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白宮のウカガイ様

 学校が終わると同時にほとんど駆けるようにして帰宅し、良太は萩原沙織に渡された住所連絡先名簿を開いた。迷っている時間はなかった。スマートフォンに番号を打ち込み、コールする。一回、二回、三回――リダイヤルしながら財布と学生証をポケットに突っ込み家を出る。


 掛けなおすのは駅に着くまでの五回で諦めた。

 住所から地図を出し、最寄り駅を調べて飛び乗って、良太はスマホを睨む。

 駅から五分。ナビゲーションを頼りに歩き出す。


 平日だからだろうか、都心にあるとは思えないほど街は閑散としていた。雑居ビルと呼ぶしかない低層の建物、軒先に連なる罅の目立つ看板、ダクトから伸びる日陰でカビた雑巾を思わせる白煙、潰れたゴキブリ、枝の隙間に空き缶を詰め込まれた植え込みと、その根元で目を光らせる大きな鼠。


 商業区を抜けて目につくのは、嗅いだこともない昭和の臭いを発散する安アパートと、時代に置いて行かれた戸建てばかりだった。住むのでも暮らすのでもなく寝に帰る家々。松本千春の自宅は、そんなところにあった。


 見つけたとき、良太の感情は無だった。何一つない。

 思考も止まった。生暖かく湿った風が煩わしく、ネクタイを緩め首元のボタンを外す。


「……ごめん。ごめん、なのかな? 僕のせい……?」


 良太は松本千春の自宅住所を見つめながら、誰に言うでもなく呟いた。

 小さな二階建ての一軒家。ザラザラとした質感のブロック塀に囲まれ、切れ目につけられた偽物の鋳鉄の門の向こうに存在意義がわからない三歩分の踏み石を挟んで、玄関がある。


『立ち入り禁止 KEEP OUT』


 と幾重にも書かれた黄色地に黒文字のテープが三本、厳重に出入口を塞いでいた。細い風に僅かにたなびくテープは真新しく光っていた。何かが起きた。ここ数日のうちに。


 それ以上のことは何も考えられなくさせられたまま、どれくらい見つめていただろう。


「――わざわざ見に来たの? 趣味、悪すぎない?」


 良太を嗤うというより、自嘲するような声を背後から投げつけられた。反射的に振り向くと黒革のライダースジャケットを着込み、キャップを目深にかぶった少女がいた。太い黒ぶちの眼鏡の奥で瞳が笑い、顔の半分を覆う白マスクの端から絆創膏が覗いている。


「……何? あんま可愛くてビビった?」


 言って、少女がマスクを下ろした。今まで見たことのない()()()()()()()()()だ。疲れ果て、すべてを諦めていて、ふいに自由を与えられた者の顔だった。

 良太は眉間に細かな皺を集めて声を絞った。


()()()()……何があったの?」

「……何なの? キミ、ストーカーだったりする? もう、どうでもいいけど」


 松本千春は視線を外して息をついた。


「近くにマックあるからさ、一緒に行かない? 私、一度も行ったことないんだよね」


 そして。


「これこれ。この茶色のトレイにちょっと憧れてたりしたんだよね」


 気安く言って、千春はキャップをテーブルの隅に置いた。つい先日ウカガイ講で見たときと同じくらい――あのときよりもさらに艶を増した短な黒髪を撫でつけ、下唇をなめた。


「この箱とかね。友だちと一緒にデカッとか言いたかったんだ。――まさか、そのはじめての相手が菊池くんになるとは思わなかったけどね」


 何が面白いのかクツクツ肩を揺らしながら箱を開け、千春は顔の半分以上を占めそうなハンバーガーを掴んだ。指の力で潰し、迷うように何度か首を傾け、一瞬だけ良太の方を見て大きく口を開き齧りつくく。一本足のガタつくテーブルの下でスニーカーがパタパタと鳴った。


「雑だねー。雑! みんな、こういうのの話をしてたんだね」


 楽しげに呟かれる千春の言葉の一つ一つが、良太には痛いほど理解できた。田舎で育ってきただけに、はじめて友だちになった洋介と似たような体験をしただけに。

 だが、いま共有したい話はそれではなかった。


「……何があったの?」


 良太は尋ねた。千春がソースで汚れた唇を舐めながら上目で見返す。


「なんていうんだっけ、こういうの。直球? よくわかんないんだよね」

「なんでもいいよ。何があったの?」

「別に? いつか起きるだろうことが、ちょっと早く起きただけ。たぶんね」


 千春は頬に張られた大判の絆創膏を撫で、包帯の巻かれた右手首を見せた。


「私がウカガイ様から外されることになって、お母さんが頭おかしくなったの。まあ前から頭おかしい人だったけどさ。なんのためにあんな苦労してきたのかとかキレて」


 フッと吹き出すように笑い、千春は窓の外に視線を投げた。


「苦労してきたのはこっちだっていうのにさ、顔とか引っぱたかれて、私も――無理だった」


 ふいに千春の眉根が歪んだ。嚙み合わされた歯の軋む音が聞こえてくるようだった。


「今までのこと、全部ぶん投げて、家出て、頭を冷やして戻ったら死んでたよ。あの人」


 母親を、あの人、と呼ぶ千春の姿に、良太は顔を伏せた。見ていられなかったというほうが正確かもしれなかった。


「――恨んでたのかな? わかんなくなっちゃった。うちはお父さんいないし。ずっとお金がなくてからかわれてきてたし、なんかよくわかんないんだよね。私のせいかなって思うし、私のせいじゃなくないって思うし、菊池くんのせい――」


 聞こえた言葉に良太は身を固くした。けれど。


「じゃないって思うしさ。どっからおかしくなってたのか、全然わかんないだ」

「……ごめん」


 良太はそうとしか言葉にできなかった。何に謝っているのかもわからないまま、ただ自分がしでかしてしまったかもしれない結末に首を垂れていた。

 千春は手のひらを振るい、口に対して大きすぎるハンバーガーを齧った。


「謝らなくていいよ。どっちかっていうと、こっちがお礼をいうべきかもしれないし。私、ウカガイ様とかどうでも良かったし、できればもっと――もっと、苦労してでもいいから、お母さんと一緒に居たかったかもって思ってさ」


 ズッ、と鼻を鳴らして千春は続けた。


「でもまあ、私の方は、これで終わりかな。ごめんね? 私、頭がおかしくなってたんだと思う。本当にさ、なんで私がこんな目にとか思って、調べて、ああこいつのせいかって、思ってきてて――。ウカガイ様ってさ、やることないから新入生の名簿とか見るんだよね。で、気付いちゃったんだよ。菊池くん。菊池良太くん。こいつだって――」


 良太は頷き、震え続けるスマホをポケットから出した。


「それは、一面的には――正しいかどうかは分からないけど、そう思ってもおかしくないと、僕は思うよ。こんなことになったのは僕のせいかもしれないし、申し訳ないけど、松本さんのせいかもしれないし、もちろん僕の父さんのせいなのかもしれない。ウカガイ講だって、松本さんが選ばれた時には、理解できてなかったと思う」

「ね。すっごい、不思議な気分。お母さんのこと大切に思ってはずなのにね。お母さんごめんなんて言って戻ったらさ、お母さん、天井からプラプラ揺れてて。でも何も感情ないしさ」

「……僕は、僕がどうすべきか分からないんだけど、でも、今、聞きたいことができた」

「……めちゃくちゃ意味わからないこというよね。こっちももう、限界なんだけど」

「わかるけど、教えて欲しいことがあるんだ。たぶん、松本さんしか答えられないことだよ」


 良太はスマートフォンのメッセージアプリを開いてテーブルに滑らせた。


「松本さん、久我硝子って知ってる?」


 画面に映るメッセージ送信者は、たぬきのポン吉――中村由佳だ。


 由佳:転送します。


 『硝子:みんな、私の名前を書いてくれない?』


 初めて目にする、久我硝子の直接的な要望のスクリーンショットが送られてきていた。

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