邪見
何事もなかったように中学校からアルバムを借り出し、もうすぐ一時間ほど経とうとしているが、良太の心臓は落ち着きを取り戻せていなかった。
眼下には地元になかったハンバーガーチェーン店のトレイが置かれ、対面では友人が――洋介がポテトをつまんでいる。東京での暮らしが始まる前に夢見ていた光景だ。叶ったわりに達成感も感慨もない。幸福ですらなかった。
川を渡るまで――いや、川を渡り不案内な街ながら店内に飛び込み、休日らしい若者たちの喧騒に包まれている今ですら、良太は安心できずにいた。
――なんで、そんな平気でいられるの?
助けてもらっておきながら、どうしてもそう胸の内で尋ねてしまう。
つい一時間ほど前に苛烈な暴力を振るっていた少年が、目の前でフライドポテトを食べ、コーラのカップに口をつけ、ハンバーガーに手をかけようとしているのが信じがたかった。
「――どしたん?」
視線に気づいたのか、洋介がくわえかけたハンバーガーを下ろした。
「――大丈夫かよ? ぜんぜん食ってねえけど」
「えっと、ちょっと……驚いたというか……」
「ああ、な」
言って、洋介は視線を窓の外に投げた。しばしそうした後、ふいに吹き出すようにして笑い頭を掻いた。そのまま、良太のほうを見ずに言った。
「なんっつーか……めちゃ焦んなかった?」
振り向いた洋介の顔は絶叫系の遊びを終えたあとのように晴れやかだった。
「マジ思ックソいっちゃったけどさ、正直ちょっと――スッとしたっつーかさ、田舎モンだと思ってナメてんじゃねえぞっていうか、思わんかった?」
そう尋ねられ、良太は寒気をおぼえた。ぷつぷつと鳥肌が立ってくるのを感じながら、ひとまず、そうだねと応じる。
同意したのではなく、怖気からそう答えさせられたのだと、良太は思った。
何かが決定的に変わってしまった。
洋介が、巻き込むまいとしていた友人が、いまはウカガイ様より恐ろしい何かに見えた。
「――んで、そうだ、服だっけ?」
「……え? ああ、うん」
良太は塩気ばかり強く感じられるフライドポテトを口に運び、飲み込んだ。暴力の残響が躰から離れてくれないでいる。
洋介が弾かれたように窓の外に目をやり、良太もつられて見やった。雑踏があった。外見だけでは何の判断もつかない人々の群れ。休日の東京の姿だ。
細く、長く息を吐き、洋介が取り繕うような微笑を浮かべながら言った。
「とりあえず、あれだな。渋谷に行ってみようぜ、渋谷」
それが余所者に想像できる限界だ。住み始めて一か月では現地人にはなりえない。食べ残しはゴミ箱に放り込み、もしやと抱いた感覚を捨て、良太は洋介と二人で店を出た。
――しかし。
人混みに圧倒されながら店をめぐり、あれこれ服を見て回ったところで、良太の心は晴れなかった。ウカガイ様というシステムの歪みを正そうと決意したのに、歪みを利用する側に回ってしまったという感覚が拭えない。
むしろ、良太自身が忘れ去られていた悪習を復活させたような気さえする。
洋介はいつも以上に饒舌に語り、どこか固さの残る笑顔で表情が固定されているように見えた。まるで作り物の悪鬼のようでもあった。
時おり、ふいに振り向いてはヘラヘラと笑って人の流れがどうたらと口にしていた。
良太もそうだ。雑踏のなかに鈴の音を幻聴しては首を振り、ありもしない視線を感じて脂汗を垂らし続けた。右胸のあたりに痛みを感じ、何度となくブレザーの下を確かめた。白いシャツに流血を示す赤い斑点は見られない。ただの幻覚だ。服の上から撫でて空虚な会話に戻る。
そんな状態で買い物を楽しめるはずもない。
「……えーと、んじゃ、あれ、良太……また明日……?」
洋介が力任せに薄っぺらい笑みを作りながら言った。同時にビクリと肩を弾ませ振り向く。キーン、コーン、と駅の盲動鈴が幽かにこだましていた。
同じく背中を丸めかけた良太も無理矢理に笑顔をつくって答える。
「うん。あの、また、明日……えと、今日は、その、ありがとう……色々と」
本当に、色々と――。
午後十八時前。良太は洋介と駅前で別れ、早すぎるくらいの家路についた。
「――あら、おかえりなさい……?」
リビングに入ったとき、母は不思議なものを見るような目を良太に向けた。
「ずいぶん早かったじゃない。どうしたの? 服は? 買えた」
「うん。まあ」
何かを買った感触はあるが、記憶はなかった。
母・奈々子はパチパチと瞬いて尋ねる。
「どうしたの? 喧嘩でもした?」
「……どうだろ? 違うと思う。たぶん」
良太はネクタイを解きながら考え、いつ買ったのか記憶のない袋をテーブルに置く。喧嘩をしたのかと言われればしてない。人間相手には、という注釈がつくが。
「大丈夫? なんだか顔色が悪いみたいだけど。……晩ご飯はどうする?」
「食べる……と思う。たぶん。先にお風呂に入っていい? それから考えるから」
「いいけど……じゃあ、取っておくわね」
「うん。ありがとう」
良太は部屋に直行し、ブレザーをハンガーにかけ、そういえばと思い出し買ってきた袋を回収、無造作にベッドの上に投げた。考えなければならないのに、何も思い浮かばなかった。
「……父さんは?」
浴室に向かう間際そう尋ねることができたのは、今の良太にとって奇跡に等しかった。
「そうなの。急に会社から電話があったとかで外に出ちゃって。おかげでお母さん、ずっと家でお留守番だったんだから」
冗談なのだろうか。それとも構って欲しいのだろうか。良太には分からなかった。湯がたまるまで奈々子と会話をした。東京はどうだったと問われて肩を竦めるだとか、気に入ったのはあったかと問われて友だちに選んでもらったからと答えるだとか、中身はなかった。
湯に躰を沈め、上がり、ぼうっとしながらベッドに身を横たえると、すぐ瞼が重くなった。
だから、夕食も、父に真実を問い質すことも忘れ、洋介のメッセージにも気づけなかった。
洋介:ヤバい。
ストーカーされてる。
寝てんの?
マジでヤバイたすけて
音声通話(23;07)
音声通話(23:17)
ビビった。
もう平気。
忘れて。
良太がそれらに気づいたのは、月曜日の早朝、午前五時すぎだった。




