アジブローズの庵 其の二
部屋の外には、怪しき気配……。
強い殺意だ。
いち早く察知したリューゼの視線が、部屋の入り口へと移動した。
木製の粗末なドアをじっと見つめる彼の瑠璃色の瞳に、変化が起こる。異変を探る瞳に、細かな金色の閃光が浮かんでは消えゆく。瑠璃の青は深みを増し黒色に近くなり、底知れぬ深海のような闇色の深さと、浮かぶ金色との対比が鮮やかになった。
激しく感情が高まると現れる公子の変貌なのだが、何度見てもこれには驚かされるとセオリエが息を呑む。
ロサの王族の血脈である公子には、常人とは異なる能力があった。「ロサの青い目」とも称され、創始よりの血を引く王家の人々に、稀に現れる特徴でもあった。
それを太古の竜の血のしるしと呼ぶ者もいる。尊い血が受け継ぐ能力を発揮する時、感情が激昂した時などにみられる、摩訶不思議な瞳の変化。恐怖が常に人々の頭を押さえつけていたこの時代にあっては、それは十分に畏怖の対象になり得たのだ。
異形なりし者――神々と暗黒の竜の血を引く血脈の末と。
ふたりは静かに長剣に手を伸ばした。ヒタリヒタリと気配が近づく。追われる者の習慣で、こうした空気には恐ろしく敏感になっていた。
耳を澄まし、感覚を尖らせる。気配を殺し慎重に忍び寄る影は、ひとつふたつではない。4~5人はいるだろうか。
主従は顔を見合わせると、微かにうなずいた。
セオリエが燭光を消せば、部屋は暗闇へと変わる。窓の外では、ますます雨の勢いが激しくなり、遠雷の音が聞こえ始めた。
気配はドアのすぐ手前で動きを止め、息をひそめている。激しい雨音が好まざる客の足音を誤魔化しても、気配は消し去れなかった。
「ロサの青い目」の前では。
リューゼとセオリエは音を起てぬようドアの両脇へと移動し、剣の柄に手を掛けたまま息を潜める。ほぼ同時に、ドアが外側から音も無く押し開かれた。
複数の黒い影が、部屋に滑り込む。最初に忍び込んだ影がベッドの毛布を剥ぎ、中が空なのを確認すると、大きく首を横に振り、残りの影にそれを伝えた。つかさず別の影が窓に近寄ると、打ち付ける雨をものともせず、窓を開け、逃げた形跡がないのを確認した。
雷鳴が鳴る。暗い部屋に五つの人影が浮かび上がった。
標的の消息を見失い、焦りを感じたか。侵入者たちが部屋の中を物色しようと動き出す前に、後方にいた影がふたつ、ぐらりと揺れ床に倒れ込んだ。異変に気付いた残りの者が反撃に出ようと武器に手を伸ばす前に、またふたつ、影が倒れる。
残された影は、剣を振り上げようとする間もなく、床に引き倒され、手足を抑えつけられていた。
「誰に頼まれた」
侵入者を抑えつけるリューゼが、低い声でそう言った。しかし答えは無い。さらに強い力で、捕えた賊の腕を捩じ上げる。くぐもった声が漏れたが、それでもなお答える様子はない。
「アスコーから来たのか?」
リューゼの瞳、瑠璃色に浮かぶ金色が鮮やかにきらめく。ロサの太古の竜の血が躍動を始める。竜が鎌首をもたげるかのごとく、公子の表情に残忍さの影が走った。膝の下に組み敷いた侵入者の鼻先すれすれに、勢いよく長剣を突き立てる。
「もう一度、訊こう。誰に頼まれた」
「……あ……あんたの、あんたの懐と……そ、その指輪……しょ賞金首の……うぐっ」
長剣に映った公子の顔を見て、賊は言葉を失った。そこには金色に光る、まがまがしい瞳が映し出されていたからだ。あらぬものを見てしまった賊の身体はガタガタと震えだす。それから情けない悲鳴を上げて、失神した。
「公子、お怪我は」
「あるわけない」
リューゼは立ち上がり、長剣を鞘に収める。
「アスコーからの刺客ですか?」
潜めた声でセオリエが問うた。ロサの王都アスコーからの――と云えば、闇公が放った追っ手。闇の妖術士たちであるが、
「いや。『闇』の匂いはしていない。闇公の手の刺客ならば、もっとしぶといだろう。こいつらはアジブローズとわれらの会話を漏れ聞き、欲を出したならず者といった風情だろう」
乳兄弟を見る公子の瑠璃の瞳から、金のきらめきが消えていた。
漏れ聞いた会話の内容から、彼らの素性を勘ぐり首に掛けられた懸賞金を狙ったのか。ふたりの剣の腕を見誤り、多勢に無勢と襲い掛かって金目のものを巻き上げようとでも思ったのか。
アビナ家の生き残りを付け狙うは、決して闇の妖術士たちだけではないということを主従は思い出した。
「どちらにしても、この宿で睡眠を取ることが出来なくなったことは確かだな」
アジブローズとの会話を小耳に挟んだのが、この者たちだけとは限らない。なにより今の騒ぎを敏い妖術士たちが気付かぬはずはない。「ロサの青い瞳」は、暗闇の向こう側で妖術士たちが動くのを見た。闇公の命を受け、彼らの生命を付け狙う妖術士たちがやって来る。
宿屋を出なければならないだろう。
リューゼが煩わしそうに前髪を掻き上げると、すでに忠実な乳兄弟の手には、マントとわずかな旅道具が収められた合切袋が用意されていた。
外は、土砂降りの雨が降っている。雨脚は激しさを増し続け、先刻開け放たれた窓からは、強い風と矢のような激しさで雨が吹き込んでいる。
再びの雷鳴。
左手の人差し指、銀の指輪に刻まれた三つ首竜がもそりと動いた。
騒ぎを知らぬ階下からは、相も変わらず、喧騒が聞こえてきた。陽気な音楽と、料理の盛られた食器の重なる音。怒鳴り合う声。大きな杯になみなみと注がれた酒をあおる掛け声と嬌声。不満と恐怖を忘れ去ろうと繰り広げられる空々しい乱痴気騒ぎ――。
粗悪な酒で酔える者たちを、リューゼ・リ・アビナはうらやましく思った。
降りしきる雨の中、宿屋を出た彼らの行く先は……。
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