アジブローズの庵 其の五
「闇の口」、開く!
暗闇にぽかりと開いた空間は、ゆっくりとその開口部を拡げていった。最初は赤子の口ほどの大きさであったが、戦慄くように震えながら「闇の口」はその空間を伸張していく。
それは、数間離れたリューゼとセオリエの目にもはっきりと映っていた。篠突く雨も、異様な光景を遮る盾とはならぬようだ。
重い息を吐き出すように開いた口は、見る間に林檎の実ほどの大きさに拡がり、その口内には夜の闇とはまた別の漆黒の深淵が見えていた。
その奥から、長い爪が一本、ゆっくりと現われる。先端が鋭利に尖ったかぎ爪は、大鎌のような曲線を描き、鈍く真珠色に輝いていた。内から照り出す禍々しい艶を持った凶器は、2寸も姿を露わにしたところで急に動きを変え、素早く「闇の口」を引き裂いた。
すると夜の暗幕は絹のような悲鳴を上げ、あっさりと裁断されてしまう。
切れ味の良い刃物で裂かれたような夜闇の帷帳は頼りなく打ち震え、その隙間に顔を出した深淵の暗黒から、うろこ状の脚鱗に覆われた逞しい4本の趾が突き出された。
一度大きく震えたが、次の瞬間「闇の口」の端を裂きつつ、勢いよく距の就いた脚が飛び出してきた。
「公子、あれは!」
「闇の眷属グノンか」
主従の表情が引き締まった。同時に息を飲んでいた。
拡がった裂け目の奥にはグノンの身体も見えるのだが、黒い羽毛に包まれた胴体はなかなか姿を現わそうとはしない。「闇の口」からこちらへと出てくるのを厭うているのは、降り続く雨の激しさゆえであろうか。
甲高い鳴き声と共に強い風が起こり、気流が巻き上がる。
グノンが翼を煽いでいるのだろう。風に巻かれた雨粒が、青年たちの横顔を襲った。深淵の狭間から流れ出てくる妖気は、重く陰気な臭気と共に、ふたりの動きを縛ろうとする。
セオリエがリューゼの前面に身体を滑らせた。主人の盾になるつもりか、すでに右手を剣の握りに掛け、グノンの動き次第ではいつでも剣身を引き抜けるよう身構えている。
約3間先には、夜の闇より深い黒闇から突き出た脚が、やみくもに宙を掻いていた。
「セオ。今ここで、やつと事を起こすのは得策ではないぞ」
「しかし、行く手を塞がれてしまいます」
「焦るな。やつはまだ我らを見付けた訳ではない。たまたまここに現われただけだ」
そう言うと、リューゼは献身的な乳兄弟の腕を掴み、強引に近くの大木の影へと引っぱっていく。一抱えもありそうなカラマツの幹の影に隠れると、素早く目くらましの呪文を唱えた。
「やり過ごす」
「……しかし!」
セオリエの反論を、リューゼの鋭い眼光が抑えつける。瑠璃色の瞳には、金色の光の破片が浮かび上がっていた。「ロサの魔眼」に睨まれ、臆さない者はいない。
それでもなお主人を諫めようと金髪の青年は口を開きかけたが、人間の聴覚に苦痛を強いる甲高い声がそれを邪魔した。
リューゼが唱えた目くらましの呪文。そのかすかな魔術の香りを嗅ぎつけた闇の眷属の、喜びの奇声だった。
獲物を見つけた高揚は、苦手な雨さえ忘れ去らせたか。切れ味鋭い爪で「闇の口」を大胆に切り裂き、ついにグノンはその姿を現わそうとしている。
青年たちは大木の影で息を殺した。
大きく折れ曲がった2本の脚に支えられたグノンの胴体は、胸部が発達した鶏のような胴体に、長距離の飛行には適さないであろう翼羽と、反対に胴体の数倍もある長い尾羽を持っている。
だが、奇っ怪なのは歩行する度に前後に揺れる首の上には、嘴のある人間の顔が乗っており、頭頂部には鶏冠、顎の部分に肉髯まで付いていることだった。
奇声を上げたのはこの胸部にある人面で、憤怒のような苦悶のような表情を浮かべた顔は、観た者に恐怖心を植え付けるのには十分だといえよう。血走った目を大きく見開き、嘴を開けたり閉じたりして鋭い音を立て、時折身体を伸ばして耳を塞ぎたくなるような声を上げる。
「妖魔は、腹を空かせているようだ。相当苛ついている」
主人の言葉に、セオリエが無言でうなずいた。
しかし、あのグノンをどうにかせねばロロスの森へも行けないのである。このまま彼らに気付かずに立ち去ってくれればいいのだが、魔術の残り香を嗅いだグノンが、大人しく引き下がるはずもない。
首を左右に激しく動かしているのは、かすかな香りの跡をたどり、姿の見えぬ魔術の施行者を捜しているからだろう。
闇の眷属の長い尾羽は、羽毛の代わりにたくさんの体節を持つ細長い芋虫のような形をしている。
それらは一本一本自らの意思――というより食欲に忠実で、腹が減ると胴体の動きとは別にうねうねと動き回り始める。
この奇妙な尾には、先端に口腔があり、その口が大食いでなんでも喰らうという悪食であった。獲物の体形によって自在に開口部の大きさを変えられる口は、小動物であろうが時に人間であろうが、丸呑みにしてしまうのである。
その尾が宙をゆらゆらと動いている。
旺盛な食欲が、獲物の存在を感じ取り、見つけ出そうと躍起になっていた。尾には、眼球も耳も鼻もない。どうやって獲物を見付けるのか、リューゼたち人間にはわからない。
古い書物に記されていることには、体表に微小な視神経がいくつもあり、それが獲物の方向を感知するのだとある。
目眩ましの魔術をかけたとはいえ、あの悪食の大食らいの視神経は、それくらいで誤魔化せるものではない。だが、今宵は雨。大雨が妖魔グノンの感覚を鈍らせていた。
吹き付ける風と雨に、妖魔は立ち往生をしていたのである。
苛立ちを現わすようにグノンが4本指の脚を地面に叩きつけると、濡れた土の匂いと闇の眷属が垂れ流す悪臭があたりに飛び散った。
セオリエの右手は、剣の握りを離すことが出来ずにいた。
不意に。
あたりがざわざわと騒がしくなった。幾人かの人間の気配が一本道の後方より押し寄せて来た。村から追い掛けてきた賞金目当ての者たちが追いついた様子。
足を進めるにつれ、彼らが手にしていた松明の灯が、闇から妖魔の姿を浮かび上がらせる。
途端、重なる驚愕の声と幾多の怒号。
闇の眷属の恐ろしい姿を間近に見て、彼らは恐慌に陥る。
ある者は腰を抜かし、ある者は呆然と立ち尽くした。またある者は剣を抜き、ある者は手にしていた松明をグノンに投げつけた。ただただ大声を上げ続ける者もいる。
雨夜の山中だというのに、突然その場は火事場のような大騒ぎとなった。
投げつけられた松明は光を嫌う妖魔を一瞬怯ませはしたが、むしろ怒りに火を点けたようで、グノンの関心は一気に賞金稼ぎの男たちに注がれた。けたたましい声を上げ、男たちの方へと向き直る。
奇妙な長い尾も、空気の変化を知り、ゆらゆらと宙高く鎌首をもたげた。先刻まで気にしていたわずかな魔術の香りのことなど、妖魔の頭からすっぽり消え失せてしまったか。
獲物の匂いを嗅ぎつけた悪食は、速攻で腰を抜かし逃げ遅れた小太りの男に襲いかかる。
男は悲鳴を上げる間もない。
ぶよぶよした芋虫のような長い尾が鞭のようにしなり、男の右足に絡みつく。すると別の尾が大きく口を開け、男の頭上から襲いかかった。
口腔が覗くほどに開いた口前部は空を泳ぎ、そのまま獲物の頭を丸呑みにすると、残った身体を引き摺る。
胴体は横倒しとなり、少時泥の上で身もだえしていたが、やがてパタリと動かなくなった。待っていたかのように残りの尾も獲物に寄って集り、見る間に無残な状況になる。
周囲の男たちの耳には、雨や風の音と共に、陰湿な粘り気のある音が混じって聞こえていた。
追い打ちをかけるように、グノンの嘴からは立て続けに奇声が上がる。
あまりの状景に、共にやって来た男たちはなにも出来なかった。恐怖で、身体と精神が縛られてしまった。
だが、このままでは次の標的は自分かもしれないということに気付いたのだろう。意味の分からぬことを叫びながら、なりふり構わず、男たちは村の方向へと走り出した。
一目散に、決して妖魔と目を合わせぬよう。その尾に絡まれぬよう。
命あっての物種と、倒けつ転びつ、ほうほうの体で賞金稼ぎの男たちは逃げ去っていった。
* * *
グノン自身はその後も魔術の残り香を捜し出そうと躍起になっていたのだが、嗅覚に流れ込む生臭い匂いが邪魔をしている様子であった。
己の意思とは無関係に食欲を剥き出しに動き回る長尾は、獲物を食べ尽くしたあとも、先端の口腔の回りに血の匂いを残したまま、妖魔の周囲をゆらゆらと漂っていたのである。
ただでさえ雨が匂いを消して、追跡は困難。だというのに、きつい匂いを振りまいて邪魔をする。
いかに己の部位とはいえ、無神経な行為に苛立ちが募ったのだろう。グノンは翼羽を大きく動かし、付いた雨粒を飛ばしながら、幾度か長く鋭い声を上げた。
そして無駄を覚ったのか、再び「闇の口」を通り深い暗黒の淵へと帰って行った。
カラマツの大樹の陰で、リューゼとセオリエの主従は唇を噛み締め、その一部始終を見ているしかなかったのである。
1寸= 3センチ
1間= 1.8メートル
ご覧いただきありがとうございます。
タイトルは「アジブローズの庵」なのに、アジブローズが出て来ない。
次回からは新章、「ロロスの森」です。(←予定)




