まじない師の夢占 其の三 ☆
その男は極度に腰が曲がっており、歩くというよりは、四つん這いで前進してくると表現したほうが似合いだった。尻を高く付き上げ、前のめりになった上半身を、広げた両手でなんとか均衡を取っているといった具合だ。足元も弱っているだろう齢に見えたが、以外にも足取りは速い。
土足で踏み荒らされた床と同じ顔色で、しかも深いしわの溝が顔面を埋め尽くしていたので、まるでクルミの固い殻に目と鼻と口が刻まれているように見えた。周囲を気にしながら、床を這うように進んでくる。
まるでイモリのようだと、ぶぜんとした面持ちのままリューゼは思っていた。
疲れていた上に、追われる身でもあるので、極力他人とはかかわりたくはない。そもそもこの老人が追っ手ではないという証もない。リューゼは鋭い目線を投げ牽制したが、黄色い歯をむき出しにして笑うこの老人は通用しなかったらしい。
老人はするりと隣の椅子に腰を下ろすと、彼とセオリエの顔を覗き込む。追い払おうと、左手を振った時だった。
「ヒャッ、ヒャッ、ヒャッ……」
肩を震わせながら、不気味な声を上げた。老人は笑ったらしい。妖気は感じられないが、得体が知れない。警戒したセオリエが、老人に声をかけた。
「申し訳ありませんが、私たちは疲れているので、お話の相手は致しかねますよ」
涼やかな凛とした声が、はっきりとした拒絶を伝える。淀みも訛りもない、美しい発音だった。身をやつしていても、どこかの宮廷で一流の教育を受けていたことが察せられる言葉遣いだ。
「どうか、お引き取りを」
そう言って、老人の前に銅貨を差し出した。それを持って、向こうに行ってくれという合図だった。
老人は銅貨を素早く掴むと、ほつれて埃まみれのローブの内側にしまい込む。そしてまた、奇妙な笑い声を立てた。それと共に、乾いた胡桃の殻のような頭が上下する。
どうやら移動する気はなさそうだ。
闇公の放った追っ手とは違うようだが、リューゼが不快感を募らせていた。その様子を横目で見たセオリエは、老人を追い払うべく首を振った。鋭い一瞥を投げかける。
落ち着いた物腰と速い判断、加えて広い額に薄い青い瞳の端正な顔立ちが、この青年をより冷淡に見せかけた。
老人はセオリエの意図に気付いたが、
「お前さんではないさ。わしが用があるのは、こっち、こっちのお人だわな」
そう言って、再びリューゼの顔を覗き込む。眉間にしわを寄せた不機嫌な顔を面白そうに眺めていたが、不意に彼の左手をつかむと、人差し指にはめられた指輪に触れようとした。
「なにをする」
低い怒りの声に、老人は驚いて飛び上がる。小狡そうな卑屈な目が、リューゼをおずおずと見上げる。
「ヒャ、ヒャッ……。これじゃよ、これ。夢のお告げに、出てきたわいな。間違いないわな、このお人だわさ」
老人は、嬉しそうに指輪を眺めた。引き攣った悲鳴にも似た感嘆の声を上げ、指輪に刻まれた文様に見入る老人は気味悪く、そればかりか背筋が震えるような嫌悪感を引き起こされる。リューゼは老人を疎ましく思った。
すると老人は凝りもせず、また指輪に手を伸ばそうとする。セオリエが制しようとしたが、その間も無くリューゼに手首を掴まれると思い切り引き倒された。老人は派手に床にたたきつけられ、倒れた椅子が大きな音を立て転がった。
周囲の目が、いっせいにこちらに集中する。
「いけません」
セオリエがたしなめる。リューゼはそれ以上の行為に及ばなかったが、射殺しそうな眼差しで老人を見据えた。
「指輪に触れるな」
怒りを押し殺した声が、老人を震え上がらせた。腰を抜かした老人が這いつくばってその場を離れようともがき始めると、客たちは急に興味を失ったように、酒場は再び喧騒にあふれ元の賑わいに満ちた。
「公子、いけませんよ。せっかく身をやつしていても、そんな態度を示されては、一度に注目を浴びてしまします。今少し自重してくださらないと、何にもなりません」
「うるさい」
リューゼはセオリエを睨んだが、彼は動ずることもない。アビナの公子の瑠璃色の瞳を恐れないのは、乳兄弟のこの青年くらいであろう。幼い頃より兄とも慕い、あの政変を共に逃れ、苦楽を分かち合ってきたこの青年の言葉だけは、頑固な公子も素直に受け入れようとする。
「あの老人が指輪に触れようとしたからだ。見ろ、竜が怒っているぞ」
そう言って乳兄弟の目の前に左手を差し出した。
「そうですか」
にこりと笑ったセオリエが指輪に視線を移すと、公子の左手人差し指にはめられた銀の指輪は鈍く光り、指輪の住人である三つ首竜は鎌首をもたげていた。
この指輪はロサ王家の外戚であるアビナ家の当主の証で、アビナ家の紋章である三つ首竜が彫り込まれているのだが、不思議なことにその竜は時折蠢く。
鈍く光る銀の指輪の中で、存在を主張するように、身体を動かす。
魔道の都を治め、創世の神の血を引く一族が所有する指輪らしく、常人には計り知れない力が働いているらしい。しかし閉じ込められた空間で声にならない叫びを上げる竜の様は、公子自身のような気がして、心優しい乳兄弟は哀しげな瞳で三つ首竜を見つめていた。
その時である。
「――重大な秘密を覗いてしまったわい……」
小声だが、妙に耳に残る声が聞こえた。リューゼとセオリエは、不意打ちに身を固くする。テーブルの下から、血走った目が覗いている。
よく見れば、先程の老人だ。いつの間にか、戻ってきたらしい。
「わしは忠告に来たんじゃわい。こっちのお人の、運命を覗いてしもうた。なんとも恐ろしい、哀れな運命さ。
……いやさ、これを運命という言葉で片付けてええんじゃろうかのう。
なぁに、知らぬなら知らぬでよいさ。何も知らぬまま、おのが運命とやらを嘆き、呪えばええんじゃから。さりとて,この御仁はそれが出来んじゃろ。
出来んわな、そんなこと、この竜が許さんからの。このお人の内側にあるものが、今も悔しくて、暴れ出したくて沸々しとる。ヒャ、ヒャ、ヒャッ。当たっとるじゃろ。
見たんじゃよ、夢で。こっちのお人の将来と、それに関わるあれこれをなぁ……」
隣の席に座る男が、老人の話に興味を示し始めていた。聞き耳をたてられては厄介と、セオリエが長舌に割り込んだ。
「妙なことをおっしゃいますね。われらはここで出会ったばかり。あなたが私たちのことをご存じとは思えませんが」
「ふん。お前さまのことは知らんさ。でも、こっちのお人のことは知っとるぞえ」
そう言って、リューゼを見上げる。
「指輪に座するは、三つの首を持つ翼竜。竜を紋章にしとるお家は、ソル大陸広しといえど、ロサの――――」
ふたりの青年は、同時に脇に置いた長剣に手を掛けた。
一瞬にして、空気が凍りつく。
老人は大袈裟に驚き、身をちぢこませる。
「ヒャ、ヒャ、ヒャアァァ……。
そう警戒せんでくれ。わしは、まじない師。アジブローズと云う。夢占のお告げを、伝えに来ただけじゃぞ。じゃがな、さっきの銅貨の代価はここまでじゃ」
震えるアジブローズは、後ずさりを繰り返し、そろりそろりと離れて行く。
リューゼが、瑠璃色の瞳を上げた。アジブローズを見据え、口元をゆがませる。
「続きを聞くには、どうすればよい」
公子の一言に驚いたセオリエが、慌てて首を横に振る。
「わしの庵に、おいでなさるとよい。そのほうが、そちらの都合もよかろうて。ヒャーヒャヒャヒャ……」
引き攣った笑い声を残し、来た時と同じように床を這いずるようにして、アジブローズは去って行った。
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次回より「アジブローズの庵」の章に入ります。お楽しみに。
*2019/12/9 挿し絵を追加しました。