嵐
明くる日の金曜日。
ミアが空を見上げると、風は時折強いもののそこまでの天気の崩れは無いように思えた。
天気は短時間で目まぐるしく変わり、晴れたり曇ったり、時折短い雨が降ったりを繰り返していた。
──たぶん、台風の進路が予報より少しずれたんだわ。お昼前に行ってすぐ帰れば大丈夫っぽいかな‥‥
ほんの少しのズレで全然天気が変わるよね。台風って。
ミアは現状の空模様を見て判断した。
しかしミアが学校の校門に着く頃には、急に雨足が強くなって来た。雷も遠くで鳴っている。
校門は一応小さく開いていたけれど、人気は無い。
──せっかく来たし、さっさとエサをあげてから帰ろう。電車が止まったりしたら困るし。
校舎昇降口は施錠されていて、ミアは事務室側から来客用スリッパを借り、靴を持って生物室に向かった。
ミアの他には辺りには誰もいないようで、誰にも会わなかった。
普段と違って、薄暗く薄ら寒い雰囲気の廊下。
──今日は当番の先生しか来てはいないのかも。
餌を容器に取り分けていた時、窓にピカッとフラッシュが瞬いた。
──急に薄暗さが増して来た。帰りは大丈夫かしら‥‥‥?
ミアはスマホを取り出し交通情報を見ようとしたら、雅秋からメッセージが来ているのに気づいた。
『ミア、家で一人? 大丈夫?』
『今、学校にいるの。でも鯉に餌をあげてすぐ帰る』
ミアは返信を送った。
下に向かう階段を降りている時だった。
ピカッ‥‥‥
それはフラッシュと同時だった。
パキッ、ドドーンと雷が落ちたらしき音に続き、地鳴りが、ゴゴゴゴと響き渡き渡る。
ミリミリミリバキバキッ‥‥
木が裂ける音が響く。
床が揺れている。
「きゃっ! すごい音と地響き!」
──今のはすっごく近い。怖い。今出るのは危険だわ。
中庭の池はどうなっているのかしら?
ちょうど上空を雷が通過中のようだ。窓からの瞬く閃光に照らされる。
ミアは2Fに戻り、ダメ元で生物室のドアを確認すると、するりと開いた。
──ラッキー。閉め忘れかな?
中に入れば中庭の様子が見下ろせる。
窓の外、白く煙る雨は激しい。
──こんなんで外に出たら一瞬で制服がびしょ濡れになってしまうね。
「えっ?!」
下を見てびっくりしてしまった。
誰か池の前に立っている。
──まさか?
張り付くように窓ガラスに顔をつける。
「嘘っ?! 名波先輩だ!!」
──この嵐の中で何をしているのっ?
「ああっ!! あれってまさかッ!?」
ハッキリとは見えないが、池の表面に白い物体がプカプカいくつも浮いている。
──うそ、うそ、うそッ! まさか、まさか、まさかッ! あれは‥‥‥
ミアは傘も差さずに中庭に飛び出た。
「名波先輩ッ!」
大雨の音に混じり、人の声が聞こえたような気がして、索は振り返った。
「ミア!! どうして来たんだッ! 今すぐ中に戻れ!!」
ミアは索を素通りし、池の縁から水面を凝視した。
打ちつける雨も、雷の音も構うことを忘れていた。
「嘘ッ! これって‥‥‥鯉さんたち‥‥‥」
水面には白い腹をさらした鯉が一面に何十も浮いている。
ミアは索を振り返る。
「名波先輩! どうしてっ? まさかさっきの大きな雷?」
ここでやっと焦げ臭さに気がついた。池の脇の大きなスズカケの木が真っ二つに割れている。
「ええっ、ここに落ちたのッ!! さっきのすごい音の雷!」
ミアは雨に打たれながら呆然とする。
「危ないからミアは戻るんだ!」
「じゃあ、先輩も早くっ」
ミアが索の腕を引っ張った。
「ダメだ! 僕は行けない。僕はこの鯉たちを助けなければならないんだ。ミア‥‥‥」
索の顔は苦渋に満ちている。
「助けるってどうすればいいのっ? 私も手伝うから、先輩も一回中に入って!」
「ダメだ!! 今すぐこの子たちに霊力を与えなければ気絶したまま死んでしまう!」
「そんな‥‥‥」
「だが、朔の夜の直前の僕の霊力の残りは僅か。これをこの子たちに与えれば僕は消えるしかない」
「‥‥消えるって?」
「この具現化された姿は消える。霊力が完全に尽きれば僕の魂までもが消滅だ。運が良ければ消滅は免れるかもだけど、僕にも結果どうなるかなんてわからないよ‥‥‥」
「そんな‥‥‥いやっ、名波先輩がいなくなるなんて! ならば、私の、生者の精力をあげる! だからお願いだから消えたりしないで‥‥‥」
索の腕をつかみ、懇願した。
雨で涙も髪も、制服も、ローファーも、もう全てがぐちゃぐちゃだった。
「ミア、僕にそんな危険な賭けは出来ないよ。ミアが死んでしまうかもしれないのに」
嵐の中、悲しげに微笑む索。
「それでも‥‥‥いいよ? 私。心の一番奥に閉じ込めた本心では名波先輩だけが好きなの。これは他の誰に変わることなどないの!」
雨に打たれるままに、ミアは索の瞳を見つめる。
「‥‥‥‥ありがとう、ミア。僕も今の時代に生まれて、君に会えていたらよかったのにな。甲斐くんのように。そしてミアと一緒に歳をとっていけたら幸せだっただろうな‥‥」
索がミアの頬に触れた。索の手は氷のように冷たい。
「でも、聞いて、最悪だったとしても、僕の全てがいなくなる訳じゃない。ミアのそばにずっといるから。だってミアの左耳には‥‥‥」
──僕の婚約印としての黄金の鯉の鱗を授けてある。君をこの先ずっと護る呪と共に。僕のよりどころ。僕の魂の痕跡。
「‥‥さあ、ミアは戻って。僕はこの子たちを助けたい。今まで僕のために尽くしてくれたこの子たちに、今こそ僕は恩を返す番だ」
「いや、いや、いやだッ! 私の前から消えてしまうなんて!」
「ごめんね。ミア」
水面に浮いている鯉に向き直り、索は呪文を唱え始めた。
呪文とともに、金色のふわりとした光の欠片が索の体全体から生まれてゆく。
その一粒一粒が池に浮いている鯉に一つづつ入って行く。
鯉は次第に意識を取り戻し、我に返って次々と池の底に戻って行く。
次第に索の姿が薄らいで来た。
索から流れ出す金色の霊力の粒は止まらない。
「ミアとの朔の日の約束を果たせなくてごめんね。キミにあの美しい光景を見せたかったのに‥‥‥‥‥次、もし僕が再び現れることが出来た時、ミアは僕を覚えててくれるのかな?」
「私、どうやったら名波先輩を忘れられるというの? お願い、今からでも私の精力を奪って! ねぇ、見えなかったらいてもわからないのよ!」
「ミア? 僕だって本当は君をこちらの世界へ連れ去りたかったけど‥‥‥」
──キミを死に誘うことは出来なかった。それが僕の愛。
姿が薄らいだ索がミアを抱きしめた。
ミアも索を抱きしめる。
見つめ合う二人。
索のくちびるがミアのくちびるに触れた、その刹那。
索の姿がフッと消えた。
ミアの腕が空を切った。
──!
「嫌ーーーーッ!! 名波先輩ーーーーーッ!!!」
強い風と激しい雨が、ミアを打ちつけていた。