寄る辺なき弱さを抱えて
雅秋は振り向けばそこにいるのばらに耐えられなくなって来た。
──あいつの目的は何だ? 俺にまだ言いたいことでも?
ミアには知られたくない。俺の黒歴史。
牧野のヤツ、文句が言いたいなら俺がここを出ればついて来るかもな。そしたらミアに知られず対処出来る。
雅秋は立ち上がり、ミアの耳元に顔を寄せた。
「俺、美術部にちょっとだけ顔出して来る。15分くらいで戻るから」
ミアは座ったまま雅秋を見上げ、口元で微笑み、小さくうなずいた。
雅秋が席を外し、ミアがつかの間ぼんやりしていた時だった。
「ねぇ、あなた。ちょっといいかしら?」
後ろから声をかけられた。
「あ、はい?」
ミアの知らない女子だった。
華やかな雰囲気の、どこか高飛車な雰囲気を漂わせた赤い髪の女子がミアの後ろにいた。
「えっと‥‥‥?」
振り返ったまま戸惑うミアに、彼女は扉の方を指さした。
どうやら、外でミアに話があるらしい。
「急にごめんなさいね」
廊下に出ると彼女は美しく微笑んだ。やや長身寄りのミアよりも背が高く、首が長くスラリとしたその姿は洗練されている。
「あの‥‥‥?」
「ついてきて。ここでは話し声が響いてしまうから」
ミアの返事には構わず、さっさと出口へ向かう。
不安に思いながらも彼女の後に続いた。
階段を下り、一階の廊下を真っ直ぐ進み、普通教室棟側の渡り通路への出入口まで来た。
すぐそこは中庭だ。
通路に出ると夏の熱気が直に肌にまとわりつく。
渡り廊下の四角い柱を背にした困惑のミア。
「ごめんなさいね、急に。でも、聞いてもいいかしら? ねえ、あなた。甲斐雅秋と付き合っているの?」
不躾な質問に、ミアは言い淀む。
「あ、あの‥‥‥? あなたは誰ですか?」
ミアと初めて目が合った彼女の瞳は、ぱあっと輝いた。
「あら?‥‥‥‥あなた、いい! とってもかわいいわ‥‥‥」
問いかけは無視し、ミアのほほに指先を這わせる。固まるミア。
「あの‥‥‥」
「聞きなさい。あの男はね、信用したらダメ。アイツはあなたのようなかわいい子を口説くのが趣味なのよ。そして落としたらそれで満足して、すぐに次の子に行くの」
「‥‥‥どういうことですか?」
ミアの心にさざ波が立つ。
「あなたも、壁ドンされたでしょう?」
ミアの目を覗き込むように、口許に嘲笑を浮かべた顔を寄せた。近い。
ミアは横を向く。
頬が熱い。壁ドンこそされてはいないものの、雅秋の時よりも近い。
「うふ。ほ~ら、当たった! それがあいつのお得意なの。かわいい子を見つけたら見境いないのよ」
「あの‥‥‥あなたもって‥‥‥」
やはりミアの問いかけは無視された。
「‥‥‥あなた、どこの角度から見てもきれいね。本当にお人形さんみたい。私、アイツの審美眼だけは褒めてあげてもいいわ。うふふっ‥‥私、あなたみたいな子、嫌いじゃないの」
ミアの両頬に手を当て、真正面に向けて自分と目を合わせた。
「怖がらないで。私はあなたの味方なの。私が‥‥‥あいつからあなたを助けてあげるから‥‥‥‥だから‥‥‥」
「ちょっ、離れろッ!! お前っ、ミアになにしてるんだっ!!」
管理棟側の渡り通路の出入口から雅秋がすごい勢いで走って来た。
出入口のすぐ横は美術室だ。
「あら? 久し振りー、甲斐先輩。ふふっ‥‥私ね、この子に先輩のこといろいろ教えてあげていただけよ?」
「ミアに何言ったんだよ? 俺を恨んでるのはわかるけど、ミアにはかんけーねぇだろ! 巻き込むな!」
「ふ~ん‥‥この子ミアちゃんっていうのね? うふっ。私、ミアちゃんを悪い男子から助けてあげようとしているだけよ。だっ~てこ~んなにかわいいんだもん。ねっ、ミアちゃん! 困った時はいつでも何でも私に言ってね? 私は2年2組の牧野のばらよ。よろしくね。あなたは?」
『えっと、1年1組の真夏多ミアです‥‥‥』
雅秋は ミアに微笑む のばらの肩を乱暴に突く。
「いいかげんにしろよ? 今後ミアに一切近づくな! ミアも名乗んな! 行くぞ」
「でもっ‥‥‥牧野先輩は‥‥‥」
のばらは雅秋の剣幕にも全く動じることは無く、ミアに小さく手を振る。
「またね、ミアちゃん。私のことは次からはのばらって呼んでね~」
雅秋は のばらに振り返るミアの手首を掴み、管理棟側に戻った。そのまま人目を避けて3階まで階段を上る。
誰もいない廊下の一番奥で、ミアの両肩を掴んだ。
「ミア、あいつに‥‥何を言われた?」
先程の剣幕が収まりきれぬままで、ミアの目を探るように覗き込もうとした。
ミアは横を向き、雅秋の目を見ようとしない。
「ミア、何か言ってくれよ?」
雅秋は不安からミアの肩を揺さぶった。
ミアの態度は頑なだった。
「‥‥‥私、今日はもう帰ります」
ミアは、雅秋の右手を払い、階段を下に向かった。
「待てよ、ミア! 俺の話も聞けよッ!」
ミアは立ち止まり、階段の途中から振り仰いで雅秋を見た。
「甲斐先輩が、私を助けようとしてくれたこと、本当にありがとうございました。私、すごく感動してました‥‥‥‥だけど‥‥‥‥」
「何を聞かされたか知んねぇけど、俺よりたった今会っただけのあの女の言うことを信じるのかよ?」
雅秋の整った顔が悔しさで歪む。
「‥‥‥‥今は‥‥‥わからない。ごめんなさい」
ミアは一人、生物室に向かった。
──私、私って、本当に弱くてダメな人だわ。強くなりたいのに。
誰のことも気にしないで、自分の意思で決断して進んで行ける強さが欲しいと思った。キリルみたいに。
変わりたくて今まで避けていたこともやってみようと頑張った。
なのに、今の私は周りに振り回されておどおどしているだけ‥‥‥‥
こんなことで傷ついていたら、私はいつまでたってもミチルとキリルのお荷物のまんまだわ。その内、呆れて嫌われてしまうのよ。
甲斐先輩の話も聞かなければいけないのはわかっているの。
でも‥‥‥今は顔を見られない。
私はまた、いつものように外見だけを見られて、からかわれて誘われただけだったかもしれないなんて。
甲斐先輩の本心を知るのも恐い‥‥‥
今は無理だわ。
名波先輩? どこですか? 私、先輩に会いたいです‥‥‥
ああ、そう言えば私は蓮津姫に似ていたから親切にされただけだったんだっけ‥‥‥
本当にそれだけだったのですか? 名波先輩。
誰も私自身を見てくれない。
ミアは生物室の前のロッカーの前に佇む。
右側一番下の角。
そこはミアの特別な場所。
覚えている。あの約束。
《これから僕に用がある時は、このロッカーの縦の列の一番下のロッカーにメモを置いて下さい。漆塗りの文箱が入ってるからその中に。 名波索》
二人を繋げてくれる秘密の箱はここにある。
《どうされてますか? 姿だけでも見せてください。 真夏多ミア》
願いを込めてメモ書きを箱に収め、ロッカーの扉を閉めた。
その後ミアは餌を持って中庭に出たが、索の姿はやはり無いままだった。