アンノウン・イン・ワンダーランド ⑥
緑間倫慈の本が開かないと分かったのは、ウツロさんが離れから消えた朝の事だった。
朝食すら後回しにしてウツロさんを探し回り、それを打ち切って集合した和室でのこと。
善助さんが一晩掛けて私たちでも触れるようにはなったけれど、ナサケとトモくんが二人がかりになっても、まるで木彫りの置物であるかのように開くことは無かった。
…のだけど。
「あ、開いた」
「ウッソだろ!?」
私が手に取ると、何故だかアッサリと開いたのだった。
開いたまま善助さんに渡すと、本は勢いよく閉じる。
私が持つと開く。
善助さんに…閉じる。
私が…開く。
善助さんに…キレた! 詳細は全く知らないけれど、なんか凄まじい爆発力のあるお札を貼って…襖が吹き飛ぶレベルの爆風が起こり――本はその場から動きもしなかった。
「どう考えても力で何とかなるものではなかろうに…」
昨日庭を吹き飛ばしたばかりだからか、心太郎さんはそれ以上何も言わなかった。改めて本を持ってみると…やっぱり、私が持った時だけ開いた。
「なーんでシルシの時だけ開くんだろ…俺とトモじゃ何が駄目なんだ?」
私が開いていても、誰かが覗き込めば本は閉じる。まるで、私だけにこの本を読めと言っているかのように。緑間倫慈の本は幼い字から始まり、徐々に大人びていき…そこには、昨晩ウツロさんが話していたように、外の世界への憧れが綴られていた。
海が見たい。山に登りたい。どこまでも続く野原を走って、日が暮れるまで雲を眺めていたい…そんな、ただただ純粋な願いが綴られた頁が続いていた。
この感覚は…少し、分かる。私も、見世物小屋を出るまではずっとコンテナとその周辺しか知らなかったから。いつかどこかへ行ってみたいと、あの時あの場にいた誰もが考えていたことだった。私は、何も知らないから夢にさえ見なかったけど。
「へぇ、君もそういう育ちだったの」
ふわり、と。私の視界を本だけにするように、白銀のカーテンが下りてくる。よく見るとそれは髪の毛のようで、見上げると…そこには、写真で見たのと同じ顔。
…うん、そろそろ言っていいかな。ここ数ヶ月で色々とあったし、そこそこ数奇な人生を送ってきたという自覚はあるのだけど。
ちょっと、もういい加減にしてくれ。
「おめでとう、非凡に見えて実は平凡でしかない君。君は僕の本を読む権利を得たのだよ」
今は亡きはずの緑間倫慈が、私だけに微笑みかけていた。
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例えば、僕はこう思うのだと原稿用紙に書き連ねたとして、それを読んだ者に筆者の全てが伝わらないというのは当たり前だよね。
どんなに正確なデータを積み重ねても、まるっとそのままコピーしたとしても、人の心だとかそういうものは複製できないものなのだよ。
そういうことで、僕は姿かたちこそ同じであるけれど、緑間倫慈の複製品に過ぎない。緑間倫慈が書き残した文字列の隙間から顔を覗かせただけの影法師なのさ。なぜそんな事ができるかって言うと…それは、本来の緑間倫慈が天才だったからだと言う他に無いのだけど。
分かりづらいって?
それじゃあ目を閉じてごらんよ。僕が緑間倫慈の顔をしているから紛らわしいんだ。君が持ってる本が話しかけているのだと考えればいい。緑間倫慈が生前に書き綴ることで育てた本が、こうして意思を持って話しかけているのだと。ほら、そうすれば分かりやすくなる。君は今、本とお喋りする不思議ちゃんになっているのだよ。
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本を閉じても、緑間倫慈の影法師は消えなかった。
なんだろう、なんなんだろう、もう訳が分からない。六人集まってもまだウツロさんの話すら消化しきってないのに、もっと訳の分からない物が出てきた。いや説明はそこそこしてくれたから概念としては理解できたんだけど。なんかもう、脳がこれ以上は無理だと警告している。
しかも何が一番理解できないって、
「で、あくまで俺たちは無視か影ヤロウ」
「やあそれにしても不思議な感覚だね、僕が見える人なんてそうそう出会えなかったもの。君、昔から幽霊とかその類が見えるのかい?」
この人、この場にいる全員に認知されているのに、あくまで私にだけ話しかけている。ただでさえ面倒くさいのに、更に更に面倒くさい!
本を閉じて善助さんに渡すと、影法師さんはそれに引っ張られていく。どうやら本の半径五十センチくらいの範囲にしかいられないらしい…というのはさておき。
「いたたたた、いたっ、痛い痛い痛い! 僕幽霊みたいなものなんだけど、ちょっと、何これ、ねえ、どんな生活してたらこんな体制思いつくの!」
残念ながら、私たち普通の…ちょっと違った人間と違って、術師というのは人ならざる者に対抗する手立てを持っていて…善助さんに至ってはこの前見たプロレス技なんかを試したりもできる。
つまり今どうなっているかと言うと…ついこの間、世界一の座を奪取した究極の技が、緑間倫慈の影法師に繰り出されている。しかも素人による真似事なので、極めて危険性が高い!
人間だったら死んでるだろうな、というところまで絞め上げると、影法師さんは沈黙した。具体的に言うと手足の関節がややおかしい状態で床に転がった。完全に物理で絞め落とされた幽霊は初めて見た。これを機に日記でも始めようか…なんて考えていると、影法師さんは人ならざる者らしくすぐに復活した。
「よーし次行くぞ。こうなりゃ根競べだ」
「ねぇこの包帯君は何なの! 一体どういう教育をしたら人の関節をあんな風にするの!?」
「影法師さん、その人勢い余って骨折るんで。根競べ、ファイト!」
えーいままよ。もうこうなったら善助さんにお任せするしかない。
人ならざる者の相手とか、私のキャパシティ超えてるので。
…ところで、私は鶏肉が好きだ。
というのを伝えると、心太郎さんは、私の歓迎会の日に新鮮な鶏を用意してくれた。唐揚げから刺身まで、ありとあらゆるメニューを用意しようではないか! ということで最高級のものを買ってきてくれたらしい。
どうしてそれを思い出したのかというと…影法師さんの断末魔と鶏のそれがそっくりだったからだ。
「ねぇ! 右腕が動かないのだけど!」
「悪い悪い、そっち見えてねぇから加減が難しいんだわ…てかお前関節の概念あるのか。じゃあ次は――」
「あのね! こういうのって一回終わるごとにどうするか尋ねるべきなんだと思うんだ! 僕色々と制約はあるけどお喋りならできるよ!」
なるほど、これが常盤の術師。例えかつて当主候補であった天才の影法師であろうとも、好き勝手はさせないという気迫を感じる…けれども、本を開かせるのは私でないといけないらしい。影法師さん曰く、生前の緑間倫慈がそのように術を掛けていたから、こればかりはどうしようもないのだという。
「なんでシルシだけなんだよー、俺だって良いじゃん」
「だって、君は僕と全然違う育ち方をしたじゃない」
「シルシだって誰かに書かれたりしてないぞ」
「あぁいや、そういう事じゃなくて…僕、緑間倫慈ではないけど彼が最後に本へ書き込んだ時までは記憶を持っているから。つまり君は狭い部屋に籠ったりしていないじゃないか」
「世界に比べれば狭いぞ」
「うんうんそうだねはいはい」
一部テキトーな返事をしつつも、影法師さんは私以外とも言葉を交わすようになった。やや癖があるというか面倒くさいというか、一筋縄ではいかない相手ではあるけれど…天才と呼ばれた緑間倫慈の本が意思を持って現れた、というのは心強い事だった。
私たちはこれから、連続殺人犯であるウツロさんを探さないといけないのだから。
「うんうん、ウツロくんは確かに、何度も蘇生を繰り返していたよ。彼が僕を拾ってから十年くらいかなぁ。僕の本を持っていても何十回と死んでしまったんだよ…そういえば、僕は生きていた頃に術師としての勉強しかしてなかったけれど、あんな風に死んだら全部元通りになるのは見た事なかったなぁ…最近はどうなの?」
「回復力に長けた者であれば覚えはあるが…不死者や蘇生者の類は、公式な記録には残っておらぬ。今の世でも前例は無い事だ」
「へぇ、そういえば常盤の家は変わった子供をお供にするって銀河くんが言ってたね。彼は彼で凄かったけど…ねぇ、その人って手足を切っても生えてきたリしたのかな。僕そういうの詳しく聞きたいな――」
ドン、という音と共に、善助さんの本がテーブルに叩き付けられる。
「うん…まぁその類の記録は…そうだな、この話が終わったらゆっくりとお聞かせしよう。今は彼の事を優先せねばならぬのでな、事情はまだ分からぬが、あれが持つのは人ならざる力だ。一番の武器である本は取り返したといえ、野放しにすることはできまいて」
「ふぅーん、なんだか怒らせてしまったようだけど。まぁこの話は後でもいいかな、暴力はんたーい」
「それで…影法師殿は彼の持つ力についてはご存知無いと?」
「うんうん、全然知らない。すぐに死んでしまうのが不憫だなぁと思って力を貸してあげただけだよ。彼も僕と似たような生い立ちだから、本を読むことはできたしね…あぁ、でも、もしかしたら緑間倫慈は知ってたかも。僕は知らないから、最後に書き込んだより後の話だと思うのだけれど」
「それは…どういう?」
思わず口を挟むと、影法師さんはテーブルに広げられた資料を指示した。そこにあったのは、昨日私が見たのと同じ、生前の緑間倫慈についての物。
「これねぇ、胡散臭いかもしれないけれど大体合っているよ。緑間倫慈の髪はほら、今僕がやっているように動かすことができたし…でもこれだけは知らない。『世界の真理を見た』ってやつ。これが、本に書き込んだより後に何かがあったって事なのかもね」
「…ただ単に誇張されただけっていうのは?」
「勿論あるさ…でもねぇ、気になるんだ。この『見た』って表現。僕と一緒に死んだ銀河くんも、他の人には見えないものが見えたじゃない。ひょっとすると何か関係があるのかなぁって思ったのさ。少なくとも銀河くんの目は本物だったし、彼、良い人だったから沢山話をしたし」
常盤銀河が持つ、心の弱みを掴む目。今や真偽が定かでないそれを、影法師さんは本物だったと断言した。そして、そんな彼と共に死地へ向かったのならば、緑間倫慈も何かを見ることに成功したのかもしれない…そんなことが可能なのかという疑問には、
「だって、僕は天才だったのだから。飛行機に乗っている間に新しい術式を習得するなんて、簡単にできただろうさ」
そんな、凡人には反論のできない言葉で返されてしまった。
▼
美紀子さん、トモくん、ナサケ、そして私を一括りにして、お子様組と呼ばれることがある。お子様組だけで遊びに行ったりする事もあるし、晩ご飯の支度をみんなで分担したりすることもある。毎日が合宿のようで、騒がしい日々を送っているのだけど…この日は、少し違った。
「僕、見世物小屋って初めて見るよ! 体を柔らかくするために酢を飲んだりするのって本当なのかな」
ウツロさんの件について調べなくてはならない事があるので、帝都の港近くまで行こうとなって…護衛もかねてお子様組が揃って出掛ける事になるまではいつも通りだった…けれど、そこに影法師さんが自分も連れて行けと言い出したのだった。
曰く、そんな面白そうなところに行くんなら連れて行けと。遊びで行くんじゃないといくら言っても言う事は曲げないし、連れて行かないのなら今後事件が解決するまで沈黙してやるとまで言い出す始末。いっそ永遠に黙っていてほしかったけれど、まだまだ彼の協力は必要だ…ということで、渋々、私のバッグに本を入れて連れて行くことになったのだった。
勿論、影法師さんは私たち以外の人には見えないし、声も聞こえない。けれど自由奔放かつ我儘で自分勝手で喧しい影法師さんを連れて行くのはかなり面倒だった。いざという時に頼りにしても、ウツロさんの時のように大惨事を引き起こす可能性があるし。
港町へは地下鉄を経由して電車で向かう。地上に出たところで、帝都の景色が見えたけれど…そこに第三東景タワーが見えて、私は目を奪われた。
視界には他に三ヶ所、同じくらいのタワーが見える。その中でも一番高いのが第三タワー、ウツロさん曰く「神様」がいる場所だった。
勿論、私にはその上に何かがいるなんて見えない。一応聞いてみたけれど、術師の美紀子さんにもその姿は確認できなかった。
電車はそのまま環状線へ切り替わり、私たちは一番海に近い駅で降りた。平日の午後は人通りもまばらで、海側には真新しい建物の港と、その手前にはバラック小屋が所狭しと並んでいる。私が生まれるより前にあった花火町が焼けてできた退廃の町…そう言われている場所だった。
「シルシ、シルシはここで育ったのか?」
「ううん、違うよ。私がいた小屋は移動式だったから、ここ以外も回ったんだと思う。コンテナの外は殆ど見たこと無かったけれど」
ホームと自動改札だけの簡素な駅を出て、私たちは町に降り立った。煙草の吸殻やビールの空き缶が転がる道を歩くと、「写真屋」と看板を掲げたバラック小屋を見つけた。
写真屋は芸能人や著名人の生写真を売っている店だった。店主の男は店中に貼られた商品の中で布団を敷いて、その上に寝転がったまま私たちを出迎えた。
「お嬢ちゃんたち観光かい。学校はどうしたい?」
「今日は俺たち社会科見学なんだぜ。普段は一緒に働いてんだ」
「そうかいそりゃ良かった。アイドルの写真でも買ってくかい? ガキの頃からやってる店でな、古い写真だってごまんとある。芸能人がこっち、貴族のお偉いさん方とかがそっち…この辺りに来たんなら見世物小屋の芸人達も見ていくか」
あれ先代の写真だぜ…とナサケが耳打ちする。指差した方向には、常盤本家の仏壇前で見た顔があった。どういう需要があるのかは知らないけれど、品ぞろえの良さは確からしい。
「あの、見世物小屋について聞きたいことがあるんですけど」
「なんだいここは観光案内所じゃないぜ。せめて一枚でも買ってから聞きな」
「えぇと…じゃあ、手が四本ある男の人の写真、ありますか」
「あぁ人蜘蛛かい。痣さえ無きゃ色男だからな、人気高いんで色々置いてある…本人には内緒だぜ、売り上げの半分寄こせって煩いんだ…幻滅した? まぁ商談は成立してるんで、一枚七百円」
千円札を渡すと、さぁ選べと写真を出される。なるほどお釣りは渡さないつもりらしい…けれど、指摘しても面倒なだけだった。適当に一枚選ぶと、それは見覚えのある、腕が四本あるお兄さんだった。
「やぁそれで何が知りたいんだい。女関係?」
「今どこにいるかを聞きたいんですけど」
「なぁんだそりゃ簡単、この先を真直ぐ行ったら団子屋があって、その三軒隣の長屋。そこで寝泊まりして、夕方からは神社の小屋でショータイム。いや悪いねぇ、こんな簡単な話のために買ってもらって。当店返品は承って――」
肩を叩かれて振り返る。トモくんだった。何かあったのかと尋ねると、一枚の古びた写真を手に持っていて…そこに映っていたのは、ウツロさんだった。
「あの、この人は――」
「あぁそれ、結構金持ちの客が買いに来るんだよなぁ、千円」
「…もっと安いのは?」
「それが最安値…ほいありがとね、それで何だい、お嬢ちゃんスプラッタが好きなのか。何なら他のも見ていくかい?」
なんだろう、何か、とても嫌な予感が…そう思いつつもお願いすると、写真屋は古い箱を取り出した。中に入っていたのは…一面が赤く染まった写真ばかり。
「いやビビらされたねぇ、当時は俺もガキンチョだったんだが、この手品師のリアルさったら無かった。どういう仕掛けか知らないが、目の前で腕やら足やら切り落とされて…でも次の日行ったらまた同じことやってるんだぜ。やっぱりよく出来た偽物だったのかね」
写真屋はそう語ったけれど…私たちには、その手品の仕掛けが分かってしまった気がして。
「ウツロくん、どんなに大怪我しても、生き返ったら元通りだったからね。まぁそういう事もあっただろうさ」
影法師さんの言葉で、私たちの予想は確信に変わった。