ロロスの森 其の二 ☆
――魔導師ヴィラ。
この幽鬼のような男、闇公バックの家臣である。強力な妖力を操る魔道士として、また現在はロサ王国の政務を執る奉行衆のひとりとして名を馳せる。闇公がもっとも信頼し、側に置く侍臣でもあった。
その者がアスコーの王城から遠く離れたロロスの森へ現われたのである。リューゼ、セオリエ主従が警戒心を強くしたとて無理は無い。
――ゆえに。
「おまえが自ら足を運ぶとは、どういう風の吹き回しだ?」
リューゼ・リ・アビナは目を細めた。
するとヴィラは小さく身体を揺すった。頬骨の上に薄く乗った皮膚を震わせながら、喉の奥でくぐもった声を漏らす。魔道士の薄気味悪い笑い方を、リューゼは不快だと感じた。憮然と腕組みをする。
だが魔導師はそんなことは一向に構わぬ様子で、アビナ家の公子に対し、大袈裟に宮廷風の礼を執ってみせた。漆黒の、たっぷりと布地を使った長衣と袍が揺れる。
宝石の縫い取りや刺繍などの装飾は無いとは云え、羊毛を紡ぎ染色し、布一枚を織り上げ仕立てる手間を考えれば、それだけでも大層贅沢な衣裳だ。
両脇に黒い羽根飾りの付いた高さのある円柱形の帽子を被り、頭部から肩の辺りまで覆う布が痩けた青白い顔を縁取っていた。黒色で統一されたいでたちは、より一層不気味に映る。
さらに不穏さを増長させるのは、その眼の色。血の色の赤が、まがまがしく光る。
魔導師ヴィラが動くたび、言葉を発するたびに、ひんやりとした死の匂いが流れ出てくるようにも感じられた。
「あなた様は闇公のお血筋。ひいては創世の神と創造の竜の血脈に連なるお方。尊きロサの王族ではござりませぬか。このような魔導師の出迎えでは不服ではございましょうが、ご一緒にロサの王城までお出でいただけませぬかな」
「無礼なことを言う」
険しい形相のリューゼが大剣を引き抜く前に、すでに剣を構えていたセオリエがふたりの間に入る。
「否、と申し上げたらいかがなさいますか。魔導師ヴィラ」
「それゆえ、お願い致しております。それにお越しいただくのは、アビナの公子殿おひとりで結構。従者はいりませぬよ」
そう言って手を払った。臣従は下がっていろ、という意味だろう。
だが魔導師の返答に憤ったのはリューゼであった。冷静を保っていたセオリエが静止する暇もなく、剣身は鞘から抜かれていた。24寸の幅広の両刃の剣は、陽の届かぬ薄暗い森の中でも白銀に光る。
その切先は、真っ直ぐ魔導師へと向けられていた。
イラスト:管澤捻様
「公子、なりません!」
なおも押しとどめようとする乳兄弟に、黒髪の公子は口の端を不適に吊り上げた。
「短慮はせぬ。だがこの男の言い分がいちいち癇に障る。
そも、この男があの日あの時、スフェーン城の大広間に『闇の口』を開けなければ、我らは現在もロサの王城に、マーエ女王の御前にいた筈であろう。違うか、闇の魔導師よ」
リューゼの脳裏に浮かび上がる、悪夢の光景。
荘厳なロサの王宮、その光溢れる大広間に突如現われた「闇の口」。本来ならば、決して現われることのないはずの場所にそれが出現したのは、この魔導師がその魔力をもって強引に闇の道を開いたからであった。
その「闇の口」を通り災厄はやって来た。
「左様でありましたかな。
しかし公子様、マーエ女王はすでに泉下の人でございますぞ。現在のロサ王国の主は闇公バック様であらせられる。今もって亡き女王に忠誠を誓われるのならば、闇公にも等しくお心を開かれればよろしいかと」
「断る!」
リューゼの即答にも、魔導師は動じなかった。むしろ予期していたのだろう。
「頑ななお方だ。しかし、現在は一介の剣士ほどの身分しかないあなた様が、どうやってロサの王城に辿り着けるのか。女王の仇を討ちたいなどとお考えなのでありましょうが、それは無謀というもの。ならば闇公の誘いに乗ってみてはいかがなものですかな」
「ほう。それでのこのこと誘いに乗れば、私の首には荒縄が掛けられ、スフェーン城の城門からこれ見よがしに吊されるという訳か。大層な賞金を掛け、暗殺を企むのは何奴なのだ。私が死ねば、闇公の野望を挫こうと企むグヴィデオンの鼻を明かせるとでも云うか」
魔導師はかかと笑う。
「グウィデオン……大地女神を奉る大神殿の祭司長殿か。あの、小賢しいお方ですな。すでに女神の時代は暮れようとしているのを、お認めになりませぬ」
「当然だろう。あれは、『大地女神の娘』だ。威光に陰りが差そうとも、陽が没するとは思わぬだろう」
「これは意見が合いましたな」
ヴィラが一歩近づく。が、突きつけたリューゼの剣がその歩みを止めた。
「あなた様も、祭司長殿同様に気難しいお方だ。
されど覚えておかれるがよい。時は流れている、その流れは止めることはできませぬぞ」
「さぁて。バックごときに創始の黒い竜を、闇神ゼインを復活させられるなどと本気で考えているのか? 魔導師ヴィラよ」
「できぬ……とお思いか?」
さらに、また一歩、魔導師が間を詰めた。鼻先に迫るリューゼの剣先など、まるで問題にはしていないというように。魔導師の赤い眼が詰め寄る。剣を構えるリューゼの右手に痺れが走った。
途端、蝋燭の火が消えるように感覚が失せる。
刹那に、彼の身体を闇が包んでいた。凍り付くような冷たい空間に、いつの間にか連れ込まれていた。黒い袍を拡げた魔導師ヴィラが薄ら笑う。
漆黒の中で、魔導師の白い顔と両の手だけが浮き上がって見える。
縦長の細い瞳孔が、リューゼの手足を縛り付けた。
頭の中に、赤い色が散った。
(あの時の、血の色か!?)
奥歯を噛み締め麻痺した感覚を取り戻そうとすると、彼の左手人差し指の指輪に刻まれた、三つ首の竜が蠢いているのを感じた。アビナ家の守護でもある三つ首の竜が、ゆっくりと頭をもたげようとしている。
家紋の装飾額縁の中で、前足を踏ん張り、胴体を持ち上げ、鋭いかぎ爪の付いた羽根を震わしている。
「――くぅ!」
リューゼ・リ・アビナの瑠璃色の目から、金色の炎が上がった。
魔導師ヴィラが飛び退く。
「公子!」
乳兄弟の叫ぶ声でリューゼは我に返った。心配そうなセオリエの青い瞳を見て、術が解けたのを知る。
だが血の気を失いかけた身体は、いつものようには動かなかった。咄嗟に足を踏ん張るのだが、強張った上半身がぐらりと揺れた。
体勢を崩す主人を庇いながら、今度はセオリエが前に出て、魔導師へと剣先を向ける。なおも攻撃を仕掛けようというのか、ヴィラが枯れ枝のような細い指を動かしたとき――、
上空で甲高い鳴き声がした。
「ホルグか」
魔導師ヴィラが眉を跳ね上げた。
ホルグは闇から呼び寄せられた妖鳥の種族の名であるが、かの声の主は魔導師が召喚して手なずけた魔獣ではないらしい。魔導師の反応からすると、別の妖術士の使い魔なのであろう。
しかも背の高い針葉樹林のさらに上、曇天の空から、地上の彼ら目掛けまっすぐに滑空して来たではないか。
翼をすぼめて急降下してきたホルグは、太く逞しい後肢で、果敢にも魔導師ヴィラに襲いかかる。だが魔導師も袍の大きな袖を振り、妖鳥の一撃を退けた。
一旦上昇したホルグは空中で弧を描き、再び魔導師へと突撃する。
それを引きつけるだけ引きつけたところで、信じられぬほどの素早さで、魔導師は身を躱してみせた。その流れで左手をしならせ「闇の口」を開く。
「邪魔が入りましたな。また、お目にかかりましょうぞ」
そう言うが早いか、ヴィラの身体はぽっかりと空いた黒い空間へと吸い込まれていった。
静けさの戻ったロロスの森に残されたのは、青年ふたりと一匹の魔獣。
ホルグは彼らの2間先に舞い降りた。翼を折りたたんでいるとはいえ、体長は40寸はある猛禽だ。魔導師ヴィラにはあれほど獰猛に襲いかかったというのに、青年たちに対して凶暴な素振りは見せなかった。
その代わり、頭を振り、なにか合図を送っているようにも見えた。
「このホルグ――。
公子、ご覧ください。目から頬にかけての特徴的なヒゲ状班。あの斑紋に見覚えがあります。この妖鳥、メレルカではないでしょうか」
「ナミュリスの使い魔の、か?」
するとホルグが羽ばたいた。そのまま上昇すると、リューゼたちの頭上を三度旋回し、北西の方向へと飛んでいく。
「着いて来いといっているように見えます」
「ああ。それに、なにか……胸騒ぎがする。セオ、急ぐぞ」
ふたりの青年は、妖鳥の後を追って走り出していた。
それから200間もカラマツの森を走ったであろうか。メレルカの案内で、主従は小さな沼のほとりに行き着いた。なぜかその場所だけ鬱蒼としていた森が途切れ、丸く空が覗いている。空はまだ厚い雲に覆われ、その雲はごうごうと荒々しい音を立てて流れていた。
見れば沼の反対側は土が盛り上がった斜面となっており、その一カ所に木の根や下草に紛れて、成人が入れるほどの縦穴が開いている。入り口の奥は、ある程度の空間が拡がる洞穴になっている様子だ。
妖鳥はその前で一声鳴くと、用は済んだというのか、上空へと飛び去っていった。
主従は顔を見交わす。あれこそが、まじない師アジブローズの庵か。
沼のほとりを回わらなければ、縦穴へは辿り着けない。だが雨上がりの沼地はぬかるんでいて、足を取られた。青年たちはなるべく水の溜まっていない場所を選んで進むのだが、そうではないと思える場所に足を置いても、ズブリと身体が沈む場合が多かった。
泥は踏みしめる度に、水を吐き出す。昨晩から泥道を走ってきた深靴は、すでに水の浸入を防ぎきれないほど湿っていて、うんざりするほど中に染み込んでくる。リューゼもセオリエもこれには閉口した。
それでもどうにか洞窟の入り口まで辿り着く。暗い洞内には、先客がいた。
まじないを目当てにやって来た近隣の村人でないのは確かだ。その人物はリューゼたちと同じような外套や深靴といった旅の剣士の服装をしていた。細身の剣を腰鞘に差し、さらに背中には矢筒を背負っている。
が、主従らと根本的に違うのは、その人影が女性であると云うこと。
そして彼女の足下には、まじない師であった老人が、物言わぬ姿で転がっていたのであった。
ご来訪、ありがとうございます。
あれこれ因縁の深そうな魔導師ヴィラ。
そして、ついに女性キャラの登場。でもその足下には……。
彼女はリューゼたちになにを運んできたのでしょうか?
次回をお楽しみに!
寸=3センチ
間=1.8メートル




