幻視
何よりもまず、どう対処すべきか洋介に示す必要があった。彼は白宮のウカガイ様――空雛を垂らす女生徒の姿しか知らない。もちろん、入学時にもらった資料でメグルくんの姿形も把握しているだろうが、急な事態に対応できるかといえば難しいように思われたのだ。
「――ないならしょうがないかな」
先ほどのやりとりなど無かったかのように良太は言った。鳴らしたばかりの喉は声を震わせていた。
「とりあえず九九年のアルバムを借りてくよ。他は片づけて、お昼にしよう」
可能な限り素早く教室を見まわした。時計は十一時すぎを示していた。入口近くの天井、角に分かりやすい監視カメラ。もう一つは対角線上、書架の並ぶスペースの奥にあった。
少年が――メグルくんが鈴をカラガラと鳴らしながら近づいてきた。
「ははは。聞いてた通りだ。やっぱ、そうくる? 分かってんだね。血筋って奴?」
メグルくんの饒舌が情報の洪水に変じて一瞬で良太を飲み込む。
聞いていた? 誰に? そうくる? 血筋?
つまり、メグルくんは良太と父・直幸について知っている?
良太は身動きできず、洋介は事態の把握に遅れた。
メグルくんが小指で組紐を手繰り、三本の細長い舌――先端が鋭く尖った棒鈴の根を握った。
合間に挟まれた三枚の円盤は根元に向かうにつれて小さくなっており、舌の先は自然と等間隔に広がっていく。同時に、すい、と突き出された切っ先が良太の脇腹を押した。
「――でも、こうしたらどうなる? まだ無視してられるか?」
よほど鋭く尖らせているのか、厚いブレザー越しでも直径およそ三センチの円盤か
ら斜めに伸びて三点を押す舌の先端を感取できた。もう少し力を込められたら肌を突き刺すだろうと分っていたにもかかわらず、良太の意識は痛みへの恐怖をノイズのように切り分け、まったく別種の思考を内言として呟いていた。
――三界?
怜音から空雛の知識を得て以来、地道に調べていた仏教の知識と、メグルくんが手にする鈴の形状がつながったのだ。
三界とはつまり仏教における一般大衆――悟りに至らなかった生類すべてが過ごす衆生の世界を表したもので、淫欲と食欲を欲する欲界、淫と食が足るも金銭など物質を欲する色界、それらを離れてなお未練を残す無色界のことをいう。
それらを順に大から小へと連なる三枚の円盤とし、一連を貫く三本の舌ないし釘の根元すなわち上層を握るメグルくん=ウカガイ様は、天部を象徴し神に仕立てられたのではないか。
「どこまで頑張れるかな?」
愉悦に浸る少年の声。幼さの欠片も見つけられない覗き込んでくる。
だが、良太はメグルくんの顔を視界に捉えつつも見ることなく、その先に意識を投げた。徹底した無視だ。そこには誰もいない。誰もいないのだから目には机に並ぶ埃臭い卒業アルバムが写っているはず。だから、無視して手を伸ばす。はずが。
良太の右胸に鋭い痛みが走った。
「――痛っっっ――!」
こらえることなどできるはずなく、口から悲鳴が零れた。いくら意識で無視したところで人体は痛覚刺激に対し反射運動を起こしてしまう。良太の足は痛みから逃れようと後じさり、腰が隣のテーブルにぶつかった。拍子に机の脚が床と擦れて激しく軋った。
少年が、メグルくん――あるいはウカガイ様が酷薄に笑み、半身を突き出すようにして右手に力を込めるのが見えた。
――刺される。
爛々《らんらん》と輝く少年の瞳に本気を観て取り、良太は我知らず洋介のほうに首を振った。彼は両手で三冊のアルバムを重ね持ち、丁度、振りかぶったところだった。
「――なんだよ! この虫!」
洋介が意味の分からない言葉を叫びながらアルバムを振り抜くのと、少年が声に振り返るのとは、ほとんど同時のことだった。重ねられたアルバムの表紙が猛烈な勢いでメグルくんの鼻柱に衝突し、
――ズバンッッ!!
と身の毛もよだつ打音を響かせ、巻き起こされた風が良太の髪を揺らした。
少年は――メグルくんは、まさか自分が殴られるとは思っていなかったのだろう。まともに打撃を喰らってたたらを踏んだ。踵が床に引っかかり、尻餅をつくようにして転んだ。拍子に棒状の鈴が床を叩いて金属質な音を鳴らした。
「いま、蜂かなんかいたろ!?」
ウカガイ様を殴る方便だったのだろう。そう洋介が大声で言った。顔が青ざめていた。
「これ戻しといて」
震え声で言うなり、洋介は手にしていたアルバムを良太に押しつけ、床に尻餅をついたまま固まっているメグルくんのほうへ歩き出す。メグルくんはアルバムで殴られた際に脳を揺らされたらしく視線をグルグルとあらぬ方向に彷徨わせていた。洋介が歩調を早めながら言った。
「それよか良太! やっぱ、サッカー部やらね!?」
また方便だ。洋介は自分がなぜそうするのか説明しながら駆け出し、メグルくんの腹を目掛けて足を振り抜いた。鈍く、重く、水っぽい音とともに、メグルくんの口からくぐもった悲鳴が漏れた。
メグルくんが腹を抱えて土中の芋虫のように躰を丸めた。洋介が顔に脂汗を光らせながら足を振り上げ、身を守ろうとするメグルくんの手の上から腹を蹴った。
「こんな! 感じで!」
言いつつ、蹴った。
「やるだけだし!」
蹴った。
「休日に、図書室で過ごすとか、さっ!」
蹴った。
「不健全だろっ!」
ドボッ! と洋介の足先がメグルくんの腹にめりこんだ。
洋介が足を振るうたびに、少年が身を震わせるたびに、音を耳にするたびに、良太は弾けたバネのように肩を上下した。
ほんの一月と少しの付き合いとはいえ友だちだと認識していた人間の急変に、剥き出しの暴力に、昂奮から引き攣るように笑う口元に、ほんの数舜前にウカガイ様から浴びせられた恐怖以上の慄きをおぼえた。
かつて松本千春が受けたかもしれない仕打ちが眼前で繰り広げられる暴虐に重なり、幻視し、良太は半ば息を詰まらせながら叫んだ。
「よ、ヨウくん!」
ピタリと止まり、洋介がゆっくりと振り向いた。瞳が血走っていた。水を浴びたように汗を滴らせていた。息は荒れ、ゴム製の笑い顔を無理矢理に貼り付けたような歪んだ表情だった。
良太は押し付けられたアルバムをダンボール箱に突っ込み、九九年のアルバムと文集をセットにして持ち、過呼吸になりかけながら、懇願した。
「い、行こう。お、お、お、お昼に――」
洋介が小刻みに震えながら顎を上げ、グッ、と何かを飲み込んで、言った。
「お、おう! だな! お、お、遅く……なっちまうし!」
ギクシャクと、しかし急いで踵を回し、洋介が足早に扉へ向かった。良太もテーブルを手すりの代わりに何とか足を回して後ろに続いた。
図書室を出る間際、振り向くと、メグルくんが――痛めつけられた少年が、短く咳きこみ反吐を垂らすのが見えた。
良太は何も言えずに扉を閉めた。




