憑依
ミアが3Fの屋上渡り廊下から中庭を見下ろして黄昏ていると、錦鯉研究部顧問の地衣が通りかかった。
「あれ、真夏多さん。こんなところで何を? ああ、あの大きなスズカケの木は残念だったね。夏はいい日陰を作ってくれていたのに」
「あ、地衣先生。‥‥‥そうですね。まさかこんなことになるなんて‥‥‥」
二人、無惨な白い生木の部分をさらした大樹の姿に目をやる。
「業者が木を片付けるまで立ち入り禁止だけど、エサやりは必要だからね。木に近づかなければ問題はない」
「ちょうど、立ち入りの許可をいただきに行こうと思っていたところです。私が当番ですから。あの‥‥先生。お聞きしてもいいですか?」
「何ですか?」
「部長の名波索先輩についてです」
「‥‥‥‥えっと? どこの部のこと?」
ミアの心にふと、暗いモヤモヤが生まれる。
「どこって、私たちのですけど‥‥‥」
「錦鯉研究部の部長は最近1年の土方ミチルくんに変わったんじゃなかったかな? 今は部員は1年生しかいないから」
「‥‥‥あ、でも‥‥えっと、その前の部長は名波索先輩では?」
「‥‥‥あーん? ごめんね、急に振られてちょっと度忘れしちゃって‥‥‥参ったな。先生、寝不足かもな?」
地衣は自分の頬をぺしっと叩いて、しれっと誤魔化し笑いを浮かべる。
ミアはキョドって地衣から目線を外した。
「じゃ、エサやり、頼んだよ。真夏多さん」
「はい‥‥‥」
何事も無かったように地衣はミアを残し立ち去る。
実は、霊的側面において校内を取り仕切っている落花生城の筆頭家老。
地衣は、この先起こるであろうことも予期していたが、我が関知する気は無い。
なぜならば、生ける者は、死者に干渉され介入されることなんて、死者側から見れば、当たり前のことだから。
生きている者らのほとんどは、気づかぬだけのことなのだから。
──これも運命。死者も生者も表裏一体である。
ただ、気づいた者の一部は苦悩するかも知れない。島田のように。
索が消えた場所を見下ろししながら、ミアは思う。
──地衣先生は、たぶん名波先輩のこと忘れてしまったのね。でも、私は絶対に忘れない。一生‥‥‥
「名波先輩、どこにいるのですか? お願いだから、私に無事を知らせて下さい‥‥」
一人呟き、滲む涙を指で拭った。
残った時間は図書室で12時まで勉強し、それから鯉の餌やりに向かった。
中庭に、なぜか雅秋がいた。
「ミア、待ってた」
「甲斐先輩! どうしてこんなところに?」
またもやうっかり甲斐先輩と呼んでしまったが、雅秋は気にしてはいないようだった。
今日、ミアは雅秋と図書室で勉強することは断っていた。
「ここに時間にいればミアが来ると思ってね」
「‥‥‥どうしてそう思ったの? 私、今日用があるから来られないって言ったのに。雅秋は怒ってないの?」
ミアは、ばつが悪くて雅秋の顔色を窺う。
「だって今日はミアの当番だし。鯉を気にかけてくれているミアなら必ず来てくれるってわかってた」
「‥‥‥‥それは、そうだけど‥‥‥」
なんだか言い方に違和感を感じた。
ミアは今日の当番のことを雅秋に言った覚えはなかったが、ミアが引き受けている日が多いからそう思っていてもおかしくはないとは思った。
「さあ、みんな待っているよ。餌をあげて、ミア」
「‥‥‥‥うん」
鯉たちがミアを見て集まって来ている。
「みんな、ごはんですよー。仲良く食べてね」
ミアが全てまき終わり、もう何も貰えないとわかると鯉たちはお気に入りの位置に散って行った。
「‥‥‥雅秋、何か変。どうしたの? 私がここにいたことを怒ってるの? だったらごめんなさい。少し一人になりたくて」
「うーん、彼は怒ってはいないみたいだよ。ただ、ミアを心配して来ただけだ」
雅秋が首を傾げる。
「あの‥‥‥? ううん、何でもない」
ミアの胸で、さわさわ胸騒ぎが始まった。雅秋が "彼は" と言うのは違和感しかない。
「ミア‥‥‥ここで口づけをしたね」
「えっ?」
ミアの背筋にビビッと電流が走る。
ここは、索が消えた時にミアと抱き合って立っていた場所だった。
気がついて身が固くなる。
「なぜ、そんなことを‥‥‥?」
「なぜって? 僕は‥‥‥。言わなくてもわかってくれるよね、ミアならば」
「‥‥ふざけているの? ねえ、雅秋」
出来ればミアの思い違いであって欲しかった。
「ふざけてなんて。ミア、今だけはこの暴挙を許して欲しい」
ミアの頬に手を伸ばす雅秋。
疑念が確信に変わり、愕然とするミア。
「‥‥‥‥‥どうして? どうして雅秋が名波先輩になっているの? 雅秋はどこにっ? 甲斐先輩はどうなってしまったのっ」
ミアから、血の気が引く。
雅秋がどうなってしまったのか、ミアには恐怖しかない。