アンノウン・イン・ワンダーランド ②
「常磐の当主争い…は、うーん…俺が生まれた時にはもう一番酷いことになってたらしいぜ。トモ、しんたろーたちって何歳だっけ…あー上から三十五、二十五、十七」
野菜を切ったり米を研いだりしている間は雑談タイムになる。と言っても、今日は雑談にしては重たい内容だったけど。
「前当主の長男一家に生まれたしんたろーは常磐の術師の中でもすっげー優秀な奴だったから、次の当主はしんたろーで決まり! って事になってたんだ。そこで次男一家に善助が生まれて、こっちも優秀だったから一族が真っ二つに分かれたんだってさ。俺はよく分かんないけど、遺産だとか家の方針だかで揉めてたのがそこで決定的になったんだって。で、俺とか美紀子が生まれた頃…善助の住んでた家が、化け物の集団に襲われた。不幸な事故だろうって事で片付けられてるけど、しんたろー派の誰かが企てた事だろうって…言ってた。善助の顔とか手とかの包帯もその頃からだって」
善助さんはその後、母方の親戚に引き取られて常盤の姓を捨てた。三人の中で唯一学校に通ったのはそういう理由らしい。
「で、美紀子が生まれたらまた次の派閥ができて…それからまた何年かギスギスしてたんだけど、美紀子と善助本人が当主就任を完全拒否したんで、結局しんたろー派の勝ちって事になったんだ。でももうその頃には皆ウンザリしちゃっててさ、美紀子と善助に声掛けて、俺たち五人でゆっくり暮らそうって話になったんだ」
「心太郎や善助を悪く言う人は嫌い。私がなにかする度に当主は何だとか言う父さんも母さんも、お金の話ばかりの兄さんも、嫌がらせばかりの親戚たちも、みーんな嫌い」
暇を持て余した美紀子さんが台所へ入ってきた。美紀子は強いからタマネギを剥いてやる、そう言って調理に加わった。
「心太郎が一緒に暮らそうと言って、意地悪な人はいなくなった。常盤は嫌いと言っていた善助も帰ってきた。私たちは私たちが好き。蚊帳の外で喧嘩してる人達は嫌い」
周りが揃って争いごとに夢中になっている中、三人はそれをどのように眺めていたのだろう。私にはそういった事が分からないけれど、彼らだけは穏やかに暮らしていけると良い。カラスの声と調理の音だけになった台所で、私はそんなことを考えていた。
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和室にテーブルを広げて、夕食は鍋ごとそこに運ぶ。ナサケとトモくんはカレーの入った鍋を運んで、私はサラダのボウルを持って向かう。片手の空いた私が先行して、襖を開ける…と、そこに知らない人が座っていた。
「んん? 誰あんた」
いや、それはこっちのセリフなんですけども。歳は善助さんと同じくらいだろうか。見知らぬ男は立ち上がると、私とサラダボウルを交互に覗き込んだ。
「へぇー、新しい使用人か何か? 女中さんってやつか…もしかして善助の――」
ギョワー!
ナサケの声だった。振り向くと、そこには大鍋の片方を放り出され慌てて体制を立て直すナサケと、放り出してこちらに駆けてくるトモくんの姿があった。
トモくんが私たちの間に入ると、男は分かりやすく不愉快そうな顔をした。
「兄さん」
続いてやって来たのは麦茶を持った美紀子さんだった。兄さん。なるほど、さっき嫌いだと言っていた美紀子さんのお兄さん。それならトモくんと険悪なのも頷ける。
「やぁ美紀子、久しぶりだなぁー背伸びたか? 今日は折り入って頼みがあって来たんだけどさ、」
「金なら貸さない、帰って。トモとシルシから離れて、絶対触らないで、早く出て行って」
美紀子さんの声には重たい怒りが込められていた。多分、嫌いとか気に食わないとかそんな話ではない。それこそ今にも本を開いて、実の兄であろうと八つ裂きにしてしまいそうな――
「おうコラ由紀雄、テメー妹に金せびりに来るなら事前に電話でも入れろや。お前の分の飯は作ってねぇぞ」
右手に炊飯器、左手に本を持って、善助さんは襖をスパンと足で開けた。
「よー久しぶりじゃねぇか。爺様の葬式以来だから五年ぶりくらいか? 寝小便は治ったかハナタレ由紀雄坊っちゃんよ」
善助さんは口こそ悪くても無闇矢鱈に喧嘩を売ったりしない。という事は、やっぱりこの由紀雄さんという人は少なくとも常盤本家ではそういう扱いなのだろう。
ナサケに促されて、持っていた料理を隣の部屋に下げる。
「あの二人昔っから仲が悪いんだ。大体由紀雄から吹っ掛けてるんだけど、前は先代の遺影引っくり返しそうになったのをしんたろーがギリギリで止めたんだ」
「これ隣の部屋で大丈夫? 台所まで持って帰った方がいい気がしてきた」
カレー、畳に染み込んだら後が大変だし…と思っていたら、ええええいっ! と声が聞こえてきた。襖を少し開いてみると由紀雄さんが善助さんに殴り掛かっている所で、私たちは慌てて美紀子さんとトモくんを後ろに引っ張りに戻った。
善助さんはと言うと、炊飯器を手に下げたままヒラリとその拳を避けた。左手だけで器用に本を開くと、由紀雄さんが動きを止める。
「こっちはこれからガキどもに飯食わせるんだからな、さっさと出てけ。これ以上テメーの面拝んでると牛乳一気して腹下した由紀雄坊っちゃんがどうなったか思い出しちまうだろうがクソッタレ」
うん、大体全部言いましたよね。カレー食べる直前になんて事を。
由紀雄さんもまた常盤家の人間なので、本を開かれたという事はどういう事なのか、それは理解していたのだろう。けれど善助さんに古傷掘り返されて箍が外れたのか、再び殴り掛かる。善助さんはまたもそれを避けると、本の頁に目を落とす。
「…芋虫、童女に問う。汝何者であるかと。童女、答えるに能わず。我、我に在らず。目覚めし時確かに我にあれど――」
由紀雄さんが慌てて逃げ出したのを確認すると、善助さんは本を閉じる。それから炊飯器をテーブルに置くと、他のも持ってこいと指示を出す。
「善助さん、今の」
「しっかり勉強しろよ。金に困ったりテキトー言われただけで尻尾巻いて逃げ出したりするようになるからな」
善助さんの傍らに置いてある本の表紙には、「不思議の国のアリス」と書かれていた。
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一冊の本がここにある。
僕が書いた本さ。
僕は常盤の生まれではなかったけど、まぁ近い血筋の中に生まれた。
それでね、僕は常盤の術師よりずっと優秀だった。
素質があると分かった日からね、ずっと小さな部屋にいて、外に出るのは、鍛錬か偉い人に会う日だけ。
たくさんの本を読んだよ。
術式に関する本も、物語も、図鑑も、学術書も、とにかく沢山。
だって、生きている人間の言葉なんて、何も面白くなかったからね。
いつも同じさ。
僕が常盤の当主になったらとか、そういう話。
何も、何も、面白い話は聞かせてくれなかったんだよ。
たくさんの文字を書いたよ。
僕の本が、大人になるより先に埋まってしまうくらいにね。
家の人はそれをとても褒め称えたけど、僕はそういうのはどうでもよかった。
最初の本を埋めたら、好きな紙に好きなだけ、書きたいと思っていたお話を書けるからね。
そうして書き連ねたお話を纏めて、本にして、誰か知らない人に読んでもらうのさ。
僕はそれが将来の夢だったんだよ。
でも、ある時、僕は死んだ。
呆気ない終わりだった。
僕が特別であったから、それが特別な人たちには許せなかった。
それだけの話。
たった、それだけ。
僕のお話は、ここでおしまい。
この本を持っていた僕の話はね。
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繁華街で風俗店が襲撃されたけど、私たちの下校時間には何も変わりは無かった。
待ち合わせ場所に行くと、そこにはナサケの姿があった。トモくんは美紀子さんと一緒に修行というのについて行ってしまったので、今日の買い出しは私たち二人でする事になっていた。
「今日の晩御飯何にしよっかなー。美紀子とトモが帰ってきたら何食べたいって言うか…あ、いた」
道を歩いていると、路上で座禅を組んでいる美紀子さんと、その横で読書しているトモくんを見つけた。昨日の夜、晩御飯の最中に「私は今夜から修行に出てくる。兄さん程度の人間に心を乱された。これは修行不足である」と言って食べ終わるや否や出て行ったきりだった。ちなみに修行というのは美紀子さん独自のもので、その場にいた善助さんも、後から帰ってきた心太郎さんも、その目的や内容など知らなかった。
「…美紀子さん」
声を掛けてみる。掛けていいのかは分からないけど。
「…シルシの声が聞こえた気がする!
まだ雑念がある!」
「無い無い、本当に聞こえてるだけだから。シルシ、ここにいるよ」
手を重ねると、美紀子さんはパチッと目を開けた。
「シルシだ! シルシがいる! どうしてこんな所まで!?」
「夕飯の買い物だよ、美紀子さん。今日は美紀子さんのリクエスト聞いていいって心太郎さんが言ってたよ。何がいい? あとこの辺りで事件があったからサッサと帰ってくるようにとも」
襲撃されたという風俗店は、この二本向こうの通りにある。もしもの時は美紀子さんも術師だし、トモくんも付いているけど、やっぱり心配なのは変わらなかった。普段から危なっかしい所があるし。
「うぅ、しかし帰る訳にはいかない! 私の心は乱れている、このままではシルシに嫌われてしまう!」
「いや、嫌わないよ。心の乱れとかよく分かんないし」
美紀子さんの視界の外から、トモくんのカンペ。『もっと言って』。
「シルシはたった一人の友達だ、家族だ! 他も友達だし家族だけど違う! 一緒に風呂に入ったり布団を並べたりしてくれない! そんな事してくれるのはシルシだけだ!」
「そりゃ曲がりなりにも年頃の女子なので…私にとっても、美紀子さんは初めての友達だし初めての家族だよ。一晩中外に出ていたり、こんな所に座ってるのは心配」
『いいぞその調子』『才能あるぞ』。才能って何ですかトモくん。
「うぐぐ…でも私は兄さんが嫌いだ。お金と名誉の話しかしない父さんと母さんも、お互い意地悪ばっかりの親戚だって嫌いだ。嫌っている私だって嫌いだ。こんなに嫌ってばかりに私など、きっとシルシにも嫌われる」
「誰にだって嫌いなものはあるよ。私もほら、道に落ちてる唾とか嫌いだし。みんながそうなんだから、美紀子さんだけ嫌いになったりなんてしないよ。ほら、一緒に買い物行って帰ろう。今日はお風呂もお布団も一緒」
まるで小さな子供のように、本気で泣き出した美紀子さんを抱き留める。うん、周囲からの視線がすごいけど、まぁ気にしない。『よくやった』『この女殺し』…トモくんは私を何だと思ってるの。
「シルシィ…美紀子はオムライスが食べたい…トモの料理も好きだけど、シルシのオムライスも大好きだ…ケチャップで みきこ って書いてくれるのが特に良い、あったかい感じがする。こう、胸のここがキュンとする」
「うん、じゃあ晩御飯はオムライスにしよう。今日もタマネギ剥くの手伝ってくれたら嬉しいな」
「…何してんだお前ら」
振り返ると、そこには善助さんが一人。そちらこそこんな所で何を? と問うと、野暮用とだけ返された。
「年頃の娘共が道端で座り込んでんじゃねぇよ全く…ほら立った立った、あんよが上手あんよが上手」
私たちを無理矢理立たせると、ナサケから買い物メモを引ったくってスーパーへ連行していく。
よし、次は最初から善助さんを呼んで来よう。私は固く決心した。
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「で、今日は珍しくお仕事だったわけだが」
晩御飯の後片付けが終わった頃、善助さんが切り出した。なんか、全員知ってる前提で話し始めたけど、私と美紀子さん、それに付いて行ったトモくんは初耳だった。つまり半分は初耳。
「そんな事言ってたっけ」
追加。今日の昼頃に聞いたらしいけどすっかり忘れていたナサケ。つまり彼から伝わるはずだった情報は丸っと抜け落ちた事になる。そして過半数が、善助さんが仕事に励んでいたことを知らない。
「なんか好きなシリーズの新刊でも出たのかと思ってた。何だっけ、あのミステリーの…」
「そりゃ明後日だ馬鹿。今日の用件はほらそこ、テレビでやってんだろ。繁華街の殺人事件」
ローカルニュースは朝とそんなに変わらない内容を流している。風俗店で男性三人が殺害された事件で、警察は身元を調べており云々。
「事件が起きたのが昨日の夜中、発覚したのが今日の明け方、で、俺の所に連絡が来たのが昼前」
「えっと…なんで善助さんに連絡が?」
分からない事があったら遠慮なく聞きましょう、が常盤家のモットーなので、話の途中だけど手を上げる。
「それはほら、うち術師の一族でおじゃるから。特に人知を超えるような事件が起きたら、こちら側の出番であるかもしれぬからと逐一報告がされるようになっておる。半分以上はただの異常犯罪だけれど、その中に怪異やら本やらが混じっているから、その時は我らの出番ということなのだよ」
「そういう事。そんでそこへ出向くのは大抵俺だ。で、三人の死体と検視結果を見てきたんだがな…まだ公表されてない情報だ。外には漏らすなよ」
心太郎さんが一歩寄ると、皆それに倣って耳を近づける。もちろん私も。
「一人は毒殺。どうやらこの辺には生息してない毒キノコをガツガツと貪り食ったらしい。一人は溺死。まるで風呂桶に溜められた紅茶の中で溺れたような状況だった。最後の一人は滅茶苦茶だ。ビルの二階の室内で、何百メートルも落ちてきたように潰れて人の形をしてなかった」
それは。
怪事件、とかそういう言葉で片づけてはいけないものではないだろうか。殺人事件とか、そういった事すら素人の私でも、これはおかしいと思うような話だった。
もし善助さんが探偵で、一つ一つ別の事件だと言っていたならそれなりに推測はできるけれど、三つ一気に、探偵ではなく術師の善助さんが話したとなれば余計に奇妙な話になってくる。
「現時点では怪異か本かは分からねぇけどな、とにかく『こちら側』の何かが関わってる可能性が高い。それもうちの近所でだ。そしてここには昔から霊だの何だのにちょっかい掛けられやすいというお悩み持ちがいる」
「え」
私、割と話についていくのがやっとという感じで聞いていたのだけど。もしや私が引き寄せたとかそういう話になるのだろうか。いやいや、私はせいぜいラップ音とかポルターガイストしか引き寄せない。さすがに怪死事件なんてものは…
「これまでは運良く引き寄せなかった、という可能性もあるでござるよ?」
「う」
「…てかそもそもお前のせいだとかそういう話じゃねぇ。今から引き寄せかねないって話だ。俺らが目の届く場所で引き寄せるならその場でぶっ飛ばすから構わねぇが、問題は学校に行ったりしてる時だ」
「寝るときと風呂は私と一緒にいればいい!」
「よし美紀子がシルシLOVEなのは分かったから黙ってろ。そしてお前はこれを持ってろ」
善助さんがポケットから取り出したのは…あれはもしや、国家公務員と貴族階級以上の人間にしか使用が許可されていないという――携帯電話。
…携帯電話。
「なんかあったらすぐ連絡。それとこっちは札。電話なんてしてる場合じゃねえって時はこいつを怪異だの何だのに向かってぶん投げろ。当たればそれでいい。投げ易く丸めたって良いぞ」
むしろ後者が一番に出てくると思ってた。そして性能から垣間見える製作者の性格からして、おそらく善助さん特製の物なのだろう。もはや紙屑の如きお札をフルスイングする姿はこの場で一番似合う。もしかしてその辺り、わざわざ改良を加えたりでもしたのだろうか。
携帯電話とお札を巾着に入れて、明日からはポケットに入れることにする。やや嵩張るけど、女子のポケットが膨らんでいるからって何か言う人はいない。男子が言えばヒソヒソ言われるのがオチだ。
「ところで善助、その後何か情報はなかったか? 怪異ならともかく、本ならその場に残っていたり持ち出したり持ち込んだりした者がいるはずだが」
「あぁ…それが目撃者はゼロだってよ。分かりやすく血まみれの奴だとか本を持って歩いていたとか出てくれりゃあ楽だったんだが――」
ササッ。
今度はトモくんが挙手する。何か質問だろうか、と彼がペンを走らせるのを待っていると――
『顔に血の付いた男なら会った』
▼
それは、美紀子さんが路上で座禅を組んでいた真夜中の事。
誰も歩かなくなった通りで、美紀子さんは瞑想を、トモくんは居眠りをしながら夜を過ごしていた。
トモくんが眠り始めてからしばらく経った頃、正確な時刻は午前二時くらい。一人の男が、こちらに向かって歩いてくる。
男は少年と言うには大人びていて、青年というには幼さがある、ちょうど私たちのすぐ上くらいだった。袖や裾にフリルの付いたコートを着て、真っ白な髪の隙間からウサギの耳を模した飾りが伸びていた。
トモくんは、彼を大道芸人か何かだと思った。近くには繁華街があるから、そこで興行を終えて帰るところなのだろう。そう解釈した。その顔に返り血が飛んでいるのを見つけるまでは。
迷わず二人の間に立った。昨日の夕方、私と由紀雄さんの間に割って入ったように。けれども相手はその意味を理解していなかったらしい。少し不思議そうに首を傾げて、そして尋ねた。
「あなたたちは、誰かの悪意でここにいますか?」
彼の意図は分からなかった。けれど、自分の後ろから美紀子さんが答えた。
「否、否、これは私の意志である――消えよ雑念! えぇーい!」
あ、これ分かってないなとトモくんは悟った。多分、幻聴とかだと思ってる。
「…そうですか。それは良かった」
もしかしてお前も分かってないな――そう思ったけれど、引き留めはしなかった。
男はそのまま、夜の街へ消えていった。
現状③まで書き終わっていて、このお話は多分⑤か⑥か⑦で終わります。
重度の花粉症と私がどのくらい戦えるかが問題。