めるなか、時に澄み、時に濁る鈴の音を置いて壇に上った。
「――では、代表者はこちらへ」
真智の言葉につづいて促されるも誰も動こうとしなかった。
しかたなく、良太が先頭に歩き出す。体育館を満たす異様な冷気に反し、身を焦がすような熱を腹の底に感じた。壇を登り、真智と、その背後にいるウカガイ様との間に並んだ。
すう、と暗幕が落とされ、良太たちは全校生徒の前から消えた。




