美術部
ここから第2部です。
落花生高校は夏休みに突入した。
休みとはいえ、学校には生徒たちの声が響いている。
グラウンドで、体育館で、校舎内の特別教室で、多くの生徒たちが仲間たちと部活動に励んでいた。
管理棟1F 校舎東側奥の中庭に面した美術室。
教壇正面に掛けられている時計はもう正午を過ぎている。
「じゃ、今日はここまで! 残りたい人は残っていいけど5時までだ。最後の人ちゃんと戸締まり電気消すの忘れないように。それと今日は誰の当番?‥‥‥あ、星野か。日誌書くの忘れんな!」
美術部部長、甲斐雅秋は教壇から部員たちに向けて指示した。
大半の部員は片付け始めたが、数名は残るようだ。
「真夏多さん、お疲れ! 明日もよろしく。夏休みなのに来させてごめんな」
雅秋は教壇を降りると、ガヤガヤ帰り支度を始めた部員の間をすり抜け、後方窓際にいたミアの所まで来た。
「いいえ、私、甲斐先輩がモデルに誘ってくれたお陰で私‥‥‥自分は変わらなきゃいけないって思うきっかけになったんです。だから私、今では好きで来ているんです」
ミアは肩にかかった髪を右手で無意識に触りながら、うつ向きかげんで答える。
「そうかー、そういう風に言って貰えると俺も嬉しいな。‥‥‥真夏多さんさ、もう帰るんだろ?‥‥‥あの‥‥駅まで一緒に帰らない?」
「えっ?」
ミアはビクッとして顔を上げた。雅秋の顔をパッと見てからまたうつ向く。
「あの、私、今日は錦鯉研究部の当番なんです。知ってますよね? 私、部員なんです。今から中庭の鯉に餌をあげて鯉の様子を日誌に書かないといけないんです。だから‥‥‥」
ミアは小さな声でもそもそ言ってから、またチラリと雅秋の顔色を窺う。
「‥‥‥‥そう、なんだ。じゃ、俺はここで待ってるから。ここからなら中庭が見えるし、窓から君を見てる。終わったら戻って来て」
「え? で、でも‥‥‥。先輩を待たせるなんて悪いですから先に帰って下さい」
「いいから。早く行って来いよ」
雅秋はそう言うと、くるりと後ろを向き、居残りする様子の副部長の方へ行ってしまった。
「あ‥‥‥‥」
ミアは雅秋の後ろ姿には声をかけられず、仕方なくそのまま美術室を後にした。
「聞いてたぜぇ。雅秋、お前強引だったなぁ、今の」
副部長の久瀬ゼツガがあきれた顔をした。
「まあな。ここで引く俺ではないし」
「お前、たしか最近彼女と別れたばっかだろうが。早ぇーんだよ!」
「ちげーよ! あのストーカー女! やーっと離れてくれたんだって。あんな地雷女こりごりっつーの」
げんなりした顔で、雅秋はオエーッと吐く真似をして見せた。
「全く‥‥。そのうち痛い目に遭わなきゃいいけどな、お前はさ」
「甲斐~! ちょっとこれ見てよ! マリの裏アカ超絶受ける~www」
スマホをかざしながら3年の女子二人組が楽しげに雅秋を呼んだ。
机を避けながら離れて行く雅秋の後ろ姿を、ゼツガは横目で見ている。
小さなため息が出た。
朝、途中のコンビニで買ったサンドイッチとスポドリを大きなリュックから出す。
黒いカーテンが引かれた窓際で、立ったまま描きかけの自分の絵を眺めながら食べ始めた。
ちらりと雅秋の方を見た。
雅秋の態度が気に入らない。今、雅秋はといえば、残った女子生徒二人と楽しそうにしゃべっている。
「はぁ‥‥‥‥」
──甲斐のヤツ、窓から真夏多さんを見て待ってんじゃなかったっけ?
ゼツガはなにげにカーテンの細い隙間から窓の外を見た。
そこは、見るからにクソ暑そうな眩しい7月の日差しが降り注ぐ中庭の景色。
中庭には、ど真ん中に大きな面積を占めて鎮座する洋風の池。
そのレンガの塀で縁取られた池の中には、色とりどりの錦鯉たちが泳いでいて、それを眺めている背の高い男子生徒の後ろ姿があるだけだった。
──真夏多さん、美術室に戻らずそのまま帰れ。
ゼツガが心でつぶやきながら外を見ていると、ミアが中庭に現れた。池の横にいた男子とミアは知り合いのようだ。話をし始めた。
──ん? マジかよ!
ミアが微笑んでいるのが男子生徒の陰からチラチラと見えた。
──あの男子は錦鯉研究部の奴か? 真夏多さんが微笑むなんて‥‥‥
二人で池に餌をまき始めた。
ミアとその男子は池の中を指差して、楽しそうに会話している。
エアコンをつけ、締め切った窓からは何を話しているのか全く聞こえない。
時折、ミアがこちらの窓に視線を向けて来る。
この黒カーテンの合わせ目の細い隙間から見られてることは、眩しい太陽が照りつけている中庭からは気づけないだろう。
会話は数分の出来事で、二人はすぐに中庭を後にした。
錦鯉研究部は生物室を部室にしていると聞いていたので、そこに戻ったのだろうと思った。生物室は、ちょうど美術室の真上に当たる。
ゼツガは自分の使っていた椅子に戻り、もうすぐ完成というところまで来た自分が描いたミアの絵を眺めた。
──この絵が完成したら部活も引退だ。
受験勉強も本格的なはずのこの時期。だけど推薦をほぼ取れる見込みの俺と雅秋は余裕だ。とは言え、万が一の時のためにホントはさっさと引退して勉強した方がいいんだけど‥‥‥
美術室の扉がノックされた。
いちいちノックして入る部員はいない。ゼツガは自然と出入口に目が行く。
ガラリと開かれた。
「あっ、さっきの!」
ゼツガから呟きが漏れる。
──真夏多さんと中庭で話してた男子だ。
なんだよ、近くで見ると超イケメンじゃん。もしかして真夏多さんの彼氏だったりする?
「失礼します。あの、部長さんはいますか?」
その男子は後方扉から一歩入ると、室内を大きく見回した。
背が高く人の目を引く男子だ。優しげな瞳の整った顔立ちは、ゼツガにはどこか儚げにも見えた。長めの黒髪を後頭部中程で一つにまとめている。
「あん? 俺が部長だけど、何? 誰?」
教室前方で女子たちと賑やかに話していた雅秋が、机の間を縫って男子の前まで来た。
──雅秋のやつ、めっちゃ張り合ってんじゃん?
自分に自信のある雅秋が見知らぬイケメンの登場に、バッチバチの視線を向けているのがゼツガには感じられる。用件はまだ不明ながら。
「甲斐部長ってキミ? 僕は錦鯉研究部の部長の名波索です。‥‥‥真夏多さんなんだけど‥‥‥。さっき約束したとか? でも、こっちの方でも真夏多さんに頼みたい仕事があるんだ。申し訳無いんだけど、君とは帰れないからその伝言に来ました」
「名波? なんでなんで名波が来んの? 真夏多さんはどこだよ?」
「‥‥‥あー、それと‥‥‥今後彼女を誘うのは遠慮してくれるかな? 彼女、大人しいし、困ってるから。‥‥‥それじゃ、失礼!」
雅秋の質問は無視し、目は笑っていないが口許だけはニコリと微笑んで一礼すると、名波索はさっさと出て行った。
名波が扉を閉めた途端、雅秋はゼツガに向かって来た。
「久瀬! 聞いたかよ? 今のなんだよ? あいつ、まさかあいつ真夏多さんの彼氏気取り? 俺、彼女は今フリーだって知ってんだぜ?」
雅秋はイライラをゼツガで晴らそうとしている。
いつもこんな感じだから、ゼツガも扱いには慣れている。
──コイツは甘やかしたらダメ。ハッキリ言ってやんないと、とばっちりを受けかねない。
「はは。甲斐の情報もどうだかな。きっと真夏多さんの彼氏だろうな。あんな美人の真夏多さんに彼氏がいないわけないだろ? 彼女にお似合いなイケてる男子だったじゃん。たぶんさ、甲斐が無理やり誘ったの真夏多さんから聞いてさ、怒ってやって来たんじゃね?」
「‥‥‥久瀬、ひでぇ。俺は告る前に振られたってか?」
「御愁傷様だな。もうちょい節操持てよ」
「‥‥‥俺、帰る」
雅秋は急激にしぼんだ。
ゼツガには予想外の反応だった。雅秋は恐ろしいくらい自信家でポジティブな男だったから。
「まあまあ、そんなにうまく行くわけねーじゃん。生き返れ、甲斐! 時の運ってあんじゃん?」
ゼツガは不本意にも慰めてしまった。
いつもらしからぬ雅秋の作り笑顔がゼツガの目の前にあった。
「久瀬、お前はいい奴だと前々から思ってた。愛してるぜぇ。じゃあ、また明日な!」
雅秋は、手入れの行き届いた髪に広げた指を通しぱさりとさせてからゼツガの肩をポンと叩き、リュックを乱暴にひっつかむと美術室を出て行った。
──それな。そういうこれ見よがしな仕草とか、お前はぜーったい真夏多さんの好きそうなタイプではない。
ゼツガは鋭い観察眼の持ち主だった。
それは絵を描くのには最も必要なことで、研ぎ澄ませようとゼツガが普段から努力している成果とも言えた。
──それにしても、名波って目立ちそうな奴だったけど、今まで全く知らなかったな。2年か3年か? 何組なんだろ?