保健室にて
ミアは、眠っていた。
誰かの話し声が響いて来て、うっすら目を覚ます。
「せんせーっ、擦りむいた! 絆創膏くださーい! おっきいの」
「はいはい、でも水で傷口を洗ってからよ!」
──ここは保健室だわ‥‥‥
周りはベージュ色のカーテンで仕切られている。
──あっ!
ベッドの横にはスチール製の丸い簡易椅子に座った雅秋がいた。
スポーツタオルを首に掛けた雅秋が、ミアのベッドの脇で突っ伏して寝ている。
ミアはそっーと上身を起こした。
──甲斐先輩が私をここに連れて来てくれたの?
ミアは雅秋と話していた時、ぐらりと目眩を感じ、目の前が真っ暗になったことを思い出す。
──私、貧血になって倒れてしまったんだ。更に迷惑をかけてしまったわ‥‥‥
雅秋の肩を借りてここまで来たことを徐々に思い出した。
──そう言えば、甲斐先輩はお昼に偶然会った時、顔色が悪そうだった。それなのに‥‥‥
雅秋は借りたらしきジャージとTシャツに着替えていたが、まだ髪が濡れているようだ。
その寝顔を見たら、嫌でも今日、校舎裏で強引な告白をされたことを思い出す。
──どうして、私なんかのことを好きだと言ったの? 甲斐先輩は人気者。先輩の回りにはいつも人が集まってるのに。どうして私なの?
甲斐先輩の人気は、先輩独自のスタイルの良さとリーダー的なキャラクターのせいだと思っていた‥‥‥
美術部だって、本来は新部長の2年の絵島先輩がまとめるべきなのに、部員たちに引き留められて未だに部長しているし。
甲斐先輩の美術部への貢献も大きい。今の美術部の夏休み中の自由度の高さも、顧問の先生との交渉で得た甲斐先輩の手腕って聞いた。お陰で美術室を使いたい人は一日中使うことが出来るようになったってユリカが言ってた‥‥‥
眠っている無防備な横顔に、普段とは違う雅秋を感じる。
──人気者の理由はそれだけじゃなかったのかも。
だって、甲斐先輩ったら、告白を無下にした私にも、こんなに親切にしてくれてる。軽薄そうに思っていたけど、そうじゃなかったの。
‥‥あれからすぐに帰ったわけでは無かったのね。
戻って来たところで私が名波先輩に掴まれて池に落ちるところを偶然目撃していたんだわ。
私は完全池に落ちたと思うけれど、実際落ちたのはそこじゃなかった。中庭の鯉の池は、違う世界への入口だったのよ‥‥‥
雅秋を揺らして起こそうとしたミアの手がためらった。目を閉じている雅秋の頬にそっと指を這わす。
──私のために池に飛び込むなんて‥‥‥
そのミアの手が、ガッと捕まれた。
「っ!」
「‥‥‥起きたみたいだな」
雅秋がむくりと起き上がった。
「あっ、はいっ!」
ミアは驚いて背筋が伸びてしまった。
雅秋はミアの手を放した。
「誰かミアを迎えに来てくれる人がいんのか?」
「‥‥‥いえ。今、家には誰もいないから」
「じゃ、俺が家まで送る! 先生、ミアが起きたぜー!」
雅秋がバッとカーテンを開けた。
「真夏多さん、甲斐くんが池に落ちたのを見てびっくりして倒れたんですって? 甲斐くんが責任感じちゃって、ずっと見てるって言うから。うーん、たぶん貧血ね。外も暑いし、水分補給不足だったのかもね。ほら、この経口補給水を飲みなさいな」
養護教諭の芝田先生がミアに冷えたペットボトルを差し出す。
「すみません、先生。ありがとうございます」
「真夏多さん、もう目眩はしない? 帰りは大丈夫かしら? もう少し休んでいてもいいのよ?」
「ありがとうございます。でも、もう平気です」
「大丈夫! 俺が送ってくから。彼女だし」
雅秋が芝田先生にさらりと答える
「あら、やっぱりそうだったのね、うふふ。今度は駅のホームで目眩を起こしたら大変だものね。彼女をお願いね」
「‥‥‥えっと?」
ミアは困惑したが、いちいち反論している場面でも無かった。
廊下からバタバタ近づいて来る足音が響き、ガラリと引戸が開いた。
「せんせーっ、突き指した! 痛ってぇー!」
「廊下は静かにね! えーと、バレーボールで? すぐ行くわ。そこの椅子に座ってて!」
芝田がミアと雅秋に苦笑いを向けた。
「保健室はなにかと夏休みも忙しいわね」
くるりと背を向け次の生徒へ向かった。
「みたいだな。じゃ、先生、さよなら」
「‥‥‥芝田先生、ありがとうございました。さようなら」
「気をつけて帰るのよ」
チラリと振り向いて頷いてから、突き指の生徒と話を始めた。
ミアと雅秋は保健室を出た。
ミアは雅秋に言いたいことがあるが、さっきから言えずにいる。
──あれはどういうこと? どうして先生にあんなことを言ったの?
遠慮したが、雅秋はミアの荷物も持ってくれていた。
「家どこ?」
「あ、あの私、ひとりで帰れますから‥‥‥」
「ダメだって! また途中で倒れたらどうすんだ。だったら誰かに来てもらえよ」
雅秋が少し怒気を含んだ声で言った。
「‥‥‥‥それは無理。でも、大丈夫です。甲斐先輩の方が具合が悪いのではないですか? 」
雅秋の顔色も良いとも思えない。
「俺のことはいい。だったら俺が送る」
雅秋はさっさとミアの前を駅に向かって歩き出す。仕方なくミアは後に続く。
「なあ、名波は一体どこに行っちまったんだ? 俺はてっきりミアと名波が池に落ちたのかと思ったんだけど‥‥‥?」
振り返った雅秋は、名波に怒りを覚えているように見えた。
「‥‥‥わからない。でも‥‥‥名波先輩は大丈夫ですから」
ミアは今だけは索のことを深くは考えないようにしようと思う。
今、考えてしまえば、ミアは迷宮に陥ってしまう‥‥‥
「‥‥‥‥‥わけわかんねぇ。結局、ミアと名波が池に落ちたって俺の見間違いかよ? 俺は濡れ損かよ? 一人で道化してたとはな」
「‥‥‥‥‥ごめんなさい」
名波索の本当の姿のことなど言えるわけも無い。
それに、もし他に正体が知れたら、索はここから消えてしまう気がしていた。
雅秋は歩き出した。ミアはその後ろ姿を見ながら、ルイマが調べてまとめ上げた、学校七不思議を思い出す。
せめて雅秋といる間は索のことを考えるのをやめようと思うのに、やはり意識は索へと向かう。
ミアの携帯にはルイマが送って来た七不思議のテキストが残っているはずだった。
一人立ち止まり確認してみる。
七不思議の4番目。
その4: この学校の生徒の中に生徒ではない生徒が一人紛れ込んでいる。けれどもそれは誰なのか誰も気づくことは出来ない。
そして、気になる項目も。
その7: 稀に、豪奢な着物を着た美し過ぎるお姫様の幽霊が出る。いたずら好きの姫様の姉と言われている。
──これ、ルイマは落花生城 最後の城主 清瀬川里見の娘、伝説の姫君の那津姫と蓮津姫って言ってたかも?
あっ!‥‥‥私、忘れていただけで、蓮津姫のことを既に聞いたことがあったじゃない!
‥‥ってことは。
名波先輩は自分のことをここに住まう幽霊の一人って言っていた。ならばここにはもっと幽霊がいるってこと? その元カノの蓮津姫も、那津姫も?
「‥‥‥大丈夫?」
気づけば先を歩いていた雅秋が戻って来ていて、ミアの目の前に立っていた。
「‥‥あ、‥‥‥ごめんなさい」
ミアはスマホをサッとポケットにしまう。
「‥‥‥ミア、顔が青いぞ?」
ミアの顔をじっと見ている雅秋。
「甲斐先輩だって‥‥‥」
「俺は大丈夫だって。早く帰ろうぜ」
「‥‥‥はい」
二人は並んで駅に向かって歩き出した。