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小山洋介

 二限目が終わり、短い休憩時間に入ったとき、開きっぱなし教室の扉のほうから、


「うわっ、大丈夫か?」


 と男子生徒の驚く声が聞こえた。返答はない。気になって良太が顔を向けると、まずアルミ製の松葉杖が目についた。そのときにはもう頭の中は真っ白になっていた。

 トン、トトン、と不慣れな足音を立てながら洋介が教室に入ってきた。同時に何人かの生徒が気づいて息を飲んだ。洋介の右足は足首から膝近くまでギプスに覆われていた。


「――小山くん、それどうしたの?」


 隣の席から硝子が声をかけた。見れば、集まりかけていた由佳と沙織は教室の半ばほどで固まっていた。良太がウカガイ様について調べていると知っているだけに、洋介の姿を見て動けなくなったのだろう。


「ヨ、ヨウくん……それ、だ、大丈夫?」


 良太は喉を絞るようにして洋介に尋ねた――が、彼はさっと俯き、次にあげたとき視線は硝子に向いていた。奇妙な笑顔だった。顔面は蒼白で、視線を彷徨わせているのに、前歯が覗くほど高く口角をあげていた。


「いや実はさ、階段から落ちちゃって。ひ、腓骨骨折だって。だ、ダセーよね」

「それ――大変じゃない……!」


 硝子が声を緊迫させた。こちらも奇妙な顔だった。眉は気遣わしげに寄せられており、薄っすらと色を乗せた唇を震わせているのに、なぜか瞳だけは今にも笑いだすように思われた。


「あ、あの、ヨウくん!」


 良太が再び声をかけると、洋介はまるで聞こえていないかのように――いや、聞こえているからこそだろう、素早く顔を伏せて席に向かって歩き出した。


「ヨウくん……?」


 返事はない。この三日間、電話にももメッセージにもそうだったように。洋介は良太以外の声には顔をあげ、平気平気と答え、良太の声だけは無視して席に着いた。松葉杖を束ねて机に立てかけようとしたとき、一本が滑って床に倒れた。やけに冷たい乾いた音が鳴った。

 クソッ、と小さな声で悪態をつきつつ洋介が躰を傾げた。


「あ、大丈夫。僕が拾う――」


 と良太が床に転がる松葉杖を掴んだとき、洋介が、まるで良太のことなど見えていないかのように素早く、強い力で松葉杖を引き寄せた。良太は指先に走った痛みに手を引いた。どこかの突起に爪の先が引っかかったのだろう、中指の爪と肉の間に赤い線が細く伸びていた。


「あの、ヨウ、くん……?」


 良太が痛む指を握りながら尋ねると、洋介は淡々と松葉杖を机に立てかけ顔を伏せた。

 

――これは――


 良太はグッと息を飲み、隣席に顔を向けた。一瞬、硝子と視線が交錯するも彼女はすぐに前に向きなおり、そのまま首を振って沙織たちのほうを見やった。


 まるで、良太という生徒が教室に存在しないかのように。


 沙織と由佳が硝子の席の周りに集まり、いつものように沙織が他愛のない話を始めた。由佳も普段通り相槌と頷きを繰り返す。


 良太は背筋に走った怖気に身を震わせた。

 神隠し。

 あるいは八分ハブ

 かつて小学校で起きたであろうこと。

 

――このままじゃ、僕は!


 良太は慌てて振り向き、


「ヨウくん!」


 と、洋介の腕を掴んだ。彼は苦悶の声をあげた。だが顔を上げようとしない。

 良太は机に身を乗り出して肩を掴んだ。またくぐもった悲鳴があがった。しかし顔を上げようとしなかった。


「ヨウくん! ちょ、ヨウくん、ヨウくん!?」


 洋介は返事すらしてくれなかった。痛みに耐えるように全身に力を籠めるばかりだ。次第に周りの生徒が訝しがりだし、そして――


「――おい。やめてやんなよ」


 萩原沙織の鋭く尖った声があった。


「階段から落ちたんでしょ? 他にもぶつけたトコあるかもじゃん」


 良太は膝から力が抜けていくのを感じ、倒れるようにして椅子に腰を落とした。洋介には見えず、萩原沙織には見えている。恐怖と安堵で頭の中はグチャグチャになっていた。


 良太の見せた狂態と、洋介の異変に、教室は静まり返っていた。

 だからこそ聞きとることができた。


「……沙織?」


 そう問い質すような、久我硝子の囁く声が。

 良太が肩越しに振り向くと、沙織が気まずそうに顔を逸らした。そしてまた、由佳の困り顔に苦味が滲んだ。胸元に重ねられた手はいつもより固く握りしめられていた。


 三限目の開始を告げる予鈴が鳴った。

 授業が終わり、昼休みに入った。もはや当然なのだろう。洋介は黙って松葉杖を取り、教室を出て行った。声を掛けられる背中ではなかった。


 習慣が変わったことに気づいたのだろう。良太は奇異の視線を感じながら弁当箱を手に教室を出た。向かうのは屋上に繋がる階段だ。


 その日は、扉に鍵がかかっていなかった。

 屋上に出れば監視カメラに映る。何か学校から言われるかもしれない。

 構わなかった。

 わかりきったことだが、直接、ウカガイ様から――松本千春の口から聞かねばならなかった。


 扉を開くと、すぐに強い風が吹き込んできた。暗澹たる胸の内とは真逆の青空の下、ウカガイ様が右手の指をフェンスにかけ、校庭のほうを見ていた。左手首に巻かれた組紐の先は丸めた左手のなかにつながっている。つまり、いまはウカガイ様ではなく、松本千春なのだ。


「……君がやったの? 松本千春さん」


 良太は背後から問いかけた。普段は鍵がかかっているからか他に人影はなく、聞かれてしまう心配も見られる心配もなかった。


 松本千春が長いため息をついて振り向いた。昏い愉悦は見当たらず、悲しそうに、寂しそうに、諦めたような声で言った。


「やったのは君。君たち。菊池くん。菊池良太くん」


 左手が開かれ白い卵型の鈴――空雛がヂリンと濁った音を立てた。ウカガイ様に変じたのだ。


「私はそこまでする気はなかった。だから全部、君らのせい」


 もう姿は見えない。見てはならない。声は聞こえない。聞こえてはならない。

 けれど、良太はもう従う気はなかった。


「――君じゃないんだね?」


 問うと、ウカガイ様は顔をだけをこちらに向けた。


「……違うよ」


 風が吹き、セーラー服の後ろ襟がはためいた。消え去りそうな鈴の音を連れてウカガイ様が屋上から出て行った。

 良太のスマートフォンがメッセージの受信を告げた。

 

『放課後、図書室に来て』


 中村由佳からだった。

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