網
対応してくれた職員が背中を掻きつつ角を曲がるのを見送り、洋介が頬に溜めた息を捨てた。
「――なんっ、つーか……感じ悪すぎね? 一応は客でしょ? こっち」
「ヨウくん、聞こえるよ」
良太は内心で同意しつつも釘を刺し、カラカラと図書室の戸を開いた。
「下らない理由で休日に押しかけて来たのはこっちだし、仕方ないよ」
「つってもさ――って、それ、理由よ、理由。卒業アルバムでサプライズってマジ?」
「まさか。坊ちゃん学校っぽいこと言ってみただけ。探す物は同じだけど――」
肩越しに片手を振りつつ答え、向きなおり、
「――うわ」
と良太は思わず声をあげた。
どしたん? と洋介が首を伸ばして同じようにうめく。
薄暗い部屋の正面に、長く使い込まれて飴色に光る八人掛けの大きな木机が二脚。手前の机の上に、埃で薄灰色に汚れたダンボール箱が三つも積まれていた。
図書室全体は白宮と比べるのもおこがましいほどこじんまりとしていて、書架も差してある資料も年代物だ。一応、壁際に資料検索用のパソコンも二台設置されているが、これらも相当に古いらしく、使う予定がないのが幸運に思えるほど黒ずんでいた。
「……やっべ。俺マスク忘れたんだけど」
「マスクもだけど、軍手もってくるべきだったかも」
アポイントを取る際にどの年代のアルバムが欲しいか伝えておくべきだったかもしれない、と良太はため息を零した。尤も、たとえそうしたところで、あの職員の態度からして同じ状況になっていたのかもしれないけれど。
二人はひとまず扉が見えるように奥側の机の角を挟む形に並んで、一つ目のダンボール箱を開いた。拍子にパッと埃の粒が舞い、窓から差し込む淡い光に煌めいた。
平積みで一番上にあったのは去年のアルバム。まずこの箱ではないと思われたが全て取り出し無駄骨と確認してから次の箱に移る。ケースつきのアルバムとペーパーバックの文集をセットにして一つの箱におよそ二十年分が詰め込まれていた。つまり、二つ目の箱を見れば事足りるということだ。
「――そんで? 親父さんだっけ? 名前は?」
「菊池直幸。だいたい三十年くらい前なんだけど――」
良太はスマートフォンで怜音から受け取った事件記事を呼び出した。記事が書かれた九八年当時、直幸は十四歳だったはずだ。したがって、
「九九年プラスマイナス三年くらいで探せば見つかると思う」
「プラマイ三年? なんで?」
「だいたい三十年くらい前って言ってたけど、正確には聞いたことなくて」
「マジ? 親父さんのトシ知らねえの?」
「じゃあヨウくんは言える?」
問いつつ良太が顔を向けると、きょとんとした洋介の瞳とかち合った。どちらともなく吹き出し、手を動かし始める。家族なんて存外そんなものだ。特に父親は。両親の誕生日も良太の代わりにスマートフォンが覚えていてくれているから、これまで問題はなかったのだ。
良太は真っ先に本命の九九年を開いた。
「うわ。六クラスもある」
「マジ? マジだ。こっち七クラス。多くね? 昭和やば」
「平成って書いてあるけど」
「一緒っしょ」
無駄話に肩を揺らしながら良太は慎重にページを繰った。まずクラスごとの集合写真。下段に名前も並んでいた。
――菊池直幸、菊池直幸、菊池直幸――
人生で父の名をこれだけ唱えたのは初めてのことだろう。
一クラス、二クラスとページをめくるうちに手が震え始めた。脈拍も加速していく。
――いない。ここにも。ここにもいない。
自分から確かめにきておいて、怯えているのだろうか。十五歳の男子生徒の顔のなかに四十歳前後の父の面影を探す。パーツ。目は変わるが耳は変わらないと何かで読んだことがあった。
けれど。
「――いない」
声が掠れた。咳ばらいを入れて洋介を見やる。
「そっちは?」
「いない。これは――九七年。次は九六年見るわ」
「じゃあ僕は九八年だね」
埃を払い、開き、父を探す。心の片側で真実への接近に喚起し、もう片側で見つかってくれと祈りながら。けれど良太は祈るべき具体的な対象を持たない。
「いねえ。次は――九五年?」
調べ終えたアルバムを脇に置き、洋介が別の一冊を抜き出す。
「てか、学校、ここで合ってんの? 川の向こうたって、東京そこら中が川じゃん」
「大丈夫。学校は合ってるよ。橋の名前を知ってるから」
父・直幸から聞いた、叔父に侮辱されたことを笑い話にできた理由。祖父の江戸っ子じみた台詞だ。
『橋は橋でも両国橋なら――』
怪談噺の前置きで橋の手前で暮らし橋の向こうに通ったと言っていた。当時の公立は治安が悪かったとも。だから、ここに名前がないのなら――
「おっほ」
と洋介があげた奇妙な声に、良太は弾かれたように顔を向けた。
「見つけた?」
「あった」
その言葉にホッとした半面、振り出しに戻ったかと嘆いた。そのとき。
洋介がニヤリと笑ってアルバムを開いた。体育祭の写真だった。意味が分からない。
「……えっと?」
「え? 分かんねえ? ほら、ブルマー」
「……ブルマー?」
良太の首は意志によらず傾いだ。
洋介は楽し気に写真を指差して笑った。良太の眉は自然と寄った。
「マジでみんな着てたのな。昭和ってヤベー」
「……平成だってば。初期だけど」
「怒んなって。だっていねえんだもん。どする? プラマイ五年くらいいってみる?」
「うーん……いや、いいよ。次ので最後にしようと――」
思う。と続けるかどうかというとき、急に図書室の扉が開かれ、二人で悲鳴をあげかけた。
大柄な――少なくとも洋介と同じくらいの背丈の――ギラギラとした目つきの少年が立っていた。黒の学ランも線を細く見せるためひょろ長いという印象だが、寸足らずの袖に覗く筋張った手首に太い血管を浮かせ、古びた五寸釘のようなものの束を固く握りしめており、中坊と侮れるような生き物には思えなかった。
その中学生とは到底、想像しえない圧力に良太が絶句していると、これこそ俺の役目とばかりに洋介が片手を挙げて応じた。
「ど、どもーっす……お邪魔してるっす。あの、俺ら、白宮から来てて……」
圧に負けたのだろう。洋介は敬語になっていた。
少年はニッと唇の片端を吊り、蛇を思わせる赤い舌で唇を舐めた。
「マジで来んだもん、笑えるよ、あんたら。網ぃ張っとけって、クソ怠ぃと思ったけど、これはちょっとマジ、笑える」
「え――っと……」
と洋介がやや引き気味の顔を良太に向けた。やべえよこいつ、と書いてあるようだった。
今度は僕が、と良太は少年に向きなおり、気づき、背筋に冷気が走るのを感じた。
学ラン。五寸釘に似た金属棒の束。見れば筋張った手首に赤い組紐が巻かれている。
職員は何と言っていた。
『白宮の子なら知ってるか』
つまり、こいつは。
良太は言おうとしていた言葉を飲み込み、言い直す。
「ヨウくん。こいつ、アレだ」
「あ、アレ? アレって――」
「何だよ?」
洋介の言葉尻を食い取り、少年が右手を開いた。握りしめていた茶褐色の金属棒が三本バラリと垂れ下がり、棒同士をつなぐよう水平に連なる三枚の円盤に触れ、
――カラン、カラガララン……。
と、時に澄み、時に濁る鈴の音を奏でた。
――メグルくんだ。こいつが、この学校のウカガイ様だ。
良太の喉が水気を求めて蠕動した。




