お姫様の真実
ミアは雅秋と3Fの屋上渡り通路で待ち合わせしていた。
だが、ミアはそこに行く前に中庭の鯉の様子を見に行くことにした。
今日は錦鯉研究部の当番では無かったのだが、先ほどミチルが『名波部長』の名を出したので索を思い出してしまい、ミアはここに来ずにはいられなくなってしまった。索が見えなくなった今、片影を感じられる場所はここだけだった。
今日は曇り空で日差しは無いものの、湿気も多く、やはり蒸し暑い。
台風が東の離れた海上を移動しているらしい。時折、強い風が吹き抜ける。
スズカケの木は伐採され、新たな木の苗が2本植えられてる。
中庭には、よく知る横顔があった。
「あっ! 久瀬先輩」
久瀬ゼツガが池の縁に座って、小さなスケッチブックに鉛筆を走らせている。
「あれ? 真夏多さん。久しぶり」
ミアが寄ると、ゼツガはささっとスケッチを閉じて脇に置いた。
「絵を描いてらしたのですか?」
「ん、まあね‥‥あ、そうだ! 真夏多さんのチョコブラウニーさ、うまかった」
「ありがとうございます。私、それしか上手く作れなくて。先輩に頂いた絵は額縁に入れて玄関に飾られてます。来客に褒められてます。私の絵だから少し恥ずかしいですけど。先輩の絵はすごく素敵だから母が気に入ってしまって」
「ええっ! 真夏多さんちの玄関にっ!? それは俺も恥ずかしいかな‥‥気に入って貰えて嬉しいけど‥‥‥」
その時、一陣の風が通り過ぎ、ミアの足元にゼツガのスケッチブックが落ちた。
「たいへん! 汚れてしまうわ」
下は傷んだ芝生で、所々土がぬかるんでいる。
ミアがかがんだ所にまた風が吹いて、パラパラとページがめくれた。
ミアを描いたさまざまなスケッチが見えた。そして、最後に名波索の顔が描かれたページで止まった。
「あっ‥‥これ!」
「うわっ! 何でもないんだ。これはっ‥‥‥」
ゼツガが焦って立ち上がり拾い上げた。
「あ、あの。久瀬先輩、お願いがあるのですが」
「な、なんだろ? 聞かないとわからないし」
「その‥‥それ、私に譲っていただけませんか? お礼は支払います」
「お礼を支払うって‥‥‥」
「‥‥‥‥‥そのスケッチブックを譲って頂けないでしょうか?」
ミアは、索の顔が描かれたそのスケッチブックをどうしても手に入れたいと思った。
索の姿を正確に写し取ったものは、世界にただ一つ、これだけだと思う。
「‥‥‥えーと、これが欲しいって言われても。見られちゃったみたいだなー。恥ずかしいな。これを本人に見られちゃったのは。それに‥‥」
──名波の顔が描いてある。俺を "ゼツガ" と呼んだあの時の‥‥‥
ゼツガの戸惑いの表情に、ミアはハッとした。
「ご、ごめんなさい。急にこんな図々しいこと。ダメですよね‥‥‥諦めます」
何も考えずにねだった自分に後悔した。これでは自分がゼツガに慕われていることを利用している。
「‥‥‥俺の絵が好きだって言ってくれたよな。偶然二人きりになった美術室で。嬉しかった‥‥‥あの時」
今まで、面と向かって好きだと言ってくれたのはミアだけだった。
絵が上手いと褒めてくれる人はたくさんいたけれど。
「‥‥‥いいよ。俺の記念だと思って貰ってくれて。落書きみたいにあちこちに気まぐれに描いてあるけど」
思い切ってプレゼントすることにした。
これを贈ればミアは もはやゼツガのことは一生忘れないはずだ。これを見たら描いたゼツガを必ず思い出す。
「本当にいいのですか? 久瀬先輩、ありが───」
《そのままもう3歩後ろに下がって!》
ミアにスケッチブックが手渡された瞬間、誰かが、ミアの背中にドコッとぶつかった。
「きゃっ」
前に突き飛ばされる形になったミアをゼツガが咄嗟に胸で受け止めた。
スケッチブックを両手で受けとっていたミアは、そのまま前に押し出され、ゼツガに抱きしめられる形になった。
「ちょっと、あんた邪魔ー!」
その上級生の女子は友だちに写真を撮って貰っていたようだ。
後ろ向きのまま下がって来て、お互いの背中がぶつかったらしかった。
「あらあら? この子、知ってる。甲斐くんの他にも手を出してるわけー?」
「やっばー! マッチョも好き?」
ゼツガに抱き止められたミアに、意地悪なニヤニヤを浮かべた。
そのままクスクスしながら女子の二人組はさっさと立ち去って行く。
「なんなんだ? あいつら‥‥‥」
ゼツガが怪訝な顔で二人の後ろ姿を睨む。
「ご、ごめんなさい」
ゼツガから離れて深くお辞儀する。
「あいつら‥‥‥‥甲斐のファンだな。きっとあれを見て焼きもちを」
ミアはゼツガが何のことを言っているのかわからなかったが、とりあえず、ゼツガと二人でいることはゼツガに迷惑をかけることだと悟った。
「あのっ、私、行きます。お礼のことは後ほどメッセージで‥‥‥失礼します」
この直後SNSで、『自然派デザート校内で発見! 中庭にヤマモモの木が2本植えられたよ! 実がなったら食べられるよ!』と、銘打った背景に、ミアとゼツガの抱き合う姿が写り込んだ中庭の写真が出回った。
そこまで個人が特定出来る写りではなかったが、知り合いになら見当がつきそうなシルエットだ。
美術部の友だちのユリカとトーコが、ミアとゼツガがさらされている写真に気がつき、憤慨とともにミアを心配してメッセージで知らせてくれた。そして同時に先ほどゼツガの言っていた、『あれ』とは何だったかも知った。
ミアは3階の屋上渡り通路から一人、中庭の池を眺めている。
3Fは地上より風が強い。
雅秋はまだ来てはいなかった。
曇り空と吹き抜ける強風。
索のあの日を思い出す。
──あの日スズカケの木に雷が落ちるってわかっていたとしても、どうにもならなかったと思う。
名波先輩とのお別れも。変えられない運命ってあるの。
名波先輩。あなたの言った通り、私は雅秋と結ばれるね‥‥
そしてこれも運命?‥‥‥雅秋と付き合ってこんな嫌がらせをされるのも。
手元のスマホの画面に浮かんでる写真を憂鬱に見て、目を反らす。
「ミア」
雅秋がいつの間にかミアの後にいた。
「雅秋‥‥‥」
ミアが風で吹かれた髪を押さえなから振り向く。
この顔、雅秋も出回った写真のことは当然知っているだろう。
「どう思う? 久瀬先輩と私が写り込んだ写真について」
雅秋の目を黒目がちな瞳でじっと見た。
「‥‥‥雅秋も私が久瀬先輩と‥‥って思うのかな?」
ミアに見つめられて、内心ドギマギする。
なんだかんだ、雅秋の好みにここまで寄った顔にはこの先一生出会えないと思う。外見だけでは無く中身も清楚だったミアに、完璧はまった。
今さらだが、人に惹かれるという経験を初めてしたと思う。
このままこの子を他の男からガードし、究極に恋を成就させたいという願望。
「‥‥‥思うわけ無いだろ。あの久瀬にそんな器用なこと出来るわけないし。この俺を相手に」
──名波だったら、疑っていたけどな‥‥‥
雅秋は余計な一言を飲み込む。
一見、たよりなさげに見えるミア。雅秋が守ろうとしても、雅秋の見えないところで当て付けられるのはわかりきっている。雅秋が卒業後もここに残されるミアが心配だ。
「俺の彼女、やめるって言うなよ? 俺は全力でミアを守るから」
「‥‥‥‥言うわけないよ? 私が雅秋の彼女なんだもん。でしょ?」
恥ずかしげにうつ向くミア。
「ミア‥‥‥!」
雅秋は感激だ。ミアが自分から彼女だと認めてくれたのだから。
この出来事により、その美少女の瞳の奥にダークな光が灯ったのは本人さえも気づいてはいない。
本物の恋をした女の子は、もう純真無垢なままではいられない。
恋の行方は波乱万丈。
ライバルが現れ、境遇が二人を裂き、時の運に邪魔をされる。
素敵な王子様とお姫様のフェアリーテイルだって。
──恋をして知ったの。素敵なお伽噺の本たちの真実。
素敵な王子様と結ばれる深窓のお姫様。行間を読めば、実はか弱きはずのお姫様は、とてもしたたかなのよ。
でなきゃ恋なんて成就出来ないもの。
「‥‥‥俺の前で強がんなくてもいい。ホントはここで泣いてたんだろ? ごめんな。俺のせいだ」
「私、泣いてなんていない。だって、雅秋が私を見つけて私は雅秋を選んだ。他の女の子が入る余地なんかないし。醜い心をネットにさらして勝手に妬んでいればいいの」
ミアはくるりと雅秋に背を向けて、潤んだ瞳を隠す。
「‥‥‥ったく、ミアはどんだけ俺に好きにさせんの?」
雅秋は、今すぐミアを抱きしめ、キスしたいのを耐えた。
すぐ側では見えない索が二人を見守っている。
ミアも雅秋も気づくはずもない。
8月の朔の夜に、鯉から霊力を受け取ったが、具現化には至らなかった。
それに、もう具現化しようとも思わない。
ミアと心が繋がった今、索はもう生徒に紛れて孤独を誤魔化す必要は無い。
具現化しなければ霊力の補給も当分必要は無い。
ただ、索は、ミアと時を共に刻み、年老いていける雅秋を羨んでいる‥‥‥
帰宅後。ミアは自分の部屋のベッドの上に座り、ゼツガに貰ったスケッチブックを丁寧に1ページ1ページめくる。
──久瀬先輩はいつの間にこんなにもたくさん、私のスケッチを‥‥‥‥
私、こんな表情してたのかしら‥‥‥‥? 久瀬先輩には私がこんな風に見えてたのね。ちょっと美化し過ぎ‥‥‥うふふ。でも、嬉しい。こんなにかわいく描いてくれて。
最後のページ。名波先輩の絵。
私、名波先輩が結んだ髪をおろしている所は見たことない。そして髪をかきあげているところなんて。
久瀬先輩はいつ見たのかしら? それともイメージで描いたの?
‥‥‥でも、なぜ名波先輩の顔を描いたのかしら?
私を描いたのは私に好意を持っていたから。個人的なスケッチブックに嫌いなものなんて描くわけ無いし。
なら、名波先輩のことも‥‥?
「‥‥‥‥‥なーんてね」
ミアはスケッチブックをそっと閉じる。
──ありがとうございます。久瀬先輩。
これは私の一生の宝物です‥‥‥
名波先輩。見えなくても私、こうしてあなたを想っています。
もちろん、雅秋のことも。
私を想ってくれる大切な人だから。
次回最終回。