ファーストキス
ミアは思い切って美術室の戸を開けた。
「あ‥‥‥」
一番に目に飛び込んで来たのは、窓辺に佇む雅秋だった。
雅秋と目が合うミア。
「あの‥‥‥久瀬先輩は‥‥‥?」
「‥‥‥俺が知るかよ」
雅秋は横を向く。
「他の人たちは? どうしていないのですか?」
残って作業して行く部員もいるはずだが、他は見当たらない。
「あいつらは気を利かせてさっさと帰ったんじゃね? 俺がクローズするって言ったから」
「‥‥‥そう」
──今頃私たちは噂の的だわ。とても憂鬱。これじゃ私は美術部になんて入れそうにないね‥‥‥
厚手の黒いカーテンの会わせ目が開いた隙間の窓辺に雅秋は立っている。
その窓越しは中庭。
雅秋は一人、窓辺から庭を見ていたのかも知れない。
──さっきの名波先輩と私の姿を見ていた? わからない。その表情からは。
とりあえずミアは、後ろ手で戸を閉める。誰かに話は聞かれたくない。
「‥‥‥ミア‥‥‥ごめん。俺‥‥‥」
ミアには意外な言葉だった。
雅秋が自分から謝って来るとは思わなかったので、若干救われる思いがする。
「‥‥‥‥私も‥‥‥‥逃げたりして‥‥‥ごめんなさい」
ミアは未だ扉の一歩内側に立ったままだ。
「こっちに来いよ。ミア」
雅秋は窓辺に寄りかかったまま、ミアを見ている。その顔には、もの憂いが漂よっている。
──自分の言ったことに後悔しているのね。
あれでは久瀬先輩に失礼過ぎたわ。隠していた内心をいきなり暴露させるなんて酷い。
そして、想いを告げられたのに放置して逃げてしまった私も同罪なの‥‥‥
ミアは数歩進んだものの足が止まってしまう。
「どうした? 俺のこと、怒ってんの?」
「‥‥‥‥」
なぜか足が動かない。ミアの心の奥の奥で、何かが邪魔をしている。
しびれを切らした雅秋が、自分のリュックからタオルを取り出し、ミアの前まで来た。
「髪からしずくが垂れてる‥‥‥‥こんなに濡れるまで外にいるなんて」
雅秋がミアの髪の表面を拭う。
「‥‥‥いいの、大丈夫だから」
ミアは雅秋の手を止めた。
天井を仰ぐ雅秋。
それから、ミアに視線を移すと語り始めた。
「‥‥‥俺ここからミアのこと見てた」
雅秋はミアが索と雨の中、二人で佇んでいる様子をここから見ていた。
「‥‥‥‥そう」
ミアが窓の外に目をやると、外は本降りになって来た模様だ。
静かな美術室の中で、雨の音がいやに耳につく。
「‥‥‥‥ミア、名波に振られたって言ったよな?」
雅秋がすがめた目でミアを見ている。
「‥‥‥どうしてそんなこと聞くの?」
デリカシーに欠ける雅秋の言葉に、ミアは悲しくなる。
「嘘は要らない。正直に言えよ?」
「‥‥‥嘘じゃないです」
「そうは見えなかったけどな? あいつとキスしてただろ?」
索から御守りを貰った時のことを思い出す。左耳を押さえながらハッとして雅秋を見た。
「‥‥‥えっ、違う‥‥‥してません。まさかです。誤解です」
おどおどと弁明して、返って怪しまれた気がした。
「本当です‥‥‥」
「‥‥‥‥‥」
雅秋はイラつきを抑えるように、右手のひらでこめかみを押さえたまま後ろを向いた。
ミアはどうしていいのかわからず、雅秋の背中を見つめて黙って立っている。
沈黙が続き、雨の音だけが美術室に響く。
不意に雅秋がくるりとこちらを向いた。
「‥‥‥じゃあ、俺の誤解も解いてくれよ。俺の話聞いてくれるだろ?」
この状態でミアは嫌だとは言える訳もない。
「‥‥‥はい」
「俺、今まで間違ってた。女と付き合うって意味。俺と付き合えるんだからお前らラッキーだろ、そんな気持ちでいたんだ。今まで」
「‥‥‥‥」
「簡単な気持ちで誘って、誘えば面白いように俺について来るし、俺はいつしか思い上がってた。誘って振って誘って振ってを繰り返して‥‥‥」
ミアとは目を反らしながら話す。
「その最後があの牧野のばらだった。あいつさ、そんな俺と同類だったんだ。相手のことなんて見てなくて、自分本意しかなくて。まさに鏡を見せられたって感じ」
「私に話し掛けて来たあの2年の綺麗な人‥‥‥」
「‥‥‥今までの子に謝りたい気分。俺、ミアと会って変わったんだ。正直、最初はその顔だけに惹かれてた。でもさミアってこんなに美人なのに、ひっそりと真面目に清らかに過ごしてた。おごったとこもなくて、誰にでも優しいし」
「‥‥‥私は人見知りなだけよ」
「そんなミアを本当に好きだと思った」
「‥‥‥そうやって誰にでも言うの?」
ミアの言葉に、雅秋は顔をくしゃっと歪めた。
顔をごしごし右手で擦ってからミアの方を見た。
「‥‥‥ちげーよ。こんな俺の心の中を誰かに吐露するなんて生まれて初めてだし。俺が原因でミアに嫌な思いをさせてちまった。本当にごめん。さっきも、久瀬の絵をもらってミアがガチ喜んでいるのを見たら、俺‥‥‥‥我慢出来なくなって、久瀬を挑発した」
「久瀬先輩はどこに行ったのかしら? 荷物がここに残ってる‥‥‥」
「今は俺たちに関係ない。ミアは俺だけを見て」
雅秋はミアの両肩に手を掛ける。
「甲斐先輩、やめて‥‥‥」
ミアは下を向いた。
「‥‥‥ミアは名波と何してた?」
「何って、鯉の話に決まっているでしょう? 名波先輩はここの鯉には誰よりも詳しいんだから」
「俺、ミアを誰にも渡したくないんだ。こんな気持ちは初めてなんだ」
ミアの肩を掴んだ手に力が入る。
「あっ、あの‥‥」
真剣な雅秋の視線がミアの目を捕らえる。
ミアは雅秋から目を反らすことが出来ない。
「これが俺の初恋かもしれない」
「え?」
雅秋は不意にミアのくちびるを奪った。
驚いてうつ向くミアの顎を上げてもう一度キスをした。
響く雨音。
だがミアの中では、それよりも大きく早く心臓の音が鳴り響く。
それは雅秋も同じだった。
扉の隙間からゼツガが見ていたことなど、気づかないほどに。