ロロスの森 其の一 ☆
夜明け前、ようやく雨が上がったのだが、今度は深い霧が行く手を邪魔した。
1間先も見えないような濃霧である。セオリエは霧が晴れるのを待つように進言するのだが、胸中の落ち着かないリューゼは先を急ぐことを選んだ。
「先程のグノンが戻ってくるとお思いですか、公子」
顔にかかる金髪を払いながら、セオリエが問う。本来涼やかな青い瞳に、疲労の影が映っているのが見て取れた。
罪悪感がチクリと胸を刺す。――が、それ以上に湧き上がる不安が、リューゼの気持ちを落ち着かなくさせていたのである。
ただし不安の原因はグノンではない。どうしても急ぎあのまじない師に会わねばならないという根拠のない焦りなのだが、つまらぬ気位が邪魔をして、彼はそれを口には出来ない。
目を合わせないようにする年下の主人に、乳兄弟はそれ以上を尋ねようとするのは止めた。黙したまま、周囲の様子に気を配りながら、あとに付き従うだけだった。
* * *
ボーマルブの山道を下りきり、ガゼンダルの王都へと至る街道へ戻る。そのまま街道を進み、朝日が昇る頃、主従はロロスの森の入り口にたどり着いた。
霧の中から現われたロロスの森は、オークやアカマツが来訪者を脅かすように、太い枝を天高く掲げていた。その有り様は鬱蒼という言葉がふさわしく、まるで冥界への入り口のようだ。
この時代の人間にとって、森は「異界」。精霊や悪霊の住む場所であり、人間がたやすく立ち入ることを拒絶した世界だと恐れられていた。
なぜなら昼なお暗い大樹の陰や岩場の窪みには、暗闇が隠れていたから。突然ぽかりと「闇の口」が開き、そこを通って闇の眷属が現われるやもしれない。あのものたちの神出鬼没さは、人間には計り知れないのだ。
危険は魑魅魍魎だけとは限らない。森の奥深くに隠れ住む盗賊や無法者たちもいた。領主の目の届かない薄暗い森は、それらの者たちにも居心地の良い場所でもあったから。
身ぐるみを剥がされるぐらいならば運がよい。命を取られれば、文句も云えぬ骸となる。
腹を空かせた狼も、物陰から息を潜めてこちらを伺っているのを忘れてはいけない。
どんな危険が襲い来るかわからぬ場所。それがこの時代の森だ。足を踏み入れたら、生きて帰れる保証はどこにもない。
それゆえ子供の頃から、森への畏怖をたたき込まれて育つ。決して森の奥深くへと足を踏み入れてはならないと、教訓や物語りの中に織り込まれて、繰り返し大人たちから言い聞かされる。
だからリューゼたちの目にも、眼前に拡がる深い森が深く果てしなく恐ろしい場所に映ったとしても、それは致し方ないことだった。
その上、夜明け前の冷気が四肢をこわばらせ、恐怖心に拍車をかける。雨を吸い込んだ重い外套や深靴が枷となり、前進を阻もうとする。
しかし、彼は怯む心を押さえつけた。
襲いかかるような大木の枝々の影に臆せず、まとわりつく霧を払い、「異界」への門を潜っていった。
森の中は、静寂が支配していた。
朝まだ早く、森の木々も動物たちも、深い眠りから覚めきってはいないのだろう。
空気は冷たい。深く息を吸えば、松脂の少し青臭くツンと刺激するような香りが鼻に拡がった。
かの異様な老人、まじない師のアジブローズは、この森の先にある沼のほとりに庵を結んでいると云う。
道標も無い迷路のような森の中ではあるが、目を凝らせ捜せば、それでも人間が通ったような形跡がある。足下を邪魔する大木の太い根に擦れた後があったり、厚く蓄積した落ち葉が踏み固められている場所があるのだ。
老人は隠者とは云え、彼の元を訪れる者もいるそうだから、その痕跡なのだろう。それを辿ればよいとも、宿屋の主人から教えられていた。
主従はそれらの標を見落とさぬようにと、目を凝らし注意深く進んで行く。
やがて霧が晴れてきた。陽が昇り始めたのであろうか。
しかし肝心の陽光は生い茂った枝に遮られ、森の中は薄暗いままである。同じようにリューゼの焦りも心中に蔓延ったままで、逆に平静を失わせ気持ちを上ずらせようと画策しているかのようだった。
背の高いカラマツの先端の更にその上空。隙間から見える空は低い唸り声を上げ、早い速度で灰色の雲を押し流している。今は、その音さえやけに耳につく。
とうに雨は止んだというのに、強風に揺れた枝々は、時折悪戯のように侵入者めがけて水滴を落としてくる。
それもまた、彼の不満と苛立ちを増長させていたのだった。
そんなとき、空気を切り裂くような咆哮が聴こえた。
頭上を、何かが横切る。
曇天を小さな影が飛行していった。
甲走った鳴き声は、恐らく暗黒から召喚された妖鳥のものであろう。「闇の口」を通りてやって来た異形の種族。鷹に似た、獰猛で俊敏な、ホルグと呼ばれる魔獣。
地上から仰ぎ見れば小さな影だが、翼を拡げた大きさは4間はある。賢いし、飼い慣らせば主人に忠実なので、妖術士らが使い魔に使役することが多い。
遙かな天空から地上の野ねずみを見つけられるという視力のホルグだから、彼らの姿を発見した可能性は高い。咆吼は、その合図かもしれない。
あるいはたぐいまれなるホルグの視力を借りて、その主人である妖術士が、ふたりを遠く離れた場所から覗いているかもしれない。
例えば、ロサの都アスコーから。闇の目が――。
だが頼りになる乳兄弟は別の可能性を考えていたようだ。
「今の咆吼、メレルカでしょうか?」
主従の知り合いに、ある人物がいる。
この者は大地女神カヤトを祭る神殿から彼らの元へと遣わされているのだが、剣術使いであると同時に妖術にも心得があり、妖鳥ホルグを使い魔として使役していた。その妖鳥の名前が「メレルカ」と云う。
もしメレルカであれば味方が側まで来ていると云う朗報なのだが、今のリューゼの精神状態では、敵の偵察に見つかった可能性の方を心配してしまう。
「いや、限らんぞ。似ていたが、そうだとは言い切れない」
(……誰が、追って来た。闇公の配下か、それとも……)
リューゼの心がざわめきだした。嫌な感覚が頭をかすめる。どうしたものか、この感覚は外さない。
静かに息を吐き、耳を澄ませ辺りに注意を払っても、不穏な気配は感じられなかった。敵が近くに潜んでいる危険は低いが、なにかが密かに進行しているという空気は汲み取れる。
――それがリューゼにとって不利益なことだということも。
されど視界の片隅に映ったアビナ家の紋章が印された指輪は、鈍い光を放つのみである。三つ首竜は、なにも語ろうとはしない。
だが研ぎ澄まされた彼の神経は危険を叫んでいる。セオリエも、重ねた経験から察するものがあるのだろう。すぐさま対処が出来るようにと、神経を尖らせている。
用心を怠たってはならない。影のごとくの妖術士が敵では、いつ背後に魔の手が忍び寄るか分からないのだ。
「公子……」
セオリエが低く声を掛けてきた。同じ事を考えていたのであろう、目が合うと無言で頷く。
ふたりは足を早めた。
鉛色の空は、未だ温かい陽射しを遮り続けている。風がざわざわとオークやカラマツの枝を大きく揺らす。
「急ぐぞ、セオ」
再び、遠くでホルグの咆哮が聞こえた。
それから3間も行かぬ内である。
唐突に、前方のオークの大樹の陰から影が現われ、主従の行く手を遮った。
黒い長衣に身を包み、円筒形の高い帽子には黒い羽根飾り。猫背気味で、そろりと立ち現れた姿は幽鬼のよう。痩せこけた青白い顔に不気味な笑みを浮かべていた。
「お久しぶりにございますな。アビナ家の公子様」
その人物は、恭しく挨拶をする。
だが当のリューゼの表情は、即座に険しいものになった。セオリエが無言で長剣を鞘から抜く。
「これは魔導師ヴィラ。わざわざおまえが現われるとは珍しい」
瑠璃色の瞳には、憎しみの色が浮かんでいた。
ご来訪、ありがとうございます。
ロロスの森に入ったリューゼとセオリエ主従ですが、またもや行く手を遮る人物が。果たして敵か味方か? ふたりの反応を見ると、どうも歓迎せざる人物のようです。
しかし、また男性キャラ。
美女の登場はいつのことやら(泣)
もうブロマンスで押し通してやろうかしら、と半ば本気で考え始めたこの頃……。
1間=約1.8メートル




