久我硝子
手元に届いた単語の仰々しさに、良太はしばし呆然となった。
調伏とは、語源を仏教に求める語であり、意味は自身の内を修めて悪行を捨て、自身の外にある魔を信服させ、自らが悟に至るまでの道――成道を阻む障害を取り除くことをいう。
特に密教系では四種法――息災、増益、鈎召、降伏の四つのうち、降伏法を指す。不動尊や摩利支天を本尊とし、黒い法衣を纏い南方に向けて護摩壇を据え、怨敵を倒すよう祈る。原義はどうあれ、戦国時代に多用された点を踏まえれば、現代では呪いと呼ぶのがふさわしい。
――ウカガイ様を調伏……?
だからこそ、良太は胸の内でもう一度おなじ言葉を繰り返す。混乱する頭を努めて冷静に保とうと音で中身を確認する。遅れられてきた文字列の意味するところはすなわち――、
良太:久我さんはあの子を殺そうっていうの?
恐ろしい言葉だ。良太の地元では滅多に聞かれなかったが、大人たちのあいだで口に上ればまず間違いなく場を冷気が満たした。山の奥だ。殺すという語の意味はずっと重い。
硝子:怖いこというね。
でもそう。
ある意味では当たってるかも。
良太:ある意味?
硝子:私が殺したいのは彼女じゃない。
小学生の頃の友だちに取り憑いてる奴だけ。
取り憑いている奴――つまりウカガイ様のことだ。久我硝子尾の古い友人がウカガイ様という役目を仰せつかり関係が断たれた。だから神を調伏したいというのだ。厳密にいえば神というよりウカガイ様という制度そのものを破壊したいのだと。
良太:でも、なんで?
小学校の頃の友だちって三年生の頃って意味だよね?
硝子:そう。あの日までは松本千春だった。
良太:あの日っていうのは、祭祀のこと?
硝子:たぶんね。
表向きには先代が選ぶことになってるけど、
いつ決まるのか、誰が決めるのか、
正確なところは分からない。
生徒たちは祭祀の正式な名前を知らされていない。ただ各クラスから投票により生徒を一人選び、柱の候補としてウカガイ様に供されるとだけ聞かされる。
小学三年生といえば、まだ十にも満たない子どもだ。恐ろしいウカガイ様に向き合う者を選べと言われれば、多くの場合クラスで最も嫌われている人間が選ばれる。
硝子:松本さんを嫌っている子は何人かいた。
でもクラスの全員ってわけじゃない。
運が悪かったんだと思う。
祭祀で選ばれなければ今もいたはずだから。
人身御供の候補に選ばれた生徒は真っ白い着物のような衣装に着替え、全校生徒が一堂に会する場で壇上にあがり、暗幕の奥に消える。生徒たちが知る祭祀はそれで終わりだという。
硝子:終わったら教室で生徒の帰りを待つの。
今でも覚えてる。
隣の教室がザワザワしだして、歓声が聞こえて。
扉の音と一緒に、おかえりって声が聞こえた。
すぐに先生の声がした。
すぐに静かになって。
久我硝子がいた教室には重い沈黙が立ち込めていた。誰ともなく互いの顔を見合い、なぜ松本千春は戻ってこないのか言外に尋ね合っていた。
そのとき、沈黙を払うように、教室のスピーカーかハウリングした。誰かが小さく悲鳴をあげ、先生に睨まれ慌てて口を塞いだ。
薄気味悪いほど穏やかな、大人の声が告げた。
『これより、一分間の黙祷を捧げます』。
誰に、何に、何故――何の説明もない。教壇に立つ先生が、合図があったら両目を閉じてお祈りするように、とやり方だけを事務的に述べた。そしてスピーカーが唸り、音を届ける。
――チリン、ヂリン……。
生徒たちの誰もが聞きなれた、聞こえたら静かにしていなくてはいけない、ウカガイ様の鈴の音だった。久我硝子も、他の生徒も、咄嗟に顔を伏せ目を瞑った。
『黙祷』
長い一分間だったという。
黙祷を捧げる生徒たち一人一人が必死になって祈っていたという。
自分たちが選んだ生徒だけ帰ってこない。黙祷。祈り。幼くても事情は理解できた。泣きたくなる重い後ろめたさを抱えさせられた。
硝子:それっきり松本さんは教室に来なくなった。
一年後には鈴を垂らして廊下を歩くようになってたけどね。
祭祀を境に連絡すら取れなくなった松本千春は、ウカガイ様として学校に戻ってきた。もはや見えてはいけないし、話すこともかなわない。
硝子:六年のとき私のクラスでイジメがあった。
でもそれはイジメだけどイジメじゃなかった。
良太:どういう意味?
硝子:松本さんは日に日に雰囲気が変わっていったの。
昔はあんなじゃなかった。
友だちだから分かる。
皆と話したいけどできないし、声をかけても無視されるし
だんだん変になっていった。
だからだと思う。
助けようとした子がいたの。
祭祀の日、久我硝子や松本千春と同じ教室にいた生徒だった。
六年生にあがった六月ごろ、その生徒は教室の前に現れたウカガイ様に、松本さん、と呼びかけたという。一旦は他の生徒が止めに入った。松本千春なぞいないかのように振る舞いながら、あたかもその生徒がおかしくなったかのように。
だが、その生徒はやめようとしなかった。
硝子:どう考えてもおかしいって言ってね。
こんなのもう見てられないって。
携帯で写真を撮って、教育委員会に訴えるって。
それからだよ。
私たちのクラスはその子を無視するようになった。
本当なら手伝いたかった、と久我硝子はつづけた。
けれど、白宮の受験が目前に迫っていた。ウカガイ様は絶対の禁忌だ。いま触ってはいけないと自分に言い聞かせた。他の生徒もそうだ。卒業まで残り半年だ。後ろめたい記憶もあと半年我慢すれば忘れることができる。触らぬ神に祟りなし――六年二組は、生徒のほうを切ることに決めた。
硝子:一か月も無視するとみんな慣れてくるの。
陰じゃ神隠しに遭ったとか言われてた。
不思議だったのは祟りなんかなかったことかな。
良太:どういうこと?
祟りがない?
硝子:みんな祟りにあって本当に神隠しに遭うと思ってた。
でも結局、卒業までいたからね。
その後は知らないけど。
一度だけ写真が送られてきた。
まるで呪いのように思えたという。見捨ててしまった恨みかと。写真は生徒が撮りためていたものらしく、松本千春だけでなく空雛などの写真もあった。
硝子:他の写真は危険だから捨てちゃったけどね。
でも、私が引き継ごうと思ったの。
久我硝子はウカガイ様を調伏し、松本千春を蘇らせるために、koshokosho_3というアカウントをつくって空雛の写真をアイコンに据えたのだといった。




