まじない師の夢占 其の一
空気を切り裂くような咆哮が聴こえた。
頭上を、何かが横切る。
針葉樹林の上空、灰色の曇天を小さな影が飛行している。
リューゼ・リ・アビナは思わず足を止め、天を仰いだ。
甲走った鳴き声は、恐らく暗黒から召喚された妖鳥のものであろう。魔術によってつながれた道を通りてやって来た異形の種族。鷹に似た、獰猛で俊敏な、ホルグと呼ばれる魔獣。妖術士が使い魔に使役する。
ホルグは、目が良い。飛行しながら、野ねずみをも見つけ出す。今のホルグも、当然、彼等の姿を発見したであろう。咆哮は、その合図か。
ならば危険だ。使い魔が見た情景は、それ等の眼を通じて、主人も透視しているであろう――からだ。
残念ながら今のリューゼの立場では、その主人が味方である確率は低い。
(……誰が、追って来た。闇公の配下か、それとも……)
答えは出ない。
だが、心がざわめく。嫌な感覚が頭をかすめる。どうしたものか、この感覚は外さない。
視界の片隅に、左の人差し指にはめている銀の指輪が見えた。三つ首竜の紋章。これこそが彼の命を危うくしている元凶であり、また今日まで生き抜いてきた矜持でもあった。
静かに息を吐く。
耳を澄ませ、辺りに注意を払う。空気は冷たいが、異様さはない。敵が近くに潜んでいる危険は低いが、用心は怠らない。妖術士が敵では、いつ背後に魔の手が忍び寄るか分からないのだ。
「公子……」
傍らを歩んでいたもうひとりの青年が、低く声を掛ける。同じ事を考えていたのであろう、目が合うとその青年は無言で頷く。
ふたりは足を早めた。
闇公の魔手は、この地にまで伸びてきているのか――――。
公子と呼ばれた青年は、伸びた前髪を払った。逃れても、逃れても、闇公は追いかけて来る。彼の命を絶つまで、終わることのない追跡は続くのだろう。
ふたりの青年は、あたりの空気の流れを読みながら、木々の間を抜けて行く。身のこなしは俊敏で、隙が無い。大股で足元を邪魔する太くうねる根を難なく超え、この森の先、人も動物も近づかないという沼のほとりを目指していた。
どんより重い鉛色の空が、音を立てて動き始めている。
再び、遠くで、ホルグの咆哮が聞こえた。
* * *
前を進む均整のとれた長身の青年、うなじで束ねた漆黒の長い髪と、強い光を放つ瑠璃色の瞳が印象的な彼の名はリューゼ・リ・アビナと云う。
士官先を求め旅する放浪剣士のいでたちで、腰には長剣を帯びていた。
旅に費やした月日が長いのは、使い込まれ傷みが目立つ外套や深靴といった粗末な身なりや、汗と埃に塗れた横顔に疲労感が色濃く打ち出されていることからも察せられた。加えるに、騎乗する馬も所有していない。
いかがしたことか――。しかし外套の下の武具は手入れが行き届き、足取りは力強かった。
近年、大陸の勢力分布図は大きく書き直された。中原の雄ロサ王国の政変劇に始まった動乱の嵐は、周辺の国々にも吹き荒れ、いまだ混乱は収まりきってはいない。いや、新たな戦の火種はそこかしこに燻り続けている。加えて、闇から召喚された妖獣や魔道を操る術士たちの跋扈。一触即発の危機は、人々の生活を脅かし続けていた。
それゆえであろうか。主君や土地を失った騎士が新たな君主を求め、または身分を捨て金で仕事を選ぶ傭兵や、はたまた卑しい盗賊にまで身を落とし、各地を渡り歩く姿が多くみられるようになった。彼もその中のひとりと云った風情である。
だが、あまたの放浪者たちとは、どこか違っていた。寄る辺なき身の上なれど、そこに埋没してしまうには、あまりにも強烈な輝きを秘めていた。そこにいるだけで、静かだが強い、底知れぬ力を感じることができた。
整った顔立ちは高貴な血筋を感じさせ、その立ち振る舞いもどことなく尊大さを隠し切れない。かといって圧倒的な輝きに満ちているのではなく、拗ねたような憂いを纏い、形の無い圧迫感と不安に苛だっているかのようだ。
公子の出自にまつわる逸話を踏まえて、ギース公エミリアン・デデュアはこう評したと云う。
ねじ伏せられ無理矢理大地に縛り付けられた竜が、なにかに苦しみ、それでも飛ぶべき空を求め、声なき咆哮を繰り返しているかに見える――と。
* * *
ソル大陸にある大小11の国々。大陸の中部シルド平原を南北に走る、グルザール山脈の北東に位置する王国ロサ。
竜の紋章を掲げる王家が治めるこの国が、彼の故国であった。
歴史は古く、王家は創世の神と創造の竜の血脈といわれる。白い石造りの都アスコーを治め、ソル大陸全土に今も強い影響力を及ぼす。近年の天候不良で領地の荒廃は目に余るものがあるが、統治者の力は強大で、周囲の小国を従え、屈強な軍事力と底知れぬ魔道の力でその支配権を今も拡大しつつある。
深紅に双頭竜と荊棘があしらわれたロサの旗印は、シルド平原では恐怖を意味していた。
左手人差し指の指輪が示すとおり、リューゼはこのロサの王家に連なるものだが、今は流浪の身である。14年前この国で起こった政変で、彼は国を追われた。親も、血族も皆殺しにされ、家臣の機転でようやく災難を逃れたアビナ家の生き残りだ。
家臣らの尽力で、政変の首謀者たちの執拗な追っ手をかわし、今日まで生き延びてきた。
されど、幼い心に焼き付いた悲惨な記憶と、人目を忍び屈辱に耐えた逃亡者としての生活は、彼の横顔に暗い影を落としていた。
そして現在――リューゼ・リ・アビナは深い怨念と静かな野心を深層に燻らせつつ、麻のように乱れたソル大陸を旅している。
親や血族の仇、ロサ荒廃の元凶でもある闇公――バックの追っ手を振り切りつつ……。