幻の生徒
雅秋が帰った後、ミアはシャワーを浴び、汗ばんだ肌をすっきりさせてから自室にこもった。
ベッドに寝転び、索から貰った扇子を広げて眺める。
──名波先輩は、月曜日も普通の顔をして学校にいるのかしら?
私だけが知った名波先輩の秘密。誰にも言うわけない。
誰かに言ったら消えてしまうかも知れないのに。
脇に転がっていたスマホが小さな音を立てた。扇子を閉じ、手を伸ばすミア。
──キリルだ! この海の写真、すごく綺麗。キリルの元気な顔! ずいぶん日に焼けてない?
同じクラスの親友の愛称キリルこと切取ルイマは 今、写真愛好家の仲間たちと撮影の旅に出ている。
行動的なルイマは、夏休みが始まる前から入念に計画していて、今しか出来ないことを大いに楽しんでいた。
たまに、美しい景色や元気な笑顔の写真をグループSNSにUPして状況を知らせて来て、家族とともに海外でバカンスを楽しんでいるミチルも同様だった。
スマホのディスプレイを見つめながら、ミアは、なぜかため息が出る。
──いいな。二人とも楽しそう‥‥‥
ミアはスタンプを送ってから、目にも心にも眩しいページは閉じた。
なんだか今の自分とは正反対で、見ると落ち込む。
親友のルイマが、この校内でささやかれている怪奇な噂を取材して編纂した七つの不思議。
彼女が感想を教えて欲しいと送って来ていた学校七不思議を改めて読み返す。
──噂話だから一つの話でもいろんなバージョンがあるって言ってたな。
もっとキリルから詳しく聞きたいけれど、当分無理ね。邪魔してしまうもの。
気になる項目はまずこれよ。
《その1: この学校の敷地のどこかに古井戸がある。それは黄泉の世界に通じている》
井戸もどこかにあるのかもしれないけれど、中庭のあの池もだった。
私は確かに名波先輩と共にあの中庭の池に落ちたの。覚えているの。私の周りからブクブクわき上がる水の沫に包まれながら一人沈んでゆく感覚。
水泡の音が耳に響いた。
でもそこは池の水の中ではなかった。私はちっとも濡れてはいなかった。
確か、名波先輩はあそこは彼岸と此岸の狭間と言っていた‥‥‥‥あの鯉が泳ぐ中庭の池はもっと進めば死後の世界につながっているの‥‥‥
『ここは、僕の住まう場所。彼岸と此岸の狭間の世界』
名波先輩はこの世の人じゃなかった。先輩は、4つ目の七不思議に出て来る幻の生徒。
《その4: この学校の生徒の中に生徒ではない生徒が一人紛れ込んでいる。けれどもそれは誰なのか誰も気づくことは出来ない》
どうして気づく事が出来ないのかしら? 私は知っているのに。
ううん、私が気づいた訳じゃない。私は本人から教えられたのよ。
私は名波先輩のことを何でも知りたいと言った。
名波先輩は私のお願いを聞いてくれたの。名波先輩がかつて愛した蓮津姫に私が似ていたから。それに、先輩はすごく孤独だったから。
巷の怪談話であるわよね。遊びに6人で来たのに、いつの間にか7人になっていて、なのに誰が増えたのか誰にもわかんなくって‥‥とか。そういう感じになっているのかしら。
そしてこれも同じ。名波先輩という幻の生徒がいるのだから、こちらもいる可能性は高い。
《その5: 先生の中にも先生ではない先生が一人紛れ込んでいる。それはかつての落花生城の筆頭家老である》
誰? 思い当たる先生はいないわ。この、お城の跡地に立つ高校には、今も見えない古が漂っているの。とても不思議‥‥‥
私が、意に反して美術部のモデルを引き受けてしまったあの出来事、あの後キリルが私に謝って来たことがあった。
私は自分でも自覚していなかった心の奥に隠された思いが、何かの引き金で出たのだと思ったけれど、キリルの見解はそうじゃなかった。
キリルは、自分は学校の怪異に自ら近づき過ぎて霊たちに存在を認知されてしまったから、それを手伝った私も霊の目について、気まぐれで一時的憑依されたんじゃないかって考えてた。
キリルの言う通りだったの? 私はあの時から学校七不思議に触れていたの?
現実、私は幽霊に恋をしてしまっている。
こんなことってある? 私、こんな目に会っても名波先輩が幽霊だなんて思えない。実感としてそう感じられない。
あんな不思議な体験をしたというのに。
名波先輩が見せた愛しい人との切なく辛い記憶。
たしかに私は名波先輩が好きだけど、そのために死んでもいいとは思わない。
だって、出会ったばかりだもの。何も育まれてないのにいきなりそうなるわけ無いよ。
振られた私。私はもし、名波先輩に愛されたとしても蓮津姫の身代わりに過ぎない。彼女に似ている私に優しくしてくれただけなの‥‥‥
ならば私は、名波先輩が言ってくれたように、生きて私を思ってくれてる人に目を向ければいい。
もう、私は名波先輩を求めない。
触れてはいけなかった七不思議の深遠。
でもそれは、気付かないだけでいつも私のすぐ横にあるの。
私が蓮津姫に似ていたがために開かれた扉。
だけど、閉めることなんて出来ないよ。
名波先輩は別世界の人。‥‥‥でも、私の名波先輩への思いは、心から消えてはいないから、ただ胸の奥にそっと閉じ込めておくの。
問題はもう一つ。
甲斐雅秋先輩。
私は付き合うなんて言った覚えは無いのに。
甲斐先輩は俺様っぽくて苦手なタイプだったけれど、本当の甲斐先輩はちょっと違っていた。
見たままのナルシストで、なんか勘違いしてるみたいなとこがあるけど、心の優しい人。自分のことより私のことをあんなに心配してくれていたんだもの。
私は先輩を突き放すことは出来ないよ。彼氏彼女とかは関係なく、私たち、まず友だちから始めてみたらどうかな。
私は今までしなかったことをどんどんしてみると決めているし、新しい世界を広げたい。いつまでも誰かの後ろにいるわけにはいかないもの。
ミアは索の扇子を枕元に置き直す。
早いけどもう寝ようとした時、雅秋からメッセージが届いた。
《何してる? 月曜日、部活行くんだろ? 午後は学校の図書室で一緒に勉強しようぜ》
雅秋には、話さなければならないこともあるし、とりあえずOKしておくことにした。
《はい、わかりました。ですが、まだあのことは思い出せません。ごめんなさい。では、月曜日に。今日はありがとうございました》
──月曜日か‥‥‥名波先輩は学校にいるのかしら? 鯉の餌当番にまた現れてくれる?
次回会うのが少し怖い。ミアは索にどういう顔をして会えばいいのかわからない。
だからといって、もし索が現れなかったら、消えてしまったのではと心配で探してしまうと思う。
なにやらいろいろてんこ盛りの大変な一日だったけれど、とりあえずは眠れるくらいには心は落ち着いた。
──おやすみなさい。名波先輩‥‥‥
やがてミアからスースー寝息が漏れ始めた。
ミアは自分は索に振られたと思い込んでいたが、そうでもないことに気づいてはいなかった。
《‥‥‥‥ありがとう。だけど、僕には判断がつかない。ミアを愛してもいいのか。まだ怖いんだ。ごめんね、ミア‥‥‥》