島田の危惧
8月に入った。
ミアの美術部でのモデルの仕事は7月中で終了していた。
ほとんどが絵は完成させていたし、あとはミアがいなくてもなんら問題は無い。
雅秋も部の運営は全て新しい部長の絵島に全てを任せ、後は見守るだけだ。
ミアは中庭の池の一件以来、索の姿を見てはいない。
気がかりは募る。
あれから、雅秋とは図書室デートを何回か重ねていた。雅秋は意外と勉強には真面目で、ミアが解らないところを聞くと丁寧に教えてくれる。
なんでも、父親が学習塾を経営しているらしかった。特に親から教わることはないそうだが、成績は上位を保っていて地頭が良さそうだった。
知らなかった雅秋の一面を発見することは とても新鮮で、新たな人間関係を築いていてゆく過程の緊張感とフレッシュ感はミアの心に張りをもたらした。
雅秋と約束の月曜日の朝。ミアは約束より15分ほど早めに学校の図書室前に来ていた。まだ、扉は施錠されていた。
廊下で扉にもたれて索のことを考える。
あれ以来姿を現さない索が気になっていた。図書室に一番に入ったのなら、人気の少ない図書室のどこかに索がいそうな気がして、早めに来てしまった。
──あ、先生がやっと来た。
図書室のカギを持った学校司書の島田が廊下の向こうからやって来るのが見えた。
ミアは背を起こし、図書室の扉の横に立って島田に会釈した。
「おはようございます」
「おや、おはよう。早かったね。ずいぶん熱心だね。えっと、キミは真夏多さんだね?」
なぜか島田はミアの名前を知っていた。
「はい、そうですけど‥‥‥」
島田の顔が少し翳ったように思えた。
「最近はちょくちょくここに来てくれるね。今、ちょっといいかな? 突然で悪いんだけど、誰も来ていない内にキミに話しておきたいことがあるんだ」
「あの、なんのお話でしょうか? 私ここで友だちと待ち合わせなんです」
ミアの背筋に緊張が走る。
セクハラ教師の噂は女子たちに共有されている。島田にはそんな噂は無かったが、教師とはいえ、おじさんと二人きりは辛い。
「えっと、それは誰かな? ここのところの一緒にいるのを見かけているあの3年の男子かな」
「あ‥‥‥はい」
「あと10分もしない内に図書委員さんも来るからその前に真夏多さんに彼のことを警告しておきたくてね」
「え? 甲斐先輩のことですか? 先輩が何か‥‥‥」
怪訝な思いで島田に視線を送る。
「いや、その子じゃない。"幻の生徒" のことで」
「‥‥‥‥え?」
ミアは島田の顔を見て固まってしまった。まさかそれを島田から出されるとは。
──幻の生徒の名波先輩のことを当然のように知っている先生がいるなんて!
「知っているんだろう? 大まかなことは。まさか彼がここまで真夏多さんを巻き込んいたなんて。僕は中央の研修に参加していて7月の後半は学校の方には顔を出してなくて今さら知ったわけだけど‥‥‥」
「教えて下さい! 名波先輩は今どこにいるのですか? ここのところ現れてくれなくて」
「誰にも聞かれたくない。中へ。時間も無い」
島田はカギを開けながらミアを中に促す。
ミアは先ほどの躊躇さえすっかり消え去り、図書室に踏み入る。
隅っこにある図書室のテーブルを挟み向かい合って座った島田に、ミアは思いきって尋ねた。
「あの‥‥‥もしかして島田先生が幻の先生なのですか? 筆頭家老とかいう‥‥‥」
「あ、僕は幽霊じゃないよ。生きた人間だから安心してね」
「幻の先生もいるのですよね? きっと‥‥‥」
「ふふふ、あの七不思議? 切取さんは有能過ぎるな。あの行動力。僕の後継者になって欲しいくらいだけどね」
「あっ、あのっ、キリルも知っているんですか! 名波先輩のこと!」
「いいや、名波索が幻の生徒だということは、生きた人間ではキミと僕しか知らないよ。それに彼は生徒 名波索としてもほとんど存在は知られてはいない。彼を一時的に認知しても、皆、比較的短時間で忘れてゆくんだ。彼に対して余程の想いか、濃い印象を持たない限り」
「忘れてしまうのですか?」
「彼はそうそう生徒の前には現れないし、それでももし、彼とすれ違って素敵な人だって思っても一回だけ、一瞬見ただけの顔なんて自然と忘れちゃうよね。素敵な人を見かけたなーって記憶だけしか残らない。彼の存在感はね、ええと、例えば‥‥卒業式の来賓の方とか、他学年の先生方とか、存在は認識してるけど、個人的に関わりが無かったら生徒たちは顔なんて覚えてないし、気にも止めない。そういう感じだろうね」
「‥‥‥‥ならばなぜ、幻の生徒の存在は知られているんですか? 七不思議に入るくらいに」
「人の記憶からは消えても、どこかしらに痕跡は残る。例えば彼と出会ったことを誰かが記録した文字は消えない。後からそういうのを見たら、自分でこれは誰だっけって不思議に思うだろう? それの積み上がりかな。稀にだけど、いつまでも覚えてる人もいるみたいだし。でも、周りは覚えて無いわけだから空回りで終わるよね。それも怪談に入ってくって寸法さ」
「名波先輩はあまり人前に現れることは無い‥‥‥。そうか! 今は夏休みで、昼の炎天下の中庭になんてほとんど人は来ませんから、だから私は名波先輩に会えたのですね」
「そうだね。真夏多さんは中庭の鯉の世話をしている生徒だと言うのは大きい要素だろう。今回彼は、美術部に行って生徒に名前を名乗ったそうだけど、錦鯉研究部以外では滅多にあることじゃない」
「滅多に、ですか‥‥‥」
「まさか彼がわざわざ美術部にまで行って自らを名乗っただなんて驚いたよ。それって真夏多さんだからだ。キミの容姿は蓮津姫を思わせる。かつての彼の悲恋の相手だ。彼はキミに特別な想いを寄せている」
「でもそれって、私に蓮津姫の影を投影してるだけですよね」
「さあ? きっかけは間違いなくそうだったんだろうけど、今は何とも言えないな」
「え‥‥?」
「いきなりだけど、単刀直入に言うよ。‥‥‥‥真夏多さんは、名波くんに関わらない方がいい。一言で言えば、彼は悪霊だ。幽霊は普通の人の目に見えることは稀だ。姿をそこまで具現化するためにはそれなりのエネルギーがいるからね。強い怨念とか、心残りとか」
「先生、名波先輩は悪霊なんかじゃありません!」
「いや、彼は生きていた蓮津姫のすべての精気を奪った。それはもはや悪霊だ。そして今は中庭の鯉たちを通し、霊界にいる彼の支援者からの霊力を受け取り、それで霊体を保っているようだ」
「池の鯉たちを通して‥‥‥?」
「ああそうだ。あの鯉たちはある方の眷族の役割をしている。まあ、だからと言ってただの鯉に過ぎないが」
「‥‥‥‥それって‥‥‥」
ゼツガが夜中に見たという不思議な光景の打ち明け話がミアの頭に浮かぶ。
「彼の今回のような行動は初めてだ。まさか生徒を霊域に連れて行くなんて。僕はここの生徒たちを守らなくてはいけない。ここの教諭なのだからね」
島田は厳しい表情で切り出した。
「‥‥どうして島田先生はそんなことを知っているのですか? 先輩が悪霊なんて嘘! 関わらない方がいいと言われても私、名波先輩が気になります。それに錦鯉研究部の先輩ですし」
ミアは、島田がこのような話を突然して来ることに戸惑う。
「私はね、なぜか生まれ持った霊感が強いんだ。霊に対しての体質も他の人とは違う。だから普通の人には見えない霊がいつだって見えてしまうし、対話も出来る」
一呼吸おき、言った。
「名波くんはキミに過去を見せたんだろう? 彼はここで人の精気を奪ったりはしてはいない。だが、誰だって愛を欲している。霊だって同じなんだ。心があるのだから。名波くんだって心の底ではキミの愛を求めているんだろう。だからつい、禁忌を破った。キミに自分を見せてしまったんだ。キミに自分を知って欲しくて」
島田はミアの目をじっと見据えた。
「霊は人と関われば意図しなくとも少なからず精気を奪ってしまう。それは生ける者を黄泉の国へ近づけてしまうということだ。彼に夢中になれば蓮津姫のように自ら死を望んでしまう危険性もある。若きは盲目で純真な愛に陥るもの。だから彼は今迷って姿を消しているのだろう。真夏多さんの全てを自分のものとして欲してしまうのを恐れて」
「‥‥‥‥そうなのでしょうか? 私は名波先輩は、もろく壊れてしまう愛というものに失望しているように思いました」
図書室の扉が開く音がした。
「おはようございまーす♪ 島田先生」
図書委員の、カウンターの中で時々見かける長いポニーテールのスラリとした女子が笑顔で現れた。そのすぐ後からは雅秋が現れた。
「おはよ、ミア」
「あ、甲斐先輩!」
ミアが立ち上がる。
「ああ、今日も華厳さんが当番か。ありがとうね」
島田は図書委員に声をかけてから、ミアに小声で言った。
「じゃ、僕の忠告を聞いてくれることを望むよ。全て他言無用で。彼のためにも」
「‥‥‥はい」
島田が生徒を心配しているのは理解出来たが、索を悪霊呼ばわりする島田とは相容れないものをミアは感じている。
──名波先輩。一目でいいから姿を見せて下さい。ここから消えてしまってはいませんよね?
心許ない気持ちでいっぱいになったミアだった。