アジブローズの庵 其の一
まじない師の言葉が心から離れないリューゼは……。
簡単な夕食を終えると、ふたりの若い旅人たちは部屋へと戻っていった。
当時の宿屋は、みな相部屋だ。ひとつの部屋に簡素なベッドがいくつか並び、ベッドの上が、旅人のその日の安息の空間となる。
ひとりにひとつのベッドがある場合は、まだ上等だ。ひどい場合は、狭いベッドにふたりで休まなければならないこともある。体格の良い男同士であれば、窮屈極まりない。ベッドがあればまだマシで、厩で馬と一緒に眠ったこともあれば、床にマントを敷いて雑魚寝ということもあった。
それでも雨風や夜露がしのげれば、幸運なのである。旅人達の多くは、闇の中を徘徊する野党や獣におびえながら野宿をし、朝の光を待つことがほとんどだった。
それは、このふたりの青年たちとて例外ではない。今夜とて「西の雄鶏亭」にたどり着くことが出来なかったら、悪天候の中なんとか雨をしのげる場所を探し、寒さに震えながら野宿をしていた筈なのである。
激しい雨は一向に弱まる気配も見せず、気分を憂鬱にさせた。階下の酒場からはまだ喧騒が聞こえる。今晩の客のほとんどは、この長い夜を騒いで明かすつもりのようだ。
まだ夜は長い。リューゼはベッドに腰掛けると、窓の外を見やった。ろうそくに照らされた公子の顔は、不機嫌が張り付いてしまったようだ。表情は硬く、一言も発さない。
「天気が回復すれば良いのですが。合流が遅くなれば、グレイ殿がご心配なさるでしょう」
濡れたマントの手入れをしながら、セオリエが心配そうに眉を寄せた。
グレイというのは元ロサ近衛騎士団の第3師団の師団長であり、幼少の公子の守り役でもあった老騎士のことである。先の事変の際、王宮に滞在していた幼いリューゼを救い出し、闇公の追っ手から匿い育て上げたのは、この人の功績であった。
現在の彼があるのは、この人の尽力あればこそなのだが、尊敬し感謝すると共に、多少疎ましく思うことも増えてきたからだ。
若い頃は豪胆で名を馳せたこの人も、年と共に心配性が顔を出すようになった。公子の安否を第一に思ってくれるのはうれしくもありがたいのだが、いつまでも子ども扱いされているようで煙たくもある。
同時に――。政変から11年、今だ再興はおろか故郷へ帰還すらできない身に、不甲斐なさを責め立てられているような気もして、彼の憂鬱を増長させていた。
「心配させておけ。遅れたとて、ひと月もふた月も待たせる訳ではないだろう。この雨では、動きようがない」
「雨ばかりではありません。寄り道の件です」
セオリエが言った。察しの良いこの乳兄弟には、隠し事が難しい。
「あなたの心は、あのまじない師の言葉に揺れている。あの夢占いの続きを確かめたくて仕方がないのでしょう」
心情を言い当てられたリューゼは、ばつが悪いのか、視線を窓の外に飛ばした。
「セオは知りたくないのか? 私の将来を」
「あなたの将来はわかっています。今更何をお聞きになりたいのですか?」
平然と聞き返すセオリエの顔が、憎らしく思えた。理性が勝るこの乳兄弟とて、大地女神を祭るグウィデオン大神殿の神女の言葉を、本気で信じているらしい。
慈悲深き女神カヤトが神聖なる乙女に語りかけたという、「三つ首竜の王が黄金のロサに現れる」と云う神託を。
それも公子は面白くない。あからさまに嫌な顔をしてみせた。
* * *
「あのまじない師、信用に足る人物かどうかも分かりませんし、評判は芳しくありませんね」
ふたりの青年は食事を終えると、「西の雄鶏亭」の主人に、アジブローズなる人物について探りを入れていた。そこで聞いた話では、かのまじない師は奇人だという。
確かにあの風体では、疎ましがられるだろうことは想像に難くない。暗い時代には迷信や誤った風潮が蔓延し、人はそれに踊らされる。その犠牲になるのは、いつも社会に隅に追いやられた少数派の者たちだ。
「騙り……だと思うか」
「はい。――と言いたいところなのですが。それにしては、知りすぎている」
「ふふん、これのことか」
公子は左の人差し指にはめられた、三つ首竜の指輪を見つめた。今は竜も大人しく尾を丸め、動く気配はなかった。
「何が不安なのですか」
セオリエが気遣い、問い掛けた。
「……知らないとでも。
ここ数日、あなたはあまり眠っておられぬのでしょう。浅い眠りの淵を行ったり来たりしては、びくりと身体を震わせて起きてしまわれる。何度かそんなことを繰り返しては、朝を迎えるのが常となっておりますからね」
公子の鼻が白む。
「それを知っているということは、お前も私の不眠に付き合っているということになるのだが……」
「はい。しかし、私もそろそろ辛くなって参りました。お付き合いさせていただくのは、この辺で終わりにさせていただきたいのです」
昼間は追手の足音に神経を尖らせながら、道無き道を急ぎ進むのである。鍛えた肉体を持つ若い彼らとて、疲労が溜まっていった。
「……できることなら、私とて深い眠りにありつきたいが、眠ろうとすると邪魔が入る。身体が睡眠を欲しているというのに、意識は退けようとする。あと2日もこんな状態が続けば、私は闇公の魔手に落ちる前に死の女神の腕に抱かれるだろうよ」
半ば本気でリューゼは答えた。唇が、皮肉に歪む。
「縁起でもないことをおっしゃらないでください。そうなる前に打開策を講じましょう」
苦い笑みを浮かべながら、優しい乳兄弟は思案を始めていた。
* * *
その後、渋々セオリエは庵への訪問を承知した。
アジブローズは奇行の目立つ男だが、まじないは効き目あらたかであり、占いも良くするという。むしろ当たりすぎて、恐ろしがられている程だと宿屋の主人は声を潜めてふたりに告げた。あの顔色は、嘘とは思えない。
彼は思う。滅多に人前に姿を現すことのないまじない師が、わざわざ里に下り、公子に夢占の予言を告げに来た。彼らがこの宿に滞在したのは、突然の大雨により足止めを余儀なくされたという偶然だ。それをまじない師は、必然として訪ねて来たのだ。
おそらくあの男には、彼らがここに足止めされることが分かっていたのだろう。だからやって来たのだ。夢占の代価を受け取りに――。
それだけの霊力があるのならば、公子の不眠の元凶も探り当てることが出来るかもしれないと、セオリエは一縷ののぞみをかける事としたのだった。
そんな時である。部屋の外で、異様な気が揺れ動くのを感じたのは――。
部屋の外から漂う不穏な空気の正体は。
闇公の追っ手か、それとも……!?