アンノウン・イン・ワンダーランド ④
…あぁ。私は知ってる。
高いところから落ちたり、紅茶の中を泳いだり、キノコを食べたり。
白い薔薇を赤く塗るお話はそう、知っている。
そうかこれは夢物語。全ては木陰で見た夢の話。
目を覚ませばほら、いつも通りの日常が戻ってくるんでしょう。
…いつも?
いつもって、いつだろう。
私、どこまで夢として忘れるのだろう。
夜の公園、昼休みの高校、それとも――
「お怪我はありませんか?」
男は少年と言うには大人びていて。
青年というには幼さがある。
ちょうど私たちのすぐ上くらいだった。
袖や裾にフリルの付いたコートを着て。
真っ白な髪の隙間から、ウサギの耳を模した飾りが伸びていた。
私は彼を大道芸人だと、
思えなかった。
顔中に散った返り血、それを何とも思っていない立ち姿、地面に転がった人間の中身を踏みつける足。
右手に持たれた一冊の本。
夢だ。夢であれ。全部全部夢であれ。
目が覚めたら隣に美紀子さんが寝ている。朝日が差し込む廊下を歩いて台所へ向かうと、先に起きていたナサケとトモくんが、おはようなんて言ってくれて――
何かがひび割れる音。
善助さんの背中越しに覗くと、彼は遥か向こうへ吹き飛ばされていた。
彼は立ち上がらなかった。
代わりに彼の持っていた本が浮かぶと、頁が勝手に捲られていく。
まるで、見えない誰かが、特定の頁を探しているかのように。
そして――ふっと、彼も本も姿を消した。瞬きの間に溶けてしまったかのように。
誰も、何も喋らなかった。
ただ突然三人の命が消えた。飛び散って、白い薔薇を赤く染めた。
悪い夢は、紛れもない現実だった。
▼
ニャアンという声で目を覚ますと、障子の向こうに猫の影があった。
善助さんが高校時代の友人から譲り受けた、曰くも血統書も何もないサバトラ猫。名前をサバ助というこの子は、人間の暮らしに合わせて早寝早起きな猫だった。
枕元の時計を見ると、今は午前四時過ぎ。今日はまだ眠っているけれど、普段は心太郎さんが起きている時間だった。
「ブニャア」
障子を開けると、不満そうに私の膝に乗ってくる。きっと朝ご飯を出せと言っているのだろう。夜中に私と善助さんが帰って来たので、まだみんな寝静まったばかりだった。
台所に行って食器棚の下の段を開けると、猫缶を取り出す。常盤家はいつも誰かしらが家にいるから、猫の食事もその都度用意することになっている。まだ眠たかったけれど、私はサバ助の食事風景を見守ることにした。
実のところ、少しだけホッとしていたりした。
常盤本家に帰ってからも、心配してくれた美紀子さんたちに駆け寄られて、擦りむいた膝を手当てして、その痛みを感じて。あぁこれは現実なのかと確信して。
私は「常盤意」なのだと確認したのだった。
「さて今回の事件は本によるものだと確定したわけだが」
往診に来たお医者様が帰ってから、包帯の増えた善助さんは紙の束を持って和室にやってきた。
少し意外だったけれど、善助さんは公園での一件を通報して、気絶した彼女をその場に放置した。今晩の記憶を簡易的に消して、そのまま地面に転がしただけ。
どうしてそんな事をしたのかと言うと、
「は? 個人的な恨みに決まってんだろ」
曰く、途中まではまぁ事情を聴いてどうにかしようかと考えていたけれど、頭を殴られてその気も失せたと。元々一般人が本や怪異による事件に巻き込まれた時、場合によってはこのような措置を行うらしい。その判断は現場にいる術師に一任されるし、今回の件については心太郎さんが「よし、本の話をしよう」という返答しかしなくなったので、それっきり。私も、これを機に距離を置こうと考えていた。
善助さんが持ってきたのは、常盤家に残された資料を基に作られたデータベースだった。本家に所蔵されていない本とその持ち主に関しての情報が纏められていて、ある程度の情報があればこれを参照して本の特定ができる…そういう事だった。
「常盤家にはいくつか、常盤以外の名前を持つ分家筋が存在してな。大体が常盤とは別の役割を持った独立した家なんだが、偶に術師としての才能を持った奴が生まれる。昔はそれを利用して伸し上がろう、なんて考えた連中もいたらしいが…こいつはそういう輩に利用された人間と言えるな」
一番上のページには、髪の長い青年の写真が貼ってある。生まれつきだという白銀の髪は自由に操ることが可能で、攻守共に優れた術式を操る天才だった彼は、十二歳で自らに与えられた本を文字で埋めた。本来は孫が生まれる頃ようやく一冊が埋まる程度らしいから、これは当時の常盤本家にもかなり衝撃的な事だった。歴代で初めて、分家筋から本家の当主に就任する者が生まれたかもしれないと騒がれたほどに。
けれども、彼は地方の山奥で消息を絶った。彼が派遣された先で発生していた怪事件が解決しないまま、その山一帯は軍によって封鎖された状態になっている。
緑間倫慈の亡骸とその本は、今もその山のどこかに眠っているはずだった。
▼
体育座りで眠っていると、今や遠い昔を思い出す。
まだ私が見世物小屋にいた頃。寝床はコンテナの中で、腕が四本あるお兄さんだとか、火を吹くお兄さんだとか、その他諸々と箪笥の横で、小さくなって眠っていた。
お兄さんたちは意地悪ではなかったけど、別に優しくもなかった。今の私と同じくらいの年で、動物というより化け物として檻に入れられていたのだから、そんなことをしている余裕は無かったのだろう。どうやってここから逃げ出すかとか話し合っていたけれど、そこに私を連れて行くという選択肢は無かった。ただ口止めに食事の取り分を多くしてもらったりしてもらうだけで、いつか見捨てられるのを待っている。そんな毎日だった。
そう、あの日もお兄さんたちは起こしてくれなかった。
雷の音で目を覚ますと、いつも閉まってるコンテナの扉が開いていて、私以外の人は残っていなかった。
もう興行の準備が始まったのかと思って外に出てみると、まだ太陽は昇っていない真夜中。何が何だかよく分からなくて、座長のいるコンテナに行ってみようとしたんだった。
ザア ザア ザア ザア ザア ザア。
滝のような雨の中、少しだけ開いた扉の隙間から明かりが漏れていた。そこを目指して走ると、そこには血だまりと人影が一つ。
ザア ザア ザア ザア ザア ザア。
ザア ザア ザア ザア ザア ザア。
「起きろ起きろー。今日の朝飯はこの前善助様が買ってきたコーンフレークな」
ザア ザア ザア ザア ザア ザ…?
目を開けると、そこにはシリアルの箱を振り回す善助さんがいた。いつの間にか台所で眠り込んでしまったらしくて、体はあちこちが痛んでいる。時刻は午前八時過ぎ。常盤家の朝食にしてはかなり遅い時間帯だった。
「着替えたらさっさと来いよ。牛乳が期限も量もギリなんだ」
「ぶにゃー」
私の隣で寝ていたサバ助に不満を述べられて、善助さんは出て行った。夜中に騒ぎがあったから、私たちは朝の支度を免除されていたんだっけ。ぼんやり思い出しながら部屋に戻ると、ろくに片付いていない荷物が目についた。
「ぶにゃ」
今日のサバ助は不機嫌だった。今度はどうしたのかと振り向くと、昨日私が持っていた鞄の取っ手を鼻先で突いている。よく見ると、そこには千切れた紐が結び付けられていた。
それは美紀子さんが作ってくれたストラップの紐だった。特に何の力も籠っていない普通のストラップだったけど、美紀子さん曰く友情の証だという。よくサバ助のオモチャにされていたけど、大切にすると約束して、実際にそうしていた物だ。もしかしたら、昨日公園に落としてしまったのかもしれない。できれば探しに行きたかったけど、今の状況では難しいから、後で美紀子さんに謝らなくちゃ。
▼
「シルシが危ない目に遭ってストラップが壊れたということは――守ったのは私!」
「いや俺。どう考えても圧倒的に俺」
「良い、良いのだシルシ! また新しいのを作ってシルシを守ってやる!」
「俺だと思うんだけどなァー!?」
美紀子さんは全く怒らなかった。善助さんの抗議には耳を貸さず、新しいビーズと紐を持って来ると、朝食を片付け終えたテーブルに広げ始める。
「丁度新しいデザインを考えていたところだったんだ、私のも新調しよう!」
「おい邪魔、めっちゃ邪魔! 俺今ここで仕事中! ビーズ遊び向こうでやれ!」
「友情はお遊びじゃない!!」
「助手――――!! 助手――――!! こいつどっかに連れてけ! 記念すべき初任務!」
思ってたより雑用だったな、初任務。
もう一つ小さなテーブルを運んでくると、美紀子さんはそちらにお引越し。ビーズを運ぶ時に目に入った資料には、緑間倫慈とその本に関する資料…だと思っていたのだけど、昨日は無かった写真があった。
傍にあった資料には、常盤銀河と名前があった。
「もう三百年も前の話だからな、記録しか残ってねぇんだ。しかもこの頃から当主争いだなんだとやってるもんだから上っ面だけ書き記したものばかり…それでもまぁ概要だけは把握できると思ってな」
資料を読むと、常盤銀河もまた本と共に行方不明となった術師だった…けれど、その場所には見覚えがあった。
「その頃、集落一帯の人間が狂暴化したって事件があってな。そこに派遣されたのが常盤家の当主の候補だった銀河と緑間倫慈だ。銀河は今の俺みたいな立ち位置で、もう一人、当主候補として期待されていた男がいた。その更に上を行く緑間倫慈が現れたんで当主の座は絶望的だったが…実力は確かだったんでこの事件に駆り出されたんだろうな」
「この目隠しは?」
常盤銀河の写真は全て赤い布で目が隠れていた。術師と呼ばれる人がしているのを見ると、透視でもするのかと考えてしまう。
「あー…術師の俺が言うのもなんだがな、胡散臭い話だ。銀河は特殊な眼を持っていたんだと。目が合うと心の弱みを掴まれるだとか…それで普段は目を隠してたんだな」
「…結構疑り深いんですね?」
「実際見たわけじゃないしなぁ。自称占い師が事前調査バッチリしてたとかその辺の類って可能性もあるわけだ。特に記述がされた頃に当主云々で揉めてるとな、やたら誇張されたりするもんだ。この前俺についての資料に『全身焼かれても死ななかった男』とか書いてたんで破り捨てたばっかりだしな。そもそも焼かれてねぇわボケ」
なるほど、そういう真偽を判断しなくてはならないので、今こうして資料を広げているということなのだろう。緑間倫慈についての記述を追ってみても、髪が自由自在に動いただとか、世界の真理が見えただとか、もう滅茶苦茶としか言いようがなかった。世界の真理って何。
でもそんな資料を見ても気付く事はあるもので、全体に目を通し終わった後で、ある疑問が浮かんだ。
結局、緑間倫慈が消息を絶つ原因になった事件とは何だったのだろう。
「トップシークレット。常盤家とか言っても結局はただの貴族でおじゃるから、王族直属の軍隊には従うしかなかろうて…と、当主権限で引っ張り出した資料には書いておる」
新たな紙束を持って来た心太郎さんが、不満そうに頬杖をついた。
「一族から二人も行方知れずにされて、やっぱり怪奇ではありませんでした~で事件から追い出されて。そんな事があったなら、私は氷室の弟の首絞め上げてしまいそうで。あぁ善助の恨み晴らさでおくべきか~」
「具体名出すな縁起でもねぇ! つーかこの頃の軍を動かしてたのって別の家だろ」
「とまぁ冗談はさておき。当主以外の閲覧は禁じられているので要約するとだな、当時の家長殿はこれについて抗議らしい抗議もしなかったのだと。分家にして常盤の頂点に立とうとした緑間倫慈はともかく、銀河は他家からの信頼も厚く人柄も良かったそうで。同じ立場の人間としては信じがたい事だ…が、思い当たることが無いわけでもない。彼は私と違って人から好かれてはいなかった。むしろ銀河の方がずっと慕われていたのだと」
完全には冗談をさて置いてない気がするけど、なるほど話は見えていた。今の代では考えられない事だけど、つまり…緑間倫慈と常盤銀河は、当主によって死地へと向かわされ、そして帰らぬ人になったのではないかと。
そもそも、当主争いって本人たちも諍いに参加するものだと思っていた。心太郎さんたちがこうして暮らしているのは、それこそ最初に生まれたのが心太郎さんだったからなのだろう。細かいことは気にしないというか、世俗に囚われないというか。当主の座とか財産とか、これっぽっちも興味が湧かなかったのだろう。
けれどもそんな人は珍しい方で、この頃の当主は心太郎さんのような人ではなかった。
自分より能力がある分家の人間も、人望のある本家の人間も。目障りでしかなかったのかもしれない。
「そんな理由で殺されちゃあ恨みも積もるわな」
善助さんは自分の本をテーブルに置くと、表紙を指先で叩いた。
「術師の本ってのはな、持ち主の人生が綴られた心そのものなんだと。俺は親父にしごかれるとかそこらだったが、緑間倫慈はずっと八畳の部屋か緑間と常盤の家を行き来するだけで育って、初めて外に出たのが最期の時だ。そんな心を写した本を持ったあの男が何者かは知らねぇが…あの攻撃性を見るに、本に込められたのは相当な恨みかもな」
「緑間はその後、他家と争い殆ど滅亡したけれど…その後相手は何代にも渡って発狂して死んだとな。今や当主一人が残るのみまで追い詰められたが、それも狂気に憑かれたと噂される始末。緑間の恨みは深いとよく言われて――」
「にゃあん」
中庭でサバ助が鳴いた。随分と嬉しそうな声だ。今日は不満ばかりだったけど、何か良いことでもあったのかな。
「あいつまたスズメでも追い回してるんじゃねぇだろうな…ネズミ捕るなら良いんだが無益な殺生されてもな」
サバ助はよく獲物を自慢しに来る猫で、善助さんが読んでる本の上にゴキブリだとか戦利品を乗せて大騒ぎになる。庭の隅にどんどん墓が増えていくので、害虫とかじゃない限りは止めるようにしているのだけど――
「あの、やめて、ください…猫さん、これはオモチャじゃなくって…」
虫とかスズメとか、そういう次元ではなかった。
そこにいたのは、緑間倫慈の本を持ったあの人だった。