自己像紹介
四月八日。始業式からの入学式を終え、良太は顔色も悪く他の生徒に混じり一‐Cの教室に入った。四十人ほどが詰め込まれている教室の、希少な空白をヒリヒリとした緊張が埋めている。理由はもちろん自己紹介の四文字――と、もう一つ。
未だに教室と生徒たち全体に緊張の尾を引かせている異様。
全校生徒が一同に介するホールに響いた澄んだ鈴の音。
ウカガイ様だ。
さらに異様だったのは、反応する生徒がいなかったこと――いや、厳密には首を巡らす生徒もいるにはいた。良太のすぐ近くでも同じことが起きていた。けれど、恐らく内部生であろう半分以上の生徒に動揺を押し隠していた。
良太もそうだった。こっちに来ないでくれと祈りながら顔を伏せ、耐えた。音の方に振り向かないように首に力を籠め、膝を握りしめた。
音の主は、ウカガイ様は生徒たちの間に大きく開いた道を堂々と鈴の音を鳴らして舞台の手前まで練り歩いた。二、三年生は手慣れたもので微動だにしない。
鈴の音が響く前までは聞こえてきていたごく幽かなざわめきすら消え、その姿が新入生の特に高校受験組を引っ張っていく。
良太の席からかろうじて見えたのは、ウカガイ様がじっと壇上の校長を見つめ、話が終わるより前に踵を返し、出ていく姿だ。
囁やかな喧騒が戻り、登壇者が代わる。
「――です。よろしくお願いします」
何度目かの脊髄反射的な拍手が教室に鳴り渡り、生徒が椅子を引く軋んだ音色に良太の意識が教室に戻った。生徒たちはア行の男子女子から順繰りに席を立ち、名前と好きなことやら特技やらを喋り、また席につく。
無難にやり過ごす生徒もいれば、笑いを取りにいこうとスベる生徒もいる。もう自分の番がやってきた。斜め前の席の女子が座り、良太は立った。余計なことを考えていたせいで、話す内容を決めていなかった。胃が急に痛みだした気がした。
「えと、菊池、良太です。えーと……」
生徒たちに顔を向けると四十ちかい瞳があり、喉が引きつった。特技らしい特技はない。趣味と言える趣味はない。一つあるにはあるが、高校の自己紹介でいう勇気はなかった。
良太は焦燥の渦中で地元の名前を口にし、生徒たちの目の色が変わったような気がし、
「まだ東京に慣れてません。なので、あの……よろしくお願いします」
吐きそうだった。笑い声の幻聴すら聞こえたようだった。嫌な記憶も戻ってきた。中学の自己紹介で、読書が好きと言ったせいで笑い声が起きたことがあった。二年目で、頭がいいらしいと知られていたからだろう。誰でも知ってるというような、そんな揶揄が飛んできた。
生徒がそう多くなく、生活の場そのものが狭かったからだ。地元では、どこそこの誰が成績がいい、なんて話はそこら中に転がっていた。助け舟は横から出た。やはり怜音だった。
――いや、良太の家めっちゃくちゃ本あるから! エグいよ!?
その一言で、笑い声の焦点は怜音にズレた。
隣の女子が席を立ち、光の加減か薄っすらと茶色く見える黒髪を耳にかけ、言った。
「久我硝子です。趣味は読書――って言うことにしてます」
一瞬だけ揺れた教室の空気が、また方向を正したような気配があった。助けられたようでもあり、違いを見せられたようでもあり、良太は両手で顔を覆って頬の熱に耐えた。
ふと顔を上げて久我硝子とはどんな子だろうと覗き見ると、彼女は目ざとく気づいて、何? と柔らかに小首を傾げた。気まずさに会釈すると、久我硝子は不思議そうに微笑み小さく顎を上下した。
――読書……読書……洋書とか読んでそう。
良太は口の中で呟く。すぐに気づく。
――って言うことにしてます。
つまり、別に読書は好きではないのだ。あるいは、他にも色々あるけど、とりあえず読書と言っておくのがいいだろう、というような。
そう改めて耳を澄ませてみると、生徒たちの自己紹介と反応には傾向があった。
趣味や特技を言うにしても、より踏み込んだ内容――たとえば芸能人の誰それが好きとかといったところまで至ると、教室の空気が揺らぐ。
ただの自己紹介ではあるのだが、各々の発言の深度が、教室の反応をつくる。深ければ深いほど警戒にちかづく。地元で余所者に遭遇したときに似ている。
逆に表面だけを撫でるような話に落ち着きを取り戻す。
東京はまるで逆だと良太は思った。自己紹介で自分を紹介してはいけない。自己イメージを話さなくてはならない。
言い換えれば、こういう人だと思ってほしいという願望。それがイメージしやすいほうがいいのだろう。その意味で、良太がした出身の話は無難ではなくなる。地元であればほとんど全員が地元の出身者で固まるためにわざわざしない話だ。あえてするならどこの町まで踏み込んでいく。あればさらに細かな補足も入る。たとえば、どこの病院で生まれたであるとか、そんなところまで。
父の――直幸の言っていた話に遅まきながら納得した。
つまり良太は、初めて訪れ今後三年を過ごす村で、自分は余所者であると名乗ったのだ。
自己紹介がつつがなく終わり、担任が他の教室の進み方を見てくるから待機するように告げて出ていくと、しめやかな喧騒がじわりと広がり始めた。
と、同時に良太は背中を突かれ弾かれるように背筋を伸ばした。
「うわっ、ごめっ」
と良太の背に男子の声が投げかけられた。振り向くと、横髪を少し刈り上げた少年が驚いたように目を丸くしていた。
「ごめん。驚かそうと思ったわけじゃないんだけどさ」
「えと、こっちも。ちょっと、こう、考え事してて――えっと……?」
名前。良太は記憶を辿るがちょうど周知に顔を覆っていたときで聞き逃していた。どうしよう、と焦る間にも少年は胡乱げに細い眉を寄せ、ややあって笑った。
「え、ガチで? 眼の前で俺の自己紹介、聞いてなかったとかある?」
「…ごめん。本当」
少年はケラケラと笑い、ちょっと待ってとばかりに掌を見せた。
「や、いいんだけど――ごめん、やっぱちょっとそれ面白いわ、菊池くん」
「えと、良太でいいよ。菊池って多いし」
「マジ? そういう感じ?」
その瞬きに、良太はまた内心で冷や汗をかいた――が。
「よかったー……」
少年はホッと息をついた。
「ちょっと焦ったし。あれだ。じゃあ、俺、小山洋介ね。今度はちゃんと聞いといて」
「大丈夫。目の前だし」
奇妙な会話に、良太と洋介はどちらともなく小さく吹き出す。
「ごめんね、本当。それで――何?」
「や、何ってわけでもないんだけど、ほら、出身――俺、そこ行ったことあるかもって」
今度は良太が瞬きする番だった。




