ウカガイ考
まさか休日に袖を通すことになるとはと思いつつ、良太はブレザーの襟を正した。
昨晩のうちに用意しておいたバックパックを片手にリビングに出ると、当然ながら父・直幸と母の奈々子に奇怪なものを見る目を向けられる。
「何?」
先手を取って良太がそう尋ねると、直幸がまだ寝ぐせの残る頭に手櫛を通しつつカレンダーを見やった。
「知ってる。今日は第四土曜日だよ」
良太はまたしても先手を取った。白宮学園高校では各月第一、三土曜日にも授業がある。
直幸は瞬きしながら奈々子と顔を見合わせ言った。
「塾の見学とかなら……」
「違うよ。ちょっとよその学校の図書室に行くから制服にしただけ」
嘘ではない。正直に小学校だというつもりもないけれど。
奈々子が席を立ち、良太のネクタイに手を伸ばしながら、何か他に言うことはないかとばかりに顔を覗き込んだ。
「え……っと……たぶん、昼過ぎには帰れると思う……から」
「あ、そう」
奈々子は鼻で息をつき曖昧に笑った。
「まあデートで制服は着ないものね」
「……母さん……まだ入ってから一か月も経ってないよ」
「そう? お父さんは二週目には女子にちょっかい出してたけど」
ぶっ、と吹き出すように直幸が笑った。
「そりゃ記憶違いだよ、ちょっかい出してきたのは奈々ちゃんのが先だった」
うえぇ、と良太は瞬時に遠い目をして玄関に足を向けた。背後から聞きたくもない声が――直くんがどうとか奈々ちゃんがどうとか――聞こえてきたような気がした。無論のこと聞こえないフリをしながら外に出る。
不思議だった。
――どうして身内なら簡単に無視できるのに、ウカガイ様だと難しいのだろう。
昨晩、怜音から得たウカガイ様の話――より正確には、ウカガイ様が左手首に垂らす鈴の話を聞いてから、脳の少なからん領域を支配されている。
空雛。啐啄同機。教育の真髄であるという説話。それを象徴するらしい鈴を手首に垂らし、校内を巡り歩く。小中高まで傍にいるのに大学にあがると姿を隠す。その在り様は――、
――あれは、鐘……?
鈴と鈴、あるいは鐘。
英語に直せばどちらもベルの一語になるが、神道と仏教では別物になる。
代表的な神道の鈴といえば拝殿前に吊られた本坪鈴だ。丸い釜形の空洞に金属球を封じ、切れ目を付けて音を鳴らす。用途は邪気を祓うため。また鈴の音は神を呼ぶとし、鈴を束ねた神楽鈴は神憑りの道具とする。
一方で仏教における鈴は宗派によってさまざまな用途と形態をもつ。たとえば寺院に釣られる梵鐘や仏壇の前に置かれる鈴。梵鐘は音で煩悩を祓うほかに礼拝の時間を知らせ、鈴は読み上げた御経の区切りを示すために鳴らす。
他には特に密教で用いる金剛鈴――煩悩を祓う帝釈天の武器、雷を操る金剛杵から刃を取り払い鈴に変えたものがあるが、これは神道の神楽鈴に近しい機能をもつとされている。
神道でも仏教でも鈴という漢字を用いるが、大きく違うところは鐘でいうところ舌すなわち音源が目視できるかどうかである。
鈴は空洞に切り込みがあるだけで中は見えない。
鐘は内側に舌が見える。
怜音が教師から聞いた話が本当ならば、ウカガイ様の由来は禅宗ないし密教系にあるのだろう。さらに紐で吊るして持ち歩く姿は密教系の金剛鈴に近い。
くわえて、帝釈天だ。
図書室から借り出した東京の寺社仏閣を紹介する本に、帝釈天の名を見た覚えがある。あれはいったい、どこだっただろうか――。
――ポン。
とスマホが小さな電子音を鳴らし、良太は我に返った。画面を見やると目的地に到着した旨を告げていた。
東京の、特に都心部にあるとは思えないほど長閑な一角だった。数こそまばらだが立派な桜と梅の木が並び、土色の校庭の向こうに木造を思わせる三階建ての横長な校舎があった。
強い既視感の正体はなんであろうか。まるで地元の知らない学校だ。子どものころ隣町の小学校に探検にいったときを思い出させる。もちろん、石を削ったような校門前に立つ、人のよさそうな年老いた警備員が、そこが東京であると示しているのだが。
――よし。行くぞ。
良太は一つ咳払いを入れ、昨晩、怜音に与えられたアドバイスに従い、可能な限り堂々とし態度で、あたかもすでにアポイントメントを取り付けてあるといわんばかりに、小さな会釈を差し込みながら警備員の横を通り過ぎる。
良太の胸の内では今にも張り裂けそうなほど激しく心臓が打ち鳴らされていたが、警備員は曖昧に笑いながら帽子のつばを引っ張っただけだった。
侵入を咎められずにすんだのは、白宮の制服のおかげだろうか。
だとしたら、うまくいくかもしれない。
良太は平静を装いつつ玄関へ向かい、来客用の靴箱でスリッパに履き替えた。
不慣れな土地を歩くからと少し早めに家をでたのもあるだろう、まだ授業中らしく廊下は静まり返っていた――が。
チリン、チリン、ぢりん……。
と、どこか遠くから幽かに、鈴の音が聞こえた。
その白宮で聞くのとよく似た、ときに澄みときに濁る音色に不意を突かれ、良太は我知らず喉を鳴らしていた。
――ウカガイ様だ。
目論み通り、ウカガイ様がいる小学校に来れたのだ。
それも白宮のウカガイ様がかつていたかもしれない小学校に。




