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やがて彼らは行間に踊る  作者: 黒色天国
アンノウン・イン・ワンダーランド
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アンノウン・イン・ワンダーランド ⑤

猫は自由気ままで、人間側の都合とかは知ったこっちゃない。

例えば飼い主の右目が見えなくても容赦なく戦利品のゴキブリを投げつけたりだとか、どう見てもカタギの人じゃなくても、四本の腕をキャットタワーの代わりにしたりだとか。

昨日の晩に、公園で何人もの男を殺した彼にゴキゲンでじゃれついたり…そういうのも、まぁ有り得ない事ではないと思う。

いや、有り得ない事ではないと思うんだけど。常盤家の猫が、常盤家の庭で、常盤家に恨みつらみのある人の本を持った人に懐くのは、ちょっとどうなの。人間は古来から猫様の奴隷なのだとは善助さんの弁だけれど、それってあぁいう人にも適用されるの?


「あ、あの…猫さん、どうにかなりませんか…」

「残念ながら…その子ずっと言う事聞かないらしくて」


サバ助は私が常盤家に来たその日からずっとサバ助でありきっと最期までサバ助。そういう猫だから、どうにかしてと言われてもどうにもならない。ただ飽きるのを待ってもらうしか…と思ったけど、驚くほど飽きなかった。


それはもう、無言でいるのが気まずくなるくらいに。


「あのー…お名前を伺っても?」

「な、名前…ウツロです…前にそう呼ばれていたことがあるので…」

「えぇと…ご趣味は…」

「趣味…読書…でしょうか…」


何だこれ。

ウツロと名乗った彼は本を片手に猫に襲われているし、私は縁側でそれを眺めているし…。

何なんだろう、この初夏の昼下がりは。


そろそろ話題も無くなって、その服どこで買ったんですかとか訊きそうになった頃…サバ助は突然どこかへ駆けだした。多分、唐突に飽きたんだと思う。

猫に弄ばれた後のウツロさんは疲弊した様子で、お茶でも出した方が良いんじゃないかと思うくらいだった。

それで…取り敢えず庭の隅に墓を作ることにならなかったのは有難いけど…この人、何しに来たんだろう。格好と持ち物さえ普通なら、ただ単に訪ねて来て猫に絡まれただけの人に見えるんだけど。


「にゃおん」


あ、サバ助戻ってきた。さすがにこれ以上相手をさせるのは申し訳ないし、何とか私で納得してもらおうかと思ったのだけれど…振り返ると、サバ助の後ろには心太郎さんが控えていた。

自身の本を開いて、酷く冷たい目をした心太郎さんが。



ほんの一瞬の事だった。

心太郎さんの本から鞭のようなものが伸びたかと思うと、緑間倫慈の本に向かって一振り。そこから先は見ていない。ナサケに腕を引かれて壁の後ろに隠れると、大きな爆発音と共に衝撃が伝わってくる。

静かになったので覗いてみると…そこには、細かい枝が吹き飛ばされた木とか、曲がった柱だとか…ついさっきとは違って、荒れ果てた庭が広がっていた。


「やぁ参ったな…よもや緑間倫慈がこれ程とは思わなんだ」


心太郎さんの髪は酷く乱れていて、頬には一筋の傷と流れる血。着物も煤だらけに汚れていたけれど、手には二冊の本があった。そのうち一冊を持っていたはずのウツロさんは…庭石に背中を預けて気絶していた。

トモくんが駆け寄って確認する。確かに事件の夜に会った人らしい。


「離れに寝かせておいてくれ。やや誤算があったが手加減はしたのでな、目覚めたら事情を聴かねばなるまい」


心太郎さんは右足を引き摺りながら部屋に戻っていった。途中で緑間倫慈の本を受け取った善助さんが怪訝な顔をしている横を抜けて、ウツロさんを運んだ。

寝顔を覗くと、増々信じられなくなってくる。少し疲れた顔をしたウツロさんは静かに眠っていて、公園や繁華街の事件を引き起こした人とは思えなかった。


「善助の方がよっぽど悪い顔をしている」


うん、少しだけ思ったけど、少しだけね。美紀子さんは私たちが出ると離れに結界を張った…らしい。初めて見たからよく分からないけど。本を取り上げた以上、大したことはできないだろうけど念のための警戒なのだとか。

生きている者は通れない。そう言われた入り口に手を伸ばしてみると、静電気のような僅かな痛みが指先に走った。


「ぶにゃあ」


離れから戻ると、サバ助が何かを咥えてやってきた。ビーズで何かの紋様を模ったあれは…美紀子さんとの友情の証。


「サバ助、これウツロさんが持ってたの?」


尋ねてみても、サバ助は知らんふり。猫は自由気ままで、人間側の都合とかは知ったこっちゃない。



傘が見つからなかったので、その日は風呂敷を被って外に出た。

私の前を行くその人は、雨に濡れながら街の明かりを目指して歩いた。繋いだ手は弱々しくて冷たかったけれど、絶対に離れようとはしなかった。

その手が離れたのは、街で朝日を拝んでから。交番前の交差点で、あの建物に入りなさいと言われた時。雨は既に止んでいて、雲の隙間から光が差し込んでいた。

振り返ると、そこには――


雷の音で目を覚ますと、障子が少し開いていた。

文机に向かっていた頃はサバ助がいたけれど、今はいない。けれどあの障子はサバ助には開けられない。外に出たいと鳴いたのを、通りかかった誰かが開けたのだろうか…それに思い至った時、また雷が鳴る。

影が見えた。

初夏には不似合いなコートを着たその影は、常盤家の誰でもない。名前を呼ぶと、障子がゆっくりと開いた。


「誰、ですか」


けれど、その息は酷く荒くて。表情は見えないけれど、喉元を抑えたその姿は苦しそうで。思わず駆け寄ると、その手は強く拒絶された。


「月が、月が隠れてしまったから、息が苦しくて…神様のお顔が見えないから」


何だろう、何が起こっているんだろうこの人に。どうやって離れを抜けてきたのかも、どうして苦しんでいるのかも分からない。伸ばした手は振り払われてしまったし、言っていることは何もわからないし。水を求められたので台所に走ると、ようやく息だけは落ち着いた。


「本は…私が持っていた本はどこへ行きましたか」

「あれは常盤家の本だから、別の場所で保管されてます。本当はとても危ない物らしいから」

「トキワ…? あの本はこの家の物だったのですね。それなら、お返しできて良かった。あの本が無ければ私は今の何倍も死んでいたでしょうから、いつか持ち主の元にお返ししたかったのです」


何だろう、この人は。言動の善悪が釣り合わないというか、話しているだけなら善人にしか見えないというか。

暗闇に慣れてきた目に映るその姿は、私でも簡単に殺してしまえそうなくらい弱々しくて。


「あの本は…とても、寂しい心が綴られていました。どこか小さな部屋で、外の世界に憧れ続けた…それが私に似ていたから、憐れんで力を貸してくれたのかもしれません」


また雷が鳴る。

一瞬だけ見えた顔は、とても青白かった。



私は、私がどこで生まれたのかを知りません。

私と同じ年の、四人の子供たちと共に、白衣を着た人たちに育てられていました。

教室には四つの個室が隣接していて、私以外の子供はそれぞれの個室で眠り、食事や教養の時間を教室で過ごしました。


私には何もありませんでした。教室の隅で寝泊まりし、食事や勉学も床で済ませるのみです。他の子供たちに新しいものが支給されると、私には使い古しが渡されました。

教室から外に出たことはありません。空調が完備されていたので凍えることはありませんでしたが、夜は冷たい床の上で、大人たちの声を聞きながら眠りました。


子供たちは成長するにつれ力を増し、それを持て余すようになりました。

私だけは殴っても咎められないと知ると、四人の子供たちは私への暴力に執心しました。

私には抵抗する力もありませんでした。成長期に入った子供たちは私の分の食事も取っていたので、体力には大きな差があったのです。


そうして、ある時私は死にました。

力加減を間違えた一人に殴り殺されたのです。

大人たちが何を研究していたのか、どうして私だけが冷遇されていたのか、私は一体誰なのか…何も知らないまま、ただ死にました。


気付くと私は野原を歩いていました。

星の光に照らされた、ススキの生えた野原の、一本道を歩いていました。

何故だか引き返す気にはならなくて、ひたすら歩き続けました。


どれほど歩いた頃でしょうか。道が二手に分かれた場所の中央に、頭が矢印になった人が立っていました。

その人が指し示した方へ進むと、帝都の空に出ました。

神様はそこにいました。第三東景タワーの上に立って、私を優しく出迎えてくださいました。


私はその時、ようやく思い出しました。

空へ帰ってくるまでは忘れてしまっていたけれど、私たちは皆、宙から地上へ降りてくる時に、神様から幸せを願われていたのです。

神様は戻ってきた私の魂を、そっと慰めてくださいました。けれどもそのお顔は悲しげで、私はその時、私の人生が悲惨なものだったと知ったのです。


私は、私の事を愛してくださった唯一の方が悲しんでいるのが、とても心苦しかった。

けれども死んでしまった者にはどうすることもできず、ただ宙へ上っていく事しかできなかったのです。

そんな時です。私に、何か大きくて黒いものが話しかけました。


あぁ、かわいそうな子。

神様はとても悲しんでいるよ。

地上にはお前のような哀れな子供がたくさんいるのだ。神様はそれを悲しんでおられる。

そうだ、お前にやり直しをさせてやろう。

地上に降りられぬ神様の代わりに、お前が子供たちを救うのだ。

さあ地上へお戻り。お前が死んでも、何度だって送り返してやろう。

神様が笑顔になる日まで、いっぱい頑張るんだよ。


次に目覚めた時、私は教室の外に転がっていました。

私を焼いた灰が、風に乗って流れ着いた場所なのでしょう。

私は外の世界で、悪意によって苦しむ子供を探しました。


けれども、私は弱かった。

路地裏で殴られている子供も、川を流されている子供も、救うことができずに死にました。

神様の顔はその度に曇っていて、私だけが何度も生き返りました。


家に帰れないという子供の代わりに、山に入って探していた時の事でした。

私は枯れ井戸に落ちました。一人の力では上ることができず、そのままそこで飢えて死にました。

また目覚めても、私は井戸の中でした。私は何か食べるものが無いかと地面を掘りました。

すると、しばらく掘ったところで、あの本が出てきたのです。



ウツロさんの話は淡々としていたけれど、その内容は凄惨さに満ちていた。思わず息を飲んで聞き入ってしまう程で、その息が苦しげになっているのに気付いた時、彼は既に正気を失っていた。


「あぁ、私は…私は行かねばなりません。神様はまだ嘆いたままで、世界は悲しみに満ちている。きっと今頃、どこかで誰かが泣いているのです」


ギシリ、ギシリと廊下を軋ませて、ウツロさんは玄関へ向かう。

それを引き留めようとしたけれど、私の足を何かが掴む。

文机の下から伸びた黒い手は、私を引き戻そうとする――こんな時に!


そのまま引き摺られて、机の上の巾着を取る。中に入っているのは善助さんのお札だ。力の限りに叩き付けると、手は少しもがいた末に消えていく…けれど。


どんなに走っても、ウツロさんに追いつく事はできなかった。


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