アジブローズの庵 其の三
刺さるような激しさで落ちてくる大粒の雨をものともせず、リューゼとセオリエは「西の雄鶏亭」を飛び出した。
階下の客に異変を知られることを避けたかったので、二階の窓からの脱出である。窓枠を飛び越えたふたつの影は、そのまま激しい雨にかき消された。
* * *
主従は、村外れまで一気に駆け抜けようとしていた。あたりは濃く深い闇と激しく降り続く雨の中で、異様な静けさの中に沈んでいる。ぬかるんだ田舎道は容赦なく泥を跳ね上げ、ふたりの脚に絡みつき外套に歪な染みを作るが、そんなことを構ってはいられない。汚れた深靴は、鉛のように重かった。
程なく山道とタルモラ村の境界に建てられた番屋へと行き着く。番屋脇の門の扉は日没までは解放されていたが、夜間は招かれざる侵入者を食い止めるべく閉まっている。
大人の背丈ほどの木製の扉には閂が架けられ、簡単な魔除けのまじないも施されていた。自衛のためだろう。大陸中にひろがった動乱や異変の余波は、山中の小さな村にまで及んでいるらしい。
が、リューゼの目から見ればこれらは子供だましに過ぎず、なんの防備にもなっていない。古寂びた扉は、破城槌どころか大斧を二、三度振り下ろせば簡単に破壊できそうであったし、まじないも拙いもので、なにをどう倣ったのかほころびだらけである。
その上、門の番人は雷雨の中を通行する者などいないと見積もったか、閂とまじないの効果を疑っていないのか、詰め所の中で堂々と舟を漕いでいる。これでは守番にはならんと思いつつも、呼び止められ身分や用向きの確認だのと、面倒な応答で足止めを喰うことは避けられそうだ。
それでもなにかの拍子に目覚めないとも限らない。見咎められると不都合なので、守番には眠りのまじないをかけておく。目深に被った帽布の中でリューゼがこっそりほくそ笑むと、天では雷鳴が光った。
そして閂に手を掛けようと腕を伸ばしかけたところを、セオリエに止められた。
雨音に消され乳兄弟の声は聞き取れない。が、首を横に振っている。彼の右手が、つと番屋脇の柵を指差す。よくよく見れば、一カ所、柵が壊れ乗り越えられそうな場所がある。
そこを越えようというのか。目で問いかければ、そうだとうなずく。
用心深い彼のこと、追っ手が掛ったとき門扉を開けた形跡がなければ、村から出ていないと考えるかもしれない。少しでも村から離れるための、時間を稼ぐ手立てを立てておこうというのだろう。セオリエの慎重である性質には、これまで何度も助けられているから、リューゼもすぐに納得した。
なによりここでグズグズしていては、捕まる危険が増すより先に、弱まることを知らない雨に押し潰されかねない。撥水加工をした帽巾や外套の中にも染み入り始めている。冷えは体温を奪い、筋肉を硬くする。水を吸って重くなった黒髪が重く額や頬に張り付き、リューゼの不快感は増すばかり。
鬱陶しいと左手で髪を持ち上げれば、人差し指に三つ首竜の指輪が鈍く光る。紋章に刻まれた竜の真ん中の頭が、うっすらと目を開け、億劫そうに目蓋を閉じた。
なにを言いたいのかと瑠璃色の眼光が睨みつけても、竜は答えない。不機嫌を煽るようだ。
横に視線を移せば、主人と同じく濡れた髪を掻き上げていたセオリエだが、冷静な青い瞳は後方――今来た道を振り返り様子を窺っていた。
一瞬、天が輝き、周囲は昼間のような明るさを取り戻す。照らし出された景色には、後を付いて来るような人影は見当たらない。宿で彼らを襲った輩は追撃を諦めたのだろうか。
その代わり、雷鳴がふたりを急かす。
「行くぞ」
万が一を考え、追っ手の目を誤魔化すに超したことはない。主従は門扉はに手を着けず、番屋裏の柵を飛び越える。そのまま真っ暗い闇が口を拡げたような山道に駆け込んでいった。