アジブローズの庵 其の四
雨と雷鳴はまだ止む気配もない様子。ただでさえ夜間は気温が低いのに、降雨のせいで、さらに冷え込みが厳しくなっていた。加えて、強い風。タルモラ村の「西の雄鶏亭」から走り詰めだというのに、青年たちの体温は冷気に奪われ、歯はガタガタと音を立てることを止めない。
それでも山道に入ると周囲に生えたアカマツやモミが、無象に延ばした幹や枝葉で落ちる大粒の雨を遮ろうとしてくれる。おかげで鼓膜を圧迫するような強烈な雨音からは解放された。
したが細く先の尖った針状の葉では、全ての雨露をしのぐことは叶わない。風に揺さぶられる度に、針葉に留まった露玉が主従めがけ落ちてくる。
横殴りの雨と冷気、追い打ちを掛ける強風。さらに追撃の不安を振り払うべく、主従の脚はさらに早く進むようになった。
宿屋の主人の話では、ボーマルブの山裾沿いに王都方面へ街道を進めば、左手に拡がるのがアジブローズが庵を結ぶロロスの森なのだと。――となれば、タルモラ村を出て山道を引き返し、今一度街道へと戻らねばならない。数時間前に来た道をまた戻る事になるのか、とリューゼは不満を漏らさずにはいられなかった。
村から山中を縫って街道へと続く一本道は、馬車が一台通れるほどには整備されている。とはいえここも大雨の影響で土は泥と化し、滑りやすくなっていた。足を取られれば、斜面を滑り落ちることにもなりかねない。落下を防止する為の柵も、危険を示す標識も、闇を照らす外灯もないのだ。
夜目が利くとはいえ、雨は感覚を鈍らせる。どうにも心許ない。萎れる草葉も、腹を空かせたオオカミの影に見えてくる。
だからといって、灯りを点すことも出来なかった。他になにも人工物のない山中では、遠くからでも灯りは目立つ。闇の中にぼんやりと動く光があれば、追っ手に居場所を示しているようなものである。見つかる危険を避ける為には、慎重にならざるを得ない。
上空で、また稲光が光った。雷鳴は不安を煽る。そんな中、セオリエは主人の異変に気がついた。リューゼの深い瑠璃色の瞳に、妖しい金の光が浮かんでは消え――。
「妖術士たちが動いている」
これまでずっと走り続けていた青年たちの脚が止まる。
北天のような瑠璃色の瞳は、じっと遠くの闇を探っていた。浮かぶ金の光の鋭さは、雷鳴にも似ている。只人には見えぬものが、主人の目には映るということをセオリエは知っている。『ロサの青い目』は見たいを念えば、千里の闇も滝の雨も、その眼には障害とならないのだろう。それを共有できぬことはわかっていても、乳兄弟の胸には複雑な想いが拡がる。
――が、すぐに気持ちを切り替えた。
「公子」
「ああ、わかっている。もう『眼』は閉じた」
敵の動向をも探れる異質の眼は便利ではあるが、諸刃の剣。竜の血の息吹は闇を振るわす。揺動は波紋を広げる。闇に染まりしもの共はそれに聡い。わずかな端緒にも、たぐり寄せられるように波紋の中心へ、彼の元へと集まってくる。殺意を抱いて。
だから相手にこちらの存在を感じ取らせぬうちに隠れてしまうのが良しと云うのは、リューゼも心得ていた。
「ざっと見たところ、動き出したのはまだ雑魚ばかりだ。雨と雷に難儀しているのは、奴らも同様」
妖術士たちが動き出した以上、タルモラ村から出来るだけ遠ざからねばならない。わずかな時間とはいえ村には滞在した痕跡が残っているから、そこから足跡を追けられてしまえば、すぐに見つかってしまう。
「それと……。やはり賞金は諦めきれないらしいな」
「あれ、ですね」
振り返れば、谷の方から登ってくる小さな灯りが数炬。まだ存在は遠いが、灯の揺れ方から、大人数人がたいまつを持って走っているのではと考えられる。今は豆粒ほどの大きさの灯だが、樹木の間を縫って、同じ道をこちらへ近づいてきている。
道は一本。谷の方向にはタルモラ村。となれば、灯の主は宿で襲ってきた奴らである可能性が高い。まやかしの効果はなかったようだ。
「この大雨と雷雨の中を危険を承知で追い掛けてくるほど、金貨500マールの首が欲しいのか」
「その金額なら十分な理由だと思いますよ」
ロサの政変後、天候は不安定で冷夏が続いていた。不作続きで生活向きに困った農民や収穫を上げられなかった荘園の農奴たちの間では、借財の返済と口減らしのため、娘が11~12歳になると親が手を引いて娼館に売り込みに行くという事例が増えた。
農奴や農民に限らず、職人たちも仕事が無ければ、遅からず同じような状況に追い込まれる。商人や貴族とて、破産すれば同じことだ。だが身を切る思いをしても、対価は金貨10枚も出れば上々なのだとも。
若い娘が身売りをするという話は、今に始まったことではない。史上最初の女性の職業は娼婦だと云われているくらいだし、娼館に行けばそういった身の上話は掃いて捨てるほどある。女たちから寝物語に何度か聞かされたことがあるので、リューゼも知らぬ話ではない。
だからといって同情ぐらいは出来ても、大人しく首を差し出してやる理由もないと眉を寄せる。
「ふん。そんな安価い金額で狩られてたまるか!」
「金額如何でなく、公子がここで命を落とされてはならないのです」
主人の不満に乳兄弟が軽く笑った。すると、それが気に入らないのか。リューゼが声を荒げる。
「それに彼奴らは哀れな父親には見えなかったぞ」
「さしずめ食い詰めた傭兵崩れの悪党、といったところでしょう。金のためなら、なんでもやりかねない」
余計に悪いですねと、穏やかな性格のセオリエでさえ苦笑いを堪えきれない。
「急ぎましょう、公子」
促す乳兄弟に、
「セオ。不可思議と思わないか。我らより先に宿を出たとはいえ、あのまじない師、どこへ消えた?」
リューゼが唇を歪ませると、その疑問にセオリエは動きを止めた。
「そうですね。街道へ戻るにはこの道しかないと宿屋の主人は言っていました」
「ロロスの森はその先にある。先に庵に戻って我らを待つ気ならば、この道を辿っているはずだ。覚えているだろう、あのまじない師の歩き方。この天候の中、あの足取りで進むのは、たとえ歩き慣れた道でも難儀だと思わないか」
乳兄弟の青い目が動く。
奇人で、村人にも胡乱げに見られているので、顔を出すのはまれだとも。それゆえ頼みごとがあるときは、村人の方がこっそり庵へ通うのだ――とも宿屋の主人は言っていた。
「そんな老人だ、村に留まっている可能性は低い。だが庵へ戻るにしても、豪雨の中、あの歩きぶりでこの道を辿っているとしたら、そろそろ追いつく頃だろう。なのに影も見えないし、形跡もない」
「形跡は、雨で消されたのではないのですか?」
「いや。この道を通った気配が感じられない。気配もなにも、あの身体でこの天候の中を移動するのは無謀だろう」
リューゼはそう言うのだが、無謀ぶりならば自分たちも変わらない。
そのことはさておき、『創始の竜』の目が行方を追えない事の方が問題であろう。山中には村人が知らぬ別の道があるのだろうか。険しい獣道でも、あの不気味なまじない師ならば、難なく移動しそうな気もする。たとえ足取りが奇妙だとしても、見た目によらぬ俊敏さがあった。それとも常人には追えぬ道を通ったか。
セオリエはもっと奇妙なことに気が付いた。
「……そういえば、あの老人。衣服が濡れていませんでしたね」
「ああ。あの時は雨が降り出す前から、宿屋に滞在していたのだと思っていた。私たちがあの村に立ち寄るのが分かっていた素振りだったからな」
「ええ。『西の雄鶏亭』で待っていれば、私たちがやって来る――それも夢占のお告げだったのでしょう。やはり前もって村まで来て、どこかで頃合いを見計らっていたのでは?」
どうだろうかと、リューゼが怪訝そうな表情をする。
宿屋の主人は、老人は突然「西の雄鶏亭」に現われたと言った。リューゼと騒ぎを起こすまで、老人の存在には気付かなかったそうだ。
アジブローズは奇抜な振る舞いをする男だから、村に姿を現わせば諍いに巻き込まれ騒ぎを大きくし、終いには村人たちの怒りを買い怪我をする羽目になる。嫌われ者ゆえ、姿を現わせばすぐに噂になるから目立たぬ筈はない。それなのに主人もおかみも、女中たちも、老人がいつ宿屋に現われたのか知らなかった。
だが村のいずこかに潜伏していたとは考えづらいし、隠れ場所を提供する親切な村人がいるとは思えないとも言った。困った時は擦り寄ってくるのに、平時は邪険な扱いをする村人を、アジブローズも嫌っているからだ。
「ですが。老人は小柄でした。その気になれば納屋の隅や外塀の影、広場の大木の枝の上にだって潜んでいられたのでは?」
「ならば、ずぶ濡れになっていたはずだろう。雨は我らが宿屋へ到着する前から、激しく降っていた。雨が降り出す前から宿屋にいたのならば、誰かの目に止まったはずだ」
「なにをお考えです、公子」
彼の考えの先を読んだセオリエが、露骨に苦い顔をした。上空では、また雷が轟く。
アジブローズという老人はまじない師だと名乗ったが、まじないや占いの傍ら、密かに妖術も使うのかもしれないとリューゼは疑っていた。だから霊験あらたかだが、疎まれる。
妖術士ならば闇の恩恵に授かり、常人には立ち入ることの出来ない空間を移動することが出来る。その道を通って来た可能性も考えられるのだ。
「宿屋の主人も口が重かったからな。タルモラ村では周知の事実。だが秘しておきたい大事。そういう裏があるのかもしれんぞ、セオ」
妖術は闇の属性であり、闇神ゼインの庇護下にあった。そのゼイン神の復活を望むのが、リューゼの宿敵である闇公バック。
妖術使いの全てが闇公と繋がりがあるとは限らないが、老人の素性が一層怪しくなったのは否めない。
「こうなると、あの老人の夢占のお告げ――忠告とやらが、ますます気になる」
「公子は『君子危うきに近寄らず』と言う言葉をお忘れですか」
セオリエがやんわりと引き留めようとするのだが、
「ふん。今のわたしは『危うきに近寄らずば、なにも得られない』のだろう」
キッパリと否定が出来ず、乳兄弟は言葉を濁す。悲しいが、事実だ。困ったセオリエが薄青色の瞳を泳がせた木立の先に、動く灯りの集団が映った。豆粒ほどに小さく揺れていた灯が、先刻よりふたまわりは大きく見える。
――距離が縮まっている。
「公子!」
進もうとするセオリエを、今度はリューゼが引き留めた。
「駄目だ、――来る。その先のアカマツの影で、今、闇の口が開くぞ」
驚きを抑えつつ、セオリエは目を凝らし、指摘された場所を確認しようとする。
すると行く手にあるひときわ大きなアカマツの太い幹の向こうで、ゆらゆらと夜の暗闇色がさざ波のように振動していた。不安定な律動が、雨を押しのけ、闇を揺すっている。金髪の青年の背中に、厭な寒気が走った。
揺れの中心にぽこりと水疱のようなものが湧き出て、弾け、虚無が口を開けようとしていた。
前には「闇の口」、後ろには賞金を狙った追撃者。
リューゼとセオリエ、どうする!?