六度目の旦那様――もう、終わりにしましょう。
――突然、夫が倒れたという報せ。
それを受け、いち早く彼の寝室へ駆け込んだのは妻のエステルだった。
「フリードリヒ様!!」
ベッドには、人形と見紛うほど美しい青年が静かに眠っている。
フリードリヒ・スレイトファー。
国内にある五つの公爵家の内、最も幅を利かせているというスレイトファー公爵家、その主。
それが、貧乏伯爵家出身のエステルの夫だった。
はじまりは一年前、立太子の祝宴でのこと。
フリードリヒは美しき次期公爵として、昔から社交界でも注目の的だった。
夜会とは縁遠い生活をしていたエステルも、義務的に行ったその祝宴で遠目から彼を眺め、度肝を抜かれたものだ。
陽光を透かしたような白金の髪に、冴え渡る蒼の瞳。均整のとれた体躯に透明感のあるきめ細かな肌、凛とした横顔の美しさ。爪のかたち一つとっても、精巧な人形でないことに驚く。
隙がない、というのが第一印象だった。
つけ入る隙を与えない鋭い眼差しが、そう思わせるのかもしれない。完璧な美貌に人間らしさを添える唯一が、その明確な拒絶の意思だった。
だからか、祝宴だというのにフリードリヒの周囲には人がいなかった。
独身主義だというのは、噂に疎いエステルの耳にさえ届くほど有名だ。こうして人を寄せ付けないからこそ、彼は独り身でいられたのだろう。
それなのに、この祝宴をきっかけにエステルと婚姻を結ぶことになるとは、何とも皮肉な話だった。
温和なエステルの父はその当日、たまたまスレイトファー公爵の落としものを拾った。
精緻な装飾の中央に配置された、光を吸い込む漆黒のジェット。一目でモーニングジュエリーと分かったという。
スレイトファー公爵は愛妻家だった。
亡き妻を偲んだ指輪は、祝いの席に相応しくない。だがどうしても置いていくことができなくて、こっそり懐に忍ばせていたのだとか。
父は公爵を責めず、むしろ彼の秘密を守った。
父もまた、早くに愛する妻――エステルにとっての母を亡くしていたからだ。
両者共、妻を亡くして以降は独身を貫いている。それゆえ意気投合するのもあっという間だった。
貧乏伯爵家の一人娘であるエステルに、一人息子であるフリードリヒとの縁組を打診するまで、そう時間はかからなかったほどに。
そうして下された公爵からの絶対的な命令のため、フリードリヒは結婚という呪縛から逃れられなくなってしまったのだ。
正直、同情を禁じ得なかった。
結婚から半年が経ち、その間にフリードリヒは正式に公爵位を継いだ。エステルもスレイトファー家での暮らしに慣れてきた。
使用人は親切で、邪険にされている花嫁を気遣う素振りさえ見せる。主人にならって冷遇されることもあり得たので、これは本当に助かった。
だが夫婦仲が深まったかというと……答えは否。
会話どころか、邸内でほとんど顔を合わせたこともない。ここまで徹底的に避けられれば、さすがのエステルでも気付く。
フリードリヒは未だに、この婚姻契約に納得していないのだと。
正直、当然の反応だと思った。可哀想だとも。
けれどエステルは、他から声がかかることのなかった余りものの身。嫁ぎ先が見つかってよかったと泣く父を見たら、到底拒否などできなかった。普通に良心が痛む。
家内を取り仕切るのが女主人の役割なので、今は家令から少しずつ学んでいるところ。
勉強は順調。何不自由なく暮らせているし、エステルに不満はない。
「いえ……あるわ、一つだけ」
「エステル様?」
エステル付きの侍女のナリーが、紅茶を注ぐ手を止めて首を傾げる。
思案に夢中で何かがこぼれていたらしい。エステルは慌てて笑みを作った。
「あぁ、いえ、何でもないのよ。ただ……そう、早くお役に立ちたいから、もっと厳しく教育をしてくれて構わないと思ったの」
「エステル様、焦りは禁物ですよ。少しずつ馴染ませた方がよく身につくと、いつも家令のゼフに言われているではないですか」
「だって退屈……いいえ。このスレイトファー家のことを、もっと学びたいのよ」
使用人達には、『奥様』ではなく名前で呼んでもらうようにしている。
『奥様』など恐れ多いし、そもそもフリードリヒが嫌がるだろうから。そう提案したら泣かれた。
スレイトファー家で働く者達は、情に厚すぎる。
今もまたナリーが感涙していた。
「何と熱心なお言葉……エステル様は、こんなにもスレイトファー公爵家を、旦那様のためを思っていらっしゃるのに……うちの旦那様ときたら……」
「いいのよ。顧みてもらうためにやっていることではないもの」
これも紛うことなき本心。
むしろエステルは、冷たくされても全く気にしていない。なぜなら愛がないのはお互い様だから。
顔を合わせるたび美しさに目を奪われるのは事実だが、それだけだ。親しみがないのだから、慕わしさも湧かない。自然の摂理といえる。
エステルは涙に弱い。
ナリーにこうも泣かれては、暇だからもっとじゃんじゃん予定を詰め込んでほしいという本音を、打ち明けられなくなってしまった。
暇。
そう、エステルは暇だった。
家内の采配について学ぶ以外は、こうして素晴らしい庭園を眺めながらお茶を飲むか、本を読むか。フリードリヒが社交関係を強要しないから、本当に時間を持て余していた。
こうして暇を抱えたまま息絶えるのか……と半ば本気で思っていた。
突然倒れたというフリードリヒが、目覚めて真っ先に、エステルを抱き締めるまでは。
「へぁ……?」
間抜けな声を上げてしまったと気付いたけれど、もう遅かった。
エステルは慌てて笑みを作って取り繕う。
「だ、旦那様……? いかがなさいました?」
フリードリヒは、二ヶ月前に当主の座を継いだばかり。疲れというのは慣れてきた頃に出るものだ。
だからこの抱擁は、一時の気の迷い。
そう自分に言い聞かせなければ、不覚にも赤くなってしまいそうだ。この顔面で至近距離は反則。
「医者を……私は医者を呼んできますので……」
「行かないでくれ、我が妻よ」
思わず足が止まった。
わがつま。
聞き間違いか?
初めて聞いた単語を頭が受け入れてくれない。
ギギギ、とぎこちなく振り向く。
フリードリヒは、一心にエステルを見上げていた。美しい蒼色は潤み、どこか切なげですらある。
頭の中をたくさんの子犬が走り回る。
可愛い。けれど相手は公爵。捨てられた子犬のようだなんて思ったら失礼だ。
「あ、あの……?」
「これまでの態度、全面的に謝罪する。僕は、君がいればいい。だからずっと一緒にいてくれ……」
それからひたすら泣きながら謝り続けるフリードリヒを置いては、どこにも行けなかった。
エステルは涙に弱いのだ。
ようやく追いついたナリーが寝室へ駆けつけるまで、エステルはただひたすら立ち尽くしていた。
◇ ◆ ◇
彼にとっては望まない結婚だったはずなのに。
フリードリヒが倒れてから何日も経った今も、エステルの頭の中には疑問が渦巻いている。
「エステル、あーん」
……旦那様の奇行が止まらない。
問題なしと医者は診断したけれど、もしかしたら何かの病を得ているのではとすら思う。
朝食の席にフリードリヒがいること自体、不自然なのだ。倒れる前までは常に別だったのに。
あの日を境に全てが変わった。
こうして、フリードリヒが手ずから、エステルの口元へ食事を運ぶようにまでなっている。
これは事件だ。
ナリーも異例の事態に動揺し、こちらをさりげなく凝視している。家令のゼフまでも。
というか食事のたび、不必要なほど使用人が増えているような。完全に見世物扱いだ。
「エステル、おいしいよ?」
彼が食べたサーモンのテリーヌ。
同じものを同じカトラリーで食べるなんて、さすがに恥ずかしい。けれどフリードリヒが決して引かないことも、この数日で分かっていた。
エステルはサーモンを口にした。味がしない。
彼が満足げに笑う。その甘い表情は、まるで愛しいものでも見るかのよう。
これまでは、距離が遠かったから意識せずにいられたのだと実感する。
これは無理だ。フリードリヒの態度が甘いのに、こちらの方が溶けそう。
急な態度の変化。涙ながらの謝罪。
その理由を問いただすことすらできない顔面の強さ。もはや罪、有罪だ。
「エステル、これも食べて……」
「だ、旦那様!」
あっさり我慢の限界が訪れ、エステルは性急に彼を遮った。
怒るだろうかと一瞬ひやりとする。
不安とは裏腹に、フリードリヒは目を瞬かせたあと、促すように小首を傾げた。
――あ、あざといぃぃぃぃぃ!!!!!!
心が全力で悲鳴を上げるのを、エステルは全力で抑え込んだ。
「……旦那様。私、買いものに出たいのですが」
「いいね。では僕も一緒に行こう」
少しでも離れて息抜きしたい。
笑顔にも弱いエステルが、そんなことを言えるはずもなかった。
……いいや、認めよう。
エステルはもう既に、結構絆されている。
元々身を飾ることへの関心が薄かったエステルを、フリードリヒは色々なところへ連れ回した。
宝飾店やドレスを製作する工房、帽子店や靴店、家具や雑貨を扱う店など。
買いものを済ませて店舗を出た二人は、噴水広場に向かって歩き出す。
「初めて足を向ける店ばかりで新鮮です」
「僕もだ。今までは、職人や商人を屋敷に招いて買いものをしていたから」
「あぁ……」
公爵家ともなればそうか。
遠い目になって立ち止まると、フリードリヒが慌てて駆け戻ってきた。何を焦っているのか。
彼は困った子どもでも相手にしているかのように、エステルの手を握った。
「何があるか分からないから、離れないで」
「はい……」
すれ違う人達から注目を浴びている気がする。
フリードリヒの美貌と、繋いだ手に。
エステルは、どこをとっても平凡な外見だ。亜麻色の髪に焦げ茶色の瞳も、この国における大多数が持つ色合い。
到底釣り合わない。
それはそうだろう。
だが、手を離す気になれなかった。
「君と一緒にいるせいだろうか。どこへ行っても楽しいと感じる」
フリードリヒが少年のように笑うから、エステルもしっかりと頷き返した。
「噴水広場には屋台があるんですよ。……何か買って一緒に食べませんか?」
また手ずから食べさせられるだろうと分かっていながら、誘った。
恥ずかしさより、彼と楽しい時間を過ごしたいという気持ちの方が、強くなっていた。
親しみがないのだから、慕わしさも湧かない。自然の摂理といえる。
逆に、親しくしていれば心は動く。
そんなふうに三ヶ月ほどを過ごした頃、すっかりエステル達の関係は変わっていた。
よく話し、共に過ごす。フリードリヒは執務のない時など、常にエステルに張り付いていた。
彼を無感情な人形のようだと思っていたが、全くそんなことはなかった。
よく笑い、よく泣く。時折不安そうな顔でエステルを見つめるから、ずっと側にいて息が詰まっても怒れない。というより、気疲れしなくなっていた。
ナリーはこの成り行きが本当に嬉しいようで、いつもニヤニヤしている。
腹立たしい笑い方だが、それだけ心配させたということでもある。頬をつねるだけで許そう。
「痛い痛いいたいいたい!! エステル様、握力どうなってるんです!?」
「あらナリー、これでも加減してあげているわ」
「ひぃぃっ! すみませんでしたぁぁ!!」
仲良く庭園で紅茶を飲んでいたフリードリヒが、主従のやり取りをじっと見つめて呟いた。
「……いいなぁ。信頼を感じる」
「旦那様?」
「なぜだろう……名前で呼んでいるから? うん。ではエステル、僕のことも『フリードリヒ』と」
一つの結論に至った彼が、真剣な顔で提案する。
たぶん間違っているけれど、本人は至極本気だ。エステルは笑ってはいけないと口元を引き締める。
「分かりました。では、フリードリヒ様」
「――あぁ」
彼は嬉しそうに破顔した。
やはり子犬のようで、エステルもつられて笑う。
その時、家令のゼフが顔を出した。
「ご歓談中に失礼いたします。旦那様、ルリトレ公爵家のフルア様より書状が届いております」
家令の言葉を聞いた途端、フリードリヒはたちまち表情を失った。印象に残っている、以前の人形のような素っ気なさ。
彼は急いで書状の内容を確かめると、震える手で握り潰した。
「しまった……先に動かれたか……」
不穏な呟きが気になって、エステルも書状を覗き込む。けれど何てことのない結婚祝いだ。
内容は、ルリトレ公爵家にエステル達を揃って招待するというもの。文面からも、幼少期からフリードリヒと付き合いがあったことが窺える。
二人での外出が増えたことで、人目を引く機会も増えていた。
これまで謎めいた婚姻と貴族達から格好の話題にされていたスレイトファー公爵夫妻だが、最近は円満であるという噂が広まりつつあった。
この招待も、真相を知りたいという好奇心が詰まったものだろうが、同格の公爵家からの誘いを無下にはできない。
特に結婚の祝いともなれば、大した理由もなく断るわけにはいかなかった。
「いや……まだ間に合うはずだ……むしろ、こちらが打って出れば……」
エステルには、フリードリヒが不必要に取り乱しているように感じる。青ざめて震えながら――何かをひどく警戒しているよう。
エステルに社交をさせたくないから?
その日の茶会は、重苦しい空気が横たわったまま終わった。
◇ ◆ ◇
型抜きされたクッキーが、宙を舞っている。
クリームで花びらのように飾られたケーキも。
エステルはただ呆然と、その軌道を目で追った。
「まぁ、何てひどい……!」
瞳を潤ませ悲痛な声を上げたのは、正面に座るルリトレ公爵家の令嬢、フルア・ルリトレ。
可憐でたおやかで美しい、磨き抜かれた美しさ。生粋の令嬢といった印象だ。
対するは、エステルの隣に座っていたフリードリヒ。供された菓子を台無しにした犯人は彼だ。
――あれ? 親しい幼馴染みでは、ない……?
険悪な仲? それとも修羅場?
エステルは無言のまま大いに混乱する。
招待を受け、ルリトレ公爵家にやって来た。フルアに笑顔で迎えられ、この応接間に案内された。ソファに着席した頃合いを見計らって、使用人達が紅茶と菓子を用意した。
ここまでは何らおかしくなかったはずだ。
フルアが祝いの言葉を述べ、菓子を勧めた。
その瞬間フリードリヒが、止める間もなく菓子を払い除けたのだ。
とんでもない状況に、エステルはひたすら冷や汗をかいていた。両者の関係性が見えない。
フリードリヒが、ゆらりと立ち上がる。
「調べたんだ。使用された毒の種類、その入手経路、ここ数年で購入した者……全て」
低い低い声、剣呑な雰囲気。
けれど、何を言っているのか分からなかった。急に何の話を。
フルアも困惑しているようだった。
「何のことですか、フリードリヒ様? 幼馴染みとはいえ、このような振る舞いは許されませんよ」
「――ならば毒入りの料理でもてなすのは、許されることなのか?」
彼はおもむろに、足元に転がる欠けたクッキーを拾い上げた。
「証拠が必要か? ならばこれを調べればいいな」
もしも毒が検出されたら、スレイトファー公爵夫人を亡き者にしようという謀略が証明される。フリードリヒが甘いものを好まないことは知っているはずだから、極めて計画的な犯行。
フリードリヒは淡々と言葉を重ねていく。
けれど、エステルの困惑は深まるばかりだ。
彼は、何を言っている? なぜフルアを憎々しげに見ている?
……なぜ食べていないのに毒入りだと断定した?
「この場で、罪を認めろ。そしてエステルに謝罪し、泣いて命乞いをしろ。許すつもりはないがな」
ポロポロと涙を流していたフルアは、今や蒼白になって震えている。
ひどく傷付いているというより、なぜか……言い当てられたことに怯えているように見えた。
「な、によ……もういいわ! 出てきなさい!!」
彼女の呼びかけに応え、応接間に複数の人影が出現する。影からぬるりと現れたように、全員が黒をまとっていた。
その時にはエステルも不穏さを感じ取り、立ち上がっている。
フリードリヒが油断なく周囲を睨んだ。
「くそっ……暗殺者まで雇っていたのか……!」
しかも、おそらくは手練れ。
応接間の出入り口は既に塞がれている。
結婚祝いのために来たはずが、絶体絶命だ。
エステルは自分の席にあったティーカップを、扉口に立つ暗殺者へ投げつけた。
暗殺者が避けるのは想定済み。すぐにフリードリヒの腕をとって走り出す。
「エステル!?」
「私の紅茶にも毒が混入していると思ったら、案の定でしたね! 行きましょう!」
廊下に出たエステルは、ぐんぐんと突っ走った。
知らない邸内でも案内された道くらいは覚えている。なので本来そちらを選ぶべきなのだが……エステルはあえて逆方向を突き進む。
「暗殺者があの人数だけでないなら、ホール近辺にも潜んでいる可能性があります! まずはどこかに隠れましょう!」
「なるほど、確かに……! しかしエステル、君は足が速いな!?」
フリードリヒは彼女の足に追いつくことができず、手を引かれるがままだ。
彼を振り返りチラリと笑みを返すと、エステルは鍵の開いている部屋へ飛び込む。
物置部屋だ。掃除をした使用人が、うっかり鍵をかけ忘れたのかもしれない。
内側から鍵をかけることはできないが、とりあえず息を潜めてやり過ごす。エステル達はチェストの陰に隠れ、絨毯に腰を下ろした。
「今回こそ、君を守るつもりだったのに……」
悔いるようなフリードリヒの呟きが落ちる。
エステルは彼に体ごと向き直った。
「フリードリヒ様、説明してください。私には、何が何だか分かりません」
フルアとの関係や、エステルが狙われる理由。また、フリードリヒが毒の混入を確信する理由。
両手で顔を覆っていた彼が語りはじめたのは、そのどれでもなかった。
「僕は……君という人間を誤解していた」
夫婦となってからの半年間。エステルは、フリードリヒがつれない態度をとっても平然としていた。
歩み寄ろうと躍起になることも、勝手に失望して怒り出すこともなかった。
これまで、顔や地位を目当てにすり寄ってくる者ばかりだった。けれどエステルは違った。
「僕は少しずつ……君を知りたくなっていた」
毎日楽しそうに勉強していること、おいしそうに食事をすること、些細な幸せに微笑むこと。
晴れた庭園をのんびりと歩き、空を見上げて笑う。綺麗な花に笑う。庭師を褒めて笑う。
エステルは、よく笑う人だった。
その笑顔がこちらを向いたら、どんな気持ちになるだろうか。
そう思うようになるまで時間はかからなかった。
「けれど――これまでの『君』に、それを伝えることはできなかった」
「これまでの『君』……?」
「僕は、繰り返し同じ時間をめぐっている――そう言ったら、信じてくれる?」
目を見開いて黙り込むエステルから、彼は苦笑と共に目を逸らした。
「エステル、君は……僕の近くで、あるいは手の届かない遠くで、いつも殺されてしまうんだ」
エステル・スレイトファーが、食事店で毒死したという報せを受けたのが全てのはじまり。
そうして、冷たくなった死体と対面する。もう二度と笑うことのないエステル。
絶望に視界が真っ暗になり、何も感じなくなった時――なぜか、時間が巻き戻っていた。
「嘘みたいだろう? 僕も悪夢のようだと思うよ。戻るのはいつも、結婚して公爵位を継いだばかりの頃。そうして、同じ出来事をたどっていくんだ」
「あ……もしかして、フリードリヒ様が突然倒れた、あの時……?」
目覚めると別人のように変わっていた、あれが。
「そう。過去に戻ったからなのか、恐ろしい未来を知った衝撃なのか、倒れる原因はどちらだろうね」
フリードリヒが他人事のように肩をすくめた。
彼はエステルを喪うたび過去に戻って、未来を変えようとしたという。
「二度目の人生では、僕自身も信じられない気持ちが強かったから、徹底的に君を避けた。死んだはずの君を直視できなかったのもあるし、目を背けていれば夢から覚めるのではという思いもあった」
それでも、歩み寄ってくれるエステルの優しさに心が揺れ……後悔した。
だから三度目では非情に徹すると決め、離縁の手続きをした。
それでも、別の場所で生きる姿を見かけるたび、視線を奪われ……結果、喪う羽目になった。
次の人生があるなら、今度こそ後悔したくない。
また時間が巻き戻ったことに気付いた時、フリードリヒは守りきる強さを得ることにした。
「四度目は付け焼き刃でも構わないと、剣の腕を鍛えた。けれど……大切な笑顔は、いつも指の隙間からこぼれ落ちていく。いつも間に合わない」
五度目もそうだった。社交界に頻繁に顔を出し、権力の中枢と繋がることに成功した。今度こそ盤石だと思っていたのに……。
定められた死などあり得ない。
それなのに何度繰り返しても、エステルは毒殺されてしまう。何度も何度も何度も。
なぜなのか? きっと何者かの強い意思、深い憎悪によるものだと……絶対に捜し出して鉄槌を下そうと、フリードリヒは決めた。
「だから今回の人生では、死に繋がる根本を絶とうとした。君が盛られた毒を調べ、死にもの狂いで入手した者を特定し……フルアにたどり着いた。幼馴染みの顔をして、僕の妻を殺したのだと」
死体にはいつも必ず、手首に奇妙な赤い斑点があった。その症状が出る毒は一つだけだった。希少さゆえ入手できる者も限られる。
フルアが、何度もエステルを殺した。
何度も何度も。
そう語るフリードリヒの眼差しは、黒々とした憎悪に染まっていた。
「……あなたは、六度目の旦那様なのですね」
嘘みたいな話だけれど、腑に落ちる。
屋敷で食事をする時も、屋台で軽食を楽しんだ時も、彼は決まって自分が口にしたものだけを勧めてきた。あれは毒見の意味があったのか。
べったりと張り付いて離れなかったのも束縛ではなく、常にエステルを守るため。
……信じられないけれど、信じよう。
実際に今、エステルは殺されかけている。
それに、フルアから書状を受け取った時のフリードリヒの不自然さは、エステルを思うあまりのものだと分かったから。
――もしかして二人は想い合う仲だったのかも……なんて不安だったのは、内緒にしておこう。
その時、物置部屋の扉が勢いよく開く。
一斉に動く暗殺者達。エステル達はあっという間に取り囲まれる。
「……お前達、フリードリヒ様を殺しては駄目よ」
あとからゆっくりと現れたのは、フルアだった。
暗殺者達に命じる声音は、いっそ慈悲深くすらある。内容は物騒だが。
「……フリードリヒの心を奪った私が、憎くて仕方ないということですか?」
あえて呼び捨てて挑発すれば、彼女はあっさりと引っかかった。
「っ、あんた邪魔なのよクソ女!!」
一斉に飛びかかってくる暗殺者達を、フリードリヒが止めた。彼はその辺に立てかけてあった長杖で応戦している。
だが、多対一では分が悪い。
そもそも彼自身が言っていた通り、付け焼き刃で敵う相手ではなかった。
「僕はまた……君を守りきれないのか」
激しい剣戟の合間に、フリードリヒが絞り出すようにこぼす。
「すまない……必ず君を救ってみせると……今度こそと、誓ったのに……」
「泣かないでください、六度目の旦那様。――もう、終わりにしましょう」
エステルが発したのは、とても穏やかな声音。
絶体絶命の現状には全く似つかわしくないもの。
ス、と一歩踏み出す。
足音などなかった。
水面に落ちた一滴の雫のように、息を潜めていなければ聞き逃してしまいそうなほどかすかに。
「エステル、危な……!!」
ドレスの裾が軽やかに舞い上がる。
それと同時に吹き飛んだのは、暗殺者の方。
鞠のように天井に叩きつけられたあと、べしゃりと間抜けな音を立てて落下する。
暗殺者は、完全に昏倒していた。
「え……」
一瞬硬直したのは暗殺者達も同じ。
エステルは異様な空気の中――笑った。
「もう。悩んでいるなら、もっと早く相談してくださればよかったのに」
直後、エステルは一迅の風となった。
手近な男に足払いをかけ、傾いだ体を踏み台に別の男の側頭部へ回し蹴り。そのまま失神した男を、まだ意識のある転んだ男の上に投げ飛ばす。
男達が折り重なっているのは絨毯の端近く。エステルは絨毯ごと彼らを勢いよく転がし、簡単に簀巻きにしてしまう。
鋭く飛来するナイフの柄を軽々と掴み、相手の利き腕に投げ返す。
息つく間もなく放たれた蹴りを跳躍でかわし、車輪のごとく縦回転をしながら脳天へ踵落としを打ち込む。室内のはずなのに、ふわりと風が吹いた。
エステルは強かった。
十人以上いたはずの暗殺者達が、なす術なく倒されていく。
フリードリヒも、暗殺者を雇ったフルアも、ただ呆然としていた。
動く者が誰もいなくなった、部屋の中心。
エステルはフリードリヒを振り返った。彼の表情はひどく強ばっている。
「……あ。さすがに引きました? そんな反応をされるのが嫌だったから、隠しておりましたのに」
彼は、呆然としながらも首を振った。
「いや……よく思い出してみれば、時折隠しきれていなかった気もする」
フリードリヒが倒れた時、エステルはすぐさま駆け付けた。
その後ナリーも息を弾ませながら来たけれど、だいぶ時間が空いてからだったように思う。エステルと一緒にいたはずなのに。
ナリーの頬をつねる時も、全く力を入れていないように見えた。大げさに痛がり、じゃれ合っているものとばかり思っていたが……そうではなかったのかもしれない。
「過去の殺害方法が共通して毒殺だったとのことですが、単純にそれ以外の方法では殺せなかったからかもしれません」
しっかり暗殺者を雇っていた点からも、フルアが毒殺にこだわっていないことが分かる。
仕掛けた罠を全て返り討ちにされれば、ある意味深く憎悪されても仕方ないが。
つまり、怨恨ゆえの毒殺ではなく、油断するのが食事の時だけだったということ。非常に不名誉な結論に、エステルは顔を上げられない。
「これでも一応、結婚以降は鍛錬から遠ざかっていたので、かなり鈍っているのですが……」
言いわけめいたことを口走っていたエステルは、それ以上言葉を紡げなくなった。
フリードリヒに、さらうように抱きすくめられる。強い力で息もできないほど。
「ありがとう」
彼は震える声で囁いた。
「……助けてくれてありがとう。僕の話を信じてくれてありがとう。強くてありがとう。運命をはね除けてくれてありがとう。こうして、生きていてくれて……本当にありがとう」
フリードリヒがくれる、たくさんの感謝。
熱い吐息交じりの声を聞きながら、少しだけ鼻の奥がツンと痛んだ。
怖がられなくて、よかった。
その時、廊下側の窓から悲鳴が聞こえてきた。何が起こっているのか、にわかに外が騷がしくなる。
「……ようやく来たか」
安堵の息が耳をくすぐり、エステルは慌てて彼の胸から顔を上げた。
「フリードリヒ様が、何か仕掛けを?」
「犯人の屋敷に赴くのだから、備えはしていた。ゼフには、『僕達の帰りが遅ければ憲兵を引き連れてルリトレ公爵家へ乗り込むように』とね」
「それを言付けられたゼフも、生きた心地がしなかったでしょうね……」
そんな現実逃避をしつつ、さりげなく彼から離れようと試みる。平静を装って話していたけれど、ずっと密着した体勢が気になっていた。
フリードリヒとの心の距離は縮まっている。
けれど彼は紳士的で、触れ合う機会はほとんどなかった。抱き締められたのは、フリードリヒが倒れた直後くらい。
なぜか腕が離れない。
離すまいという意思を感じ、それ以上強引に動けなくなる。脱臼させたくない。
「う、あの……フリードリヒ様?」
おずおずと見上げると、ひどく愛おしげな眼差しにぶつかった。
「あぁ、頬が薔薇色に染まっているね。瞳も可愛らしく潤んで、小動物のようだ」
「いや、あの戦闘を見てそれを言いますか……?」
「豪快に屋台の肉串にかぶりつこうとするのも、毒見のために『はしたない』とか適当な理由で止めたけれど、本当は可愛いとしか思わなかった」
「あぁ、ああいった場面で普段の行いが出てしまうのですね……」
隠しきれていなかったとフリードリヒが言うのも、そういうところか。妙に納得する。
「フ、フリードリヒ様、離してください。まだやるべきことがありますから」
ここは他家だしフリードリヒに執着しているらしいフルアも怒り狂っているしゼフやナリーや憲兵達も興味津々で凝視しているし。
この状況で愛を確かめ合う胆力。
フリードリヒ、思っていたよりずっと強い。何度も過去をやり直す経験から培った精神力か。
「それに、五度目までの人生がどうだったかは知りませんが……こういった触れ合いは、私はまだ、慣れていなくて……」
「そうか……」
彼の腕が動いて、ようやく解放されると肩の力を抜いたエステルだったが……頬を指先でなぞられ、再び凍りつく。
完璧な人形のような美貌。
そこに浮かぶのは、とろりと妖しいほどに麗しい微笑だった。
「知りたいのなら教えてあげる。これまでの君と僕が、どのような触れ合いをしてきたのか……じっくり、時間をかけて」
エステルの頬が引きつる。
可愛らしい子犬のようだと思っていたのに、急に色気がすごい。
……殺伐とした現場で愛を囁かれるという謎の苦行は、その後も小一時間ほど続いたという。
◇ ◆ ◇
スレイトファー公爵家の庭に、今日も豪快な素振りの音が響く。
「よし、三百回!!」
汗を流すエステルの顔には、生き生きとした表情がのっている。
スレイトファー公爵家での何不自由ない暮らしも、鍛錬できないことだけが不満だった。なので今は完全に満ち足りている。
「お疲れ様、エステル」
「旦那様!」
最近は早朝鍛錬のあと、彼が運んできた朝食を外で一緒に食べるのが日課になりつつある。
暖かい季節なのでとても気持ちがいい。
焼き目の付いたハムと溶けたチーズが挟まったパンに、茹で卵、食べやすく切られたオレンジ。今日もおいしそうだ。
一心にパンにかぶり付くエステルを、フリードリヒは嬉しそうに眺めている。
「エステル、今日も頑張っていたね」
「まだまだですよ。少しずつ馴染ませた方がよく身につくとゼフに言われたので、ゆっくり勘を取り戻していく予定です」
「君、まだそれ以上があるのかい……」
あらかたを食べ終え、エステルは紅茶を飲みながら問いかける。
「ルリトレ公爵家は、今後どうなるのですか?」
五大公爵家の一つである、ルリトレ公爵家の娘が引き起こした騒動。
貴族界隈に激震が走った、という噂くらいなら聞いている。
けれどフルアの処遇、ルリトレ公爵家がどうなったのかなど、重要な情報は一つも入ってこない。誰が制限をかけているのか、考えなくても分かる。
張本人は悪びれず笑った。
「優しい君には、あまり知られたくないかな」
エステルは顔をしかめた。
つまり、優しくない展開になっているのだ。
「フリードリヒ様としては六度分の怒りがあるのでしょうが、今ここで生きているフルア様の犯罪は、一度きりのことですよ」
「暗殺者まで差し向けられたのに?」
「まぁそうなんですが。……憎しみにばかり目を向けないで、こちらを見てくださいということです」
ティーカップを置いたエステルは、フリードリヒの顔を両手で挟んで無理やり振り向かせる。
あどけなく瞬く蒼色の瞳と視線がぶつかった。
「私は生きています。これからもずっと、あなたの隣にいますから」
これは、六度目の彼だけに伝えたのではない。
時間が巻き戻る前の人形のようだった彼も、半年間の不誠実な態度も。
不器用で臆病なエステルの旦那様。彼の全てを、丸ごと受け止めると。
言葉にしない意図は伝わった。
フリードリヒの瞳から、綺麗な涙の粒がポロリと転がり落ちる。
「何で君は……僕を見抜いてしまうのだろう」
そう不思議そうな声で呟くと、彼はくしゃりと顔を歪めた。
フリードリヒの瞳の奥にはいつも不安があった。甘い囁きは、まるで必死に繋ぎ止めるかのよう。
エステルを救うことができた。今では夫婦の関係も良好になった。
全て解決した。終わったのだ。
もう何の問題もない。――本当に?
フリードリヒの時間が巻き戻るのは、いつも公爵位を継いで間もない頃。結婚して半年経った頃。
エステルを冷たく迎え入れたことも、無関心に放置したことも、なかったことにはできない。
そこだけはやり直せないのだ。
フリードリヒは、今やひどい顔で泣きじゃくっていた。あの日、倒れた直後のように。
「改めて……謝罪させてほしい。僕は最低の夫だった。結婚した相手のことを知ろうともせず……もし君を、死以外の理由で失っていたとしても、僕はいずれ後悔したことだろう。何度も繰り返した過去を思い出さなくても、きっと」
それは、フリードリヒが六度のやり直しを打ち明けたからこそ、吐露できる本音。
エステルがエステルだから。
何度やり直したって、変わらない優しさで寄り添ってくれる人だから。
何度だって恋をする。何度だって、やり直せない半年間を後悔する。
嗚咽を堪えながら、懸命に自分の想いを口にするフリードリヒ。
エステルは彼の頬を優しく拭いながら、自然に笑みを浮かべていた。
仕方ない。この涙に弱いのだ。
「歩み寄らなかったのはお互い様です。これから、後悔しないように生きればいい。私もあなたも」
彼は今さら気付いたという顔になって、涙に濡れる睫毛を揺らした。
「あぁ……これからが、あるのか」
「えぇ、これからです」
エステルが殺されなかったから、未来がある。
将来の約束ができる。
フリードリヒは泣くのをやめて、少し恥ずかしそうに微笑んだ。
「それなら、僕はいつか、子どもが欲しいな」
何気なく落とされた言葉に、今度はエステルが驚く番だった。
「……え。早すぎません? 段階をすっ飛ばしすぎというか、私まだ手を繋ぐだけで緊張して……」
「もちろん先の話だけれど、早すぎということでもないだろう? 僕達は既に夫婦なのだから」
「う、ですが、色々準備が」
「それは、出産と育児の学びについて? それとも、心の方?」
いかにも純真無垢な子犬の眼差し。
けれどエステルは、一皮剥けば太刀打ちできない妖艶さが現れることを知っている。
判断は早かった。
素早く立ち上がると、エステルは脱兎も慄く速さで駆け出した。
追いかけてくるフリードリヒの声を聞きながら、現実逃避できる猶予は少ないだろうと直感する。
まぁ、いいか。
陽光に照らされた、スレイトファー公爵家の美しい庭園。太陽が朝の空気を吹き飛ばしていく。
また新しい一日がはじまるのだ。
エステルは今日も、幸せを噛み締めて笑った。