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萩原沙織

 教室に戻ってからすべての授業が終わるまでのおよそ三時間、良太の座る教室の片隅には薄氷を踏むような緊張に満ち、他では澱んだ気配が漂っていた。


 水面下に広がる外部生と内部生の対立はより色を濃くし、望むと望まざると一年の外部生を代表していた良太と洋介に訪れた突然の不和は、その表面的な理由――洋介の怪我――も相まって外部生全体に動揺として伝わった。


 教室にいる部外者たちは良太たちの事情を知らない。

 目撃したのは、ウカガイ様のルールを逆手に取って反抗した良太の姿と、休み明けに現れた大怪我を負った洋介の姿だけだ。


 入学前に渡された資料に従えば、ウカガイ様の禁忌を破った祟りは通常の学校生活でも起こりうる処分だった。最悪は退学まであるにせよ、不慣れな外部生には配慮もあると思われた。


 しかし、現実に行われたのは、肉体的な暴力を伴う報復だったのだ。

 教員たちはルールに従い何の説明もしようとしない。もちろん、ウカガイ様が自らの口で語るはずもない。そして一部の内部生――たとえば、久我硝子が示した態度が、一つの規範として機能しはじめていた。


 白宮学園という()()に暮らし始めた余所者たちが抵抗と恭順を天秤にかけるたとき、これから先の人生という重りを乗せればいずれは一方に傾く。


 自分自身のためか、松本千春のためなのか、あるいは他の生徒たちのためなのか。

 良太は自分でも分からないまま放課後、図書室に向かった。

 教室を出る彼に声をかける人間はいない。洋介はもちろん、久我硝子も萩原沙織も、中村由佳も何も言わなかった。


 その日の図書室は珍しく何人かの生徒がいた。


 しかしそれも、良太が適当に掴んだ本を手に席に着くと誰ともなく散っていく。たとえ東京にあっても、ここはいわば白宮学園()だ。まして()()()の洋介は良太と違い部活を通じて上級生とも接点がある。


 噂はネットを通じて、外部生グループメッセージという閉鎖環境に広まり、そこから内部生へと伝播する。そういうことなのだろう。


 図書室の閉室時間が迫ってきた頃、ようやく、中村由佳が姿を見せた。ジャージ姿の萩原沙織を連れていた。二人とも表情は険しく、何か思いつめた様子だった。


 良太と彼女らのあいだに流れた不穏な空気を察したのだろう、他の生徒たちが手早く荷物をまとめて図書室を出て行った。


 トン、と扉が閉まる音が聞こえるを待ち、先に由佳が口を開いた。胸元に重ねた手に力がこもり白くなった。


「――あの、菊池くん、教室では、その……」

「仕方ないよ」


 良太は答えた。それ以上の言葉を重ねずとも意思は共有されていた。まず自衛が優先だ。


「それで、僕に何の用だったの?」

「えと、その――」


 由佳が言葉を選びながら傍らを見やった。

 促された沙織は眉間に迷いの見える皺を寄せ、やがて一つ頷き、ポケットから四つ折りの紙を出して良太のほうへ投げた。紙は円盤のように机を滑りノートにぶつかって止まった。


「……これは?」


 ザリザリとした埃の感触が残る古い紙だった。十年ちかくどこかにしまれていたのだろう。

 沙織は腰に手を置き、ため息をついた。


「見りゃ分かるよ」

「じゃあ、見せてもらうよ?」


 沈黙を了承として受け取り、良太は紙を開いた。


『……小学校 二年三組 住所・連絡先』

 

 そう題された表だ。うち一行に赤いマーカーでラインが引いてあった。


「これって……もしかして……!?」


 驚き、良太は二人に振り向いた。

 沙織は肘を抱き込むように腕組みして顔を背け、由佳は小さな頷きを返してきた。


「じゃあ、この赤いラインは……」

「――松本千春」


 沙織が吐き捨てるように言った。


「言っとくけど、菊池のためじゃないから。由佳に頼まれて、大体のこと聞いて、そんで――聞き覚えのある名前だったし……小学校からずっと一緒だったみたいだし」


 ずっと一緒だったみたい――沙織はウカガイ様が同一人物だと思っていなかった。松本千春であるとも知らなかった。見ないようにしていた言ってもいい。


「いるけど、いない。見えないし、聞こえない」


 小学校のウカガイ様が手ひどい扱いを受けているのは知っていた。けれど助けてやるだけの知恵はなかった。始まったのは六年の頃で自分のクラスの話でもない。どうせあと半年もすれば終わることだと思っていた。だから見て見ぬふりをして、存在ごと忘れてしまった。


 まして小学校にいたウカガイ様と白宮学園中等部にいるウカガイ様が同じだと思わなかった。

 なぜなら――


「すごい貧乏な家だったんだってさ。それ探してたとき、ママに聞いた」


 家じゅうの埃臭い箱を開いて見つけた紙を見て、沙織の母親は懐かしいねこれと笑った。


「松本さんは固定電話しかないし、当時は学校から貸し出すこともできなかったんだって」


 だから住所録と電話番号の表が配られた。いい迷惑だと沙織の母は言ったという。松本千春の母も陰気くさく申し訳なさそうな素振りすら見せなかったため腹が立ったと。

 けれど。


「私は顔とか覚えてないけど、ママは覚えてた。すっごい綺麗な子だったってさ」


 だからこそ悪目立ちし、小学一、二年生という無邪気に晒されていた。三年生からは違うクラスになり、その後は学校でも見なくなったため引っ越したのだと思っていたらしい。持ち家だろうとなかろうと、東京で暮らしていけるような感じじゃなかった、と。


「……ママにあんな嫌なトコあると思わなかった」


 言って、沙織は重いため息をついた。


「――もういいっしょ? それあげるから、もう私らに構わないでよ。特に由佳。由佳のこと巻き込むのやめて。マジで」


 願うような沙織の口ぶりに、傍らで由佳が視線を落とした。

 良太は住所録を見直してから四つ折りに畳み、ブレザーの内ポケットにしまった。


「……分かった。っていうか、大丈夫。僕は何ももらってないし、萩原さんも、中村さんが心配だったから図書室に来ただけ。だよね?」


 沙織は弾かれたように振り向き、苦々しい顔で言った。


「そういうこと。それじゃ私、部活あるから。――行こう、由佳」


 そう由佳の手を取ったが、彼女はゆるゆると首を左右に振った。


「私はもう少しだけ、菊池くんに話しておきたいことがあるから」

「――由佳?」

「大丈夫。サオちゃんには迷惑かけないから」

「分かった。マジで巻き込まれないように気を付けて。こいつ絶対ヤバイよ」


 うん、と由佳が首を縦に振ると、沙織は諦めたように息をつき、良太を一瞥して出て行った。

 そして。


「――あのね、菊池くん。多分だけど……六年のとき、ウカガ――松本さんをイジメてたの、久我さんだと思うよ」

「……えっ?」


 久我硝子本人は助けようとしているのだと言っていたはずだが。もちろん無条件に信じたわけではない。気を付けろと警告されたのだから当然だ。


 しかし、なぜ救おうとしているなどと嘘をついたのかが分からない。

 困惑する良太に、由佳は続けて言った。


「久我さん、人気あるし、雰囲気を作るのが上手いんだ。神隠しのとき、私は存在感が薄かったから巻き込まれなかったけど、久我さんがそうするように仕向けたのは知ってるから」


 リスクヘッジ――そう教室で話し合う声に、由佳は耳をそばだてていたことがあった。

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