キリンの世界へ
始まりは、昼食がてら営業の時間つぶしで入ったインターネットカフェだった。丁度盆休みの時期で、週間漫画が発売されておらず、時間をもてあました私は何気ない気持ちで、パソコンの電源を入れた。
当時、私には彼女がおり、2人でB級グルメを食べ歩くのが楽しみだった。値段にして千円〜二千円前後、できれば2人合わせて三千円で収めたい。2人とも結婚資金を貯めながらの、節約生活を楽しんでいた。そんなデートコースの開発にインターネットをよく利用していた。
どこのHPから辿り着いたかは覚えていない。私たちの住んでいる県限定の、食べ物屋を中心とした情報交換をしているチャットに巡り会った。HP名は「注文の多い料理屋」、料理店ではないことが、逆に印象に残った。画面を見ると、化け猫の両目にアカウントがあり、その日は、6名になっていた。口をクリックしてチャットを覗いた。飾り気のない、鶯色の世界に三人の先客がいた。
〈ガラス〉今日はいまから仕事です。夜勤は嫌いじゃないけど・・・
〈のま〉おつかれ、夜勤なら明日は夜勤明け、明日を楽しみにがんばりな。
〈胃袋〉ガラスさんは、今仕事中だよね、お互い5時まで頑張ろう!でも、実際は7時まで残業だけど。
〈のま〉・・・・落ちます。じゃあね。(@@)
何のことはない、ありきたりなマイナーチャットの様だった。最後の書き込みが10:28、丁度二時間前になっていた。今は空だなと思いながら、書き込みをしてみた。
〈たいし〉こんにちは、はじめまして。
チャットの経験など殆どなかった私は、自分の名前でありきたりな挨拶をしていた。その時、丁度注文したランチがテーブルに置かれた。
「Aセットランチお待たせしました。」
ウェイトレスの女の子の、丁寧すぎない言葉に現実世界に戻された気がした。
「フリードリンクになっていますが・・・」
言われてはじめて、ドリンクを持ってきていなかったことに気づいた私は、少しあわててドリンクコーナーへ向かった。今思えば、最初からドリンクを持ってきていれば、すぐに食事をはじめ、テレビにでも切りかえていたに違いない。ドリンクコーナーへ行くと、小学生の男の子2人がジュースをこぼし、母親に叱られていた。仕方なく先にトイレに行くことにした私は、雑誌コーナーに再度立ち寄ってから席に戻った。
〈のま〉やあ、はじめまして。
ウーロン茶を持って帰ると、画面が語りかけてきた。相手に挨拶をされて無視するのも気が引けたため、フライドチキンを頬張りながら、キーボードに指を走らせた。
〈たいし〉こんにちは。
書き込んだ後に、二回も挨拶を書き込んだことに少し後悔した。失敗を取り戻すべく、ウーロン茶を飲みながら続けた。
〈たいし〉ここはどんなチャットですか?私はあまりチャットに慣れていないんで、宜しければ教えてください。
不慣れなことを告げた事により、少し気が楽になった。
〈のま〉ここは、この県のグルメ情報を交換するとこだよ。でも殆どメンバー固定されちゃって、ただの交流
の場って感じになってるけどね。
先駆者的な態度の書き込みが少し気に触った。年は自分より上なんだろうか、なんとなく男性のように思われた。
〈たいし〉のまさんは、男性ですか?
〈のま〉ええ、でも1ついいですか?気を悪くしないでくださいね。
〈たいし〉はい。何か?
〈のま〉チャットに慣れてみえないようなのでお教えしますが、あまり相手の事、例えば年齢や、仕事なんか
は聞かないのがエチケットですよ。気を悪くされたらすいませんが・・・
反省すると同時に、先ほど彼に抱いた感情は払拭された。初心者の私を気遣う態度、その押しつけがましくない姿勢に好感を覚えた。
〈たいし〉ありがとうございます。なにぶん不慣れなんで、これからも色々教えてください。
思わず、「これからも」と入れてしまった。
〈のま〉いいえ、こちらこそ。新メンバーは皆歓迎してくれますよ。なんせいつも同じメンバーで少し退屈してたんで。
〈たいし〉何人くらいみえるんですか?
〈のま〉7人かな。なにせ、地域限定の情報チャットでしょ、あんまり人は集まらないよ。
知らぬ間にランチを食べ終えた私は、ふと時計を見た。そして急いで電源を切り店を飛び出した。
その日の帰り、駅のホームで彼女とメールをした。チャットのことを言いかけて、少し気恥ずかしく思い止めた。付き合って3年、初めて秘密を持ったような気がして、少し心が弾んだ。携帯でも、チャットはみれるんだろうか?電車に乗った私は、試しに検索をしてみた。小さな画面に現れた秘密の入口が、私を招き入れてくれた。中では、〈わたがし〉〈大河〉の2人の書き込みがあった。最後の書き込みは今から三時間ほど前になっていた。〈のま〉が見当たらないこともあり、そのまま携帯を閉じた。少し、寂しい思い。昼に一度会話をしただけの〈のま〉を待っている自分が不思議に思えた。
翌日私は、昨日と同じ店でランチを取ることにした。何かに突き動かされるようにしてパソコンの電源を入れると、そこに〈のま〉がいた。しかも、〈大河〉と会話中だった。急いで挨拶を入れた。
〈たいし〉こんにちは、昨日はありがとう。また来ました。
〈大河〉やあ、はじめまして、大歓迎ですよ。話はさっき聞きましたよ。
正直うれしかった。30も過ぎ、気恥ずかしさもあったが、一人知り合いが増えたことに、心強さを覚えた。
〈のま〉ひょっとして来るかなと思って、話をしてたんだよ。昨日は急にいなくなったね。
後で知ったのだが、チャットから抜ける時は、「落ちます」とか言うのが普通らしい。昨日、私がいきなり電源を切ったことまで伝わっていたようだ。この気恥ずかしさも手伝って、後で年齢を10も鯖を読んでしまった。不思議なことに、年を偽るだけで別人になった気分だったことを覚えている。この時は、何の話をしたかはよく覚えていないが、殆どの住人に既に紹介されていたことに驚いた。当然、書き込みをさかのぼれば、誰でも私の訪問には気づくのだが、そんなチャットの見方も知らなかった私が、この日からキリンの世界に入っていくことになった。
チャットは魅力的だった。チャットの本来の目的でもあった、グルメ情報はもちろん。仕事の愚痴を聞いてもらったり、相手の相談にのったり。利害関係の全くない仲間との会話は、身軽で楽しかった。通勤の電車、昼食、寝る前と、毎日の日課になっていた。そして、二月もたつとだんだん相手のことも分かってきた。
〈のま〉はデスクワークの会社員。年は同じくらい(と言っても、私は22年ということにしてあるので、彼は10歳程年上になっている。)初めてのチャット仲間でもあり、気心が知れてきている様に思う。結婚はしていないが、彼女はいる様だ。車は無く、今は車の頭金(100万円)を貯めるのが目標らしい。また、実家は九州にある様で、家賃三万五千円のアパートに住んでいることも分かった。年齢の割には低所得に思われる。チャットの中では、はつらつとした印象があるが、実物は冴えないおじさんの様な気がする。彼女がいるというのも、眉唾物かもしれない。彼女とのデートの話を持ちかけても、あまり詳しくは語ろうとはしない。また、彼女の誕生日が11月15日と言っていたが、その日の夜も彼はチャットに登場していた。もちろんチャットの中での付き合いなので、彼の実像がどうであろうと特に問題はないわけだが・・・・。
〈大河〉自営業、たぶん飲食店。年は40ぐらいだろうか。男性である。妻子もあり、小学生の女の子がいるようだ。娘さんが子どものフッション雑誌を見て、高い洋服を欲しがり困っていると言っていた。子供服なのに、一着数万円もするらしく、しかも、もう既に数着買い与えたそうだ。チャットでは愚痴を言っているものの、結局はこの後も、買い与えるだろうと思われる。また、彼には大型模型、ラジコン飛行機の趣味もあることが分かった。随分と金の掛かる趣味である。店がそうとう儲かっているんだろうか?余計な詮索とは思いながら、腕時計やかばんの話をしてみた。彼はデイトナの時計をしていることが分かった。モデルも聞いたので、後でネットで調べると56万もする物だった。
たがた神社という有名な神社の近くに店があり、観光客も多いらしい。調べてみるとその神社は県の北側にあり、きっと住居も近くにあることだろう。ちなみに私の家から神社までは、電車で二駅の場所であることも分かった。
〈胃袋〉たまにしか来ないが、グルメ情報は一番詳しい。仕事は不明。年は20代(私が22歳と言ったら、「同年代」と言っていた)。大学生で、ひょっとすると県で一番の難関大学の可能性が高い。彼から提供される情報の中に、その大学近辺のものが時折見られる。近くで生活している者でなければ、知り得ないような店の情報である。大学での専攻は法学と言っていた。また、随分割のいいバイトをしているらしい。月々二十数万円のバイト料が入るらしい。彼は、そのバイト料の殆どを飲食に費やしているらしく、彼の大学の近くにあるオークラレストランや、千種警察署裏にある高級和食店にも月に一度は行くらしい。何故学生の内からそんな贅沢をするのかと聞いたことがある。彼の返答はこうだった。
「贅沢したいんじゃなくて、たまたま美味しいと思うものの中に高い料理があっただけだよ。」「美味しいと思えば、食べたいと思えば、十円の定食だって喜んで食べるよ。」事実、彼の紹介してくれた物のの中には、100円お好み焼きやコンビニの地域限定カップラーメンなども多数ある。
〈シー(SEA)〉変わった名前なので一度質問した。当然、海という意味の名だが、SEAではいけないらしい。「シ」に意味があると、謎めいた話で終わっていた。彼は、学校の先生ではないかと思う。理由は幾つかある。彼の書き込みの中に、夏休みという表記が何度か見られた。社会人なら盆休みという表現が普通だが。7月下旬の水曜日の夜、彼が「明日ゴルフに行ってくるよ。」という書き込みをした。〈大河〉が「明日って木曜だよね。休みなのと聞くと。」「夏休みだからね。」という答えが返ってきた。無論我々は、彼の発言についてそれ以上立ち入りはしなかった。ひょっとすると彼は、気心の知れた我々に、少し自己紹介をしたくなったのかも知れない。その時は、学生かとも思ったが、彼は1973年のオイルショックの話になったとき、自分はまだ小さかったと言っていた。年齢的に40前後と思われる。このチャットの中では、皆面と向かって自己紹介をすることはない。少しずつ、互いにヒントをつなぎ合わせながら、相手の輪郭を手に入れてきた。そのヒントは故意に提供される物だったり、偶然かいま見える物だったり。相手を特定したいわけではないし、特定されたいとは思わない。あくまでも、利害関係のない、面識の全くない者同士の社交場を、皆が望んでいることには違いないのであるから。
〈ガラス〉紅一点の女性。年は20代と思われる。夜勤の件から、看護婦かと思ったが、違うらしい。(病院の話をしてみたが、あまり詳しくは無いようであった。実は、彼女が病院で薬剤師をしているため、病院のことは色々聞かされていた。〈ガラス〉は点滴を病院で作っている事も初耳だったようだ。)私も含めてだが、皆彼女には特別な感情をもっているようだ。別に恋をしている訳ではなく、ただ若い女性と躊躇いなく話ができる機会を、皆が大切に思っているだけである。そんな様子は、彼女が現れるとすぐに分かる。今までの話題はそっちのけで、彼女を中心としたチャットに早変わりするからである。例えば、私と〈胃袋〉がカレーの美味しい店につて話をしていたとき。
〈胃袋〉今○○に来てるんだけど、美味しいカレーの店、他に知りません?
〈たいし〉たしか、ティン○○っていうカレー屋が美味しかったよ。何種類かのカレーを楽しみたい時は、ダブルカレー、トリプルカレーがおすすめだよ。
〈胃袋〉どこ?詳しく場所分かる?
〈シー(SEA)〉やあ今晩は、ぼくも場所知りたいなあ。
〈たいし〉んーと。そこの市内の森本1-19-3だよ。まあまあおすすめかな。
〈ガラス〉へーそんなに美味しいの?
〈胃袋〉今から確かめてくるよ。
〈たいし〉ああ、タマネギを極限まで炒める甘みをだしてるらしいよ。
〈ガラス〉へー、今日はカレーの話題で盛り上がってるの?
〈胃袋〉カレー問題は片付いたよ、もうすぐ行くけど、カレーは好きだったよね。
〈シー(SEA)〉確か、先月ヒルトンでカレーバイキング食べたって言ってたよね。
〈ガラス〉そうそう美味しかったですよー。
その後、チャットは彼女がその日食べたコロッケ定食が、いかに最悪だったかを発表する場に変わっていっ
た。パサパサだったキャベツの話、しょっぱいだけの味噌汁そして揚げすぎのコロッケの悲惨さ。せっかく料
理するなら、もっと真面目にして欲しい。果ては料理人の心構えにまで話が弾んだものだ。
そう、紅一点と書いたが〈わたがし〉という女性?も最近チャットに参加しはじめた。年は15歳、高校
1年、彼氏は居ないそうだ。家は同じ県内でも、大きな町の東側に位置する高級住宅地である。なぜこんなに詳しいかというと、彼女がプロフィールを書き込んだのである。冬休みに入った頃、彼女は現れた。夜中の誰もいない時に、自己紹介を書き綴っていたらしい。たまたまチャットを見た〈胃袋〉が急いで止めたそうだ。〈胃袋〉いわく、メールアドレスまで書き込む勢いだったらしい。〈わたがし〉は、その日の夕方に、初めて携帯電話を買ってもらったらしく。嬉しさの余り、以前から興味のあったチャットなるものに参加した。参加したはいいが、誰もいないため、取り合えづプロフィールを残そうと思ったそうだ。さすがに、電話番号まで入れては危ないということは分かっていたらしいが、それでもガードの甘すぎる子だ。私など、通話料金が幾らになるか心配で、苦言をしてしまった。
チャットを初めて半年ほどがたち、チャットは私の生活の一部になっていた。無論彼女には言っていない。チャットで入手した情報は、会社の同僚から聞いたことにして、食べ歩きに精を出した。ある時は、生のたこの刺身が値打ちに食べれると聞き、半島道路を走り浜の食堂まで行った。温泉もあり、釣り貨客相手の旅館としても有名な食堂だったが、旅館の下の寿司やでそれは食べることができた。生どころか、足が皿の上でくねくねし、口に入れると吸盤が張り付くほどだった。うまかった。また、ある時は大学が建ち並ぶ町のパスタ屋へ行った。山盛りの量で有名なその店は、雑炊も半端な量ではなく、一人前が小振りな鍋一杯の量あり、大食漢の私が、やっとの思いで完食した。当然彼女は半分も食べれずにギブアップした。クリスマスには、ホテルのオーダーバイキングレストランで、バンドの生演奏も堪能した。味、雰囲気共に上々で、しかもクリスマスだというのに、一人三千円程度の料金で済んだ事に彼女は観劇していた。無論、ギブアンドテークで、チャットの住人達にも、私たちが発掘したB級グルメの情報を提供した。互いの提供する情報から、なんとなく住んでいる地域も分かってきた。約一名を除き、皆大人であり、互いのプライバシーを尊重しながら良好な関係が続いていた。
正月休みも終わった頃、新しい来訪者が訪れた。
〈キリン〉こんにちは。こんな情報チャットがあるなんて知らなかったよ。仲間に入れてー。
〈のま〉 どうぞ、新年初めての方ですね歓迎しますよ。
〈キリン〉実は去年からこのチャットを見せてもらっていました。おもしろそうだなぁって・・・
〈のま〉 んー 楽しいと思うよ。是非これからものぞいてね。
〈キリン〉友達になりたいね。
〈のま〉 今はいないけど、きっと友達になれるよ。
後から、履歴を見て確認したが、これが〈キリン〉のファーストコンタクトだった。そして全てがそこに秘められていた。その後〈キリン〉もすぐにとけこみ、以前からの住人のようになっていった。足跡を残しながら。
履歴より・・・・・・・・2月2日
〈キリン〉明日仕事で奈良に出張だよ。金のない会社だから日帰りです。
〈わたがし〉どうしても遅くなったらどうするんですか?仕事のせいなのに、会社はお金出してくれないんですか?
〈大河〉 不況だから厳しい時代なんだよ。
〈シー(SEA)〉奈良は電車で行くと遠いですよね。電車だけで片道三時間半はかかるから・・・
〈キリン〉そうなんですよ。しかも朝九時からの会議に出なきゃいけなくって、明日は始発です。
〈大河〉 そうだね、近鉄との乗り継ぎもあるから早く出なきゃいけないしね。
〈わたがし〉大変なんですね。ここへ来るようになって、高校生がどんなに楽なのかよく分かりました。
普段は社会人の人と話することもないし、本当勉強になります。
〈大河〉 まあ勉強になるかどうかは別として、いろんなことを知ることはいい事だね。
〈キリン〉もう寝ますね、鹿の夢でもみます。おやみ・・・zzzz
履歴より・・・・・・・・2月9日
〈たいし〉 おととい〈キリン〉さんが言ってた奈良の「おばんざい」の店に行ってみたいけど、来ないかな
〈のま〉 へー奈良、彼、奈良へ行ったの?
〈たいし〉 出張で行って、結局自費で泊まったらしくて。ビジネスホテルに泊まって次の日のんびりしたってさ。
〈胃袋〉 次の日土曜日だったからね。美味しかったらしいね。奈良はまだ行ったことないから、いつか行ってみたいな。
〈のま〉 明日、行くのかい?日帰り?
〈たいし〉 いや、店の名前聞いといて、また今度行こうかなって。もちろん泊まりだよ。
〈のま〉 彼女のご両親も外泊はもうOKの公認なの?
〈たいし〉 まあそうでもないけど、お互い三十越えてるしね。
〈ガラス〉 いいなぁ、私も彼と旅行したいよ。
〈のま〉 彼いたんだっけ?
〈ガラス〉 ノーコメント でもいるよ 仕事忙しくって、お互い
明日だけは二人とも休みだから、近くの地ビール工場のレストランで海を見ながらデートです。
〈のま〉 こちは暇だけど金がないカップルだよ・・・・
〈胃袋〉 まあまあ、みなさん奈良へ行ったら土産話を是非
この2つの履歴は、私が気になりかけていた芽を育てることになっていく。彼にとって故意なのか偶然のミスなのかは、今となっては分からないが。
数日後、〈キリン〉に店を教えてもらう事ができた私は、彼女を誘い旅行の計画を立て始めた。運よく彼女が勤続10年で会社から貰った旅行券(2万円分)があり、奮発して春日ホテルに泊まろうかなとど話が弾んだ。
しかし、私の会社では考えられない厚遇である。彼女に言わせれば、女性で旅行券を貰うのは、あまり喜ばしくないそうだが。何か居心地の悪い話にもなりかけた。私も結婚したくないわけではないのだが、彼女の方から遠まわしに言われると、尻込みしてしまう。今度の旅行先で、こちらから話をしてみようか。しかし、彼女は一人っ子、私は長男という難問があり、二人ともそのことに未だ正面から臨むことを避けている。大学の同級生だった彼女の家は、同県でも南にあり、私の家からは高速で1時間半程かかる。何処に住むか、彼女の家はどうするかなど、難問が多い。彼女の両親は、自分達は新家なので、二人無縁仏でも構わないと、墓の心配までしてくれているが、とてもそんな事はできっこない。かと言って、私の家の墓に入ってもらう訳にもいかない。前に、〈シー(SEA)〉に相談したこともある。正直チャットでこんなことを相談するもの気が引けたが、彼が先生ではないかと思うようになってから、彼の実像を私の中で膨らませすぎたせいなのかも知れない。
彼は常識的な人間であり、何か良いアドバイスがもらえるのではないかと。誰もいない時を狙って。
〈シー(SEA)〉うーん。無責任な答えとしては男の子を二人生んで、一人に彼女の姓をつがせるか。
〈たいし〉 うーん。
〈シー(SEA)〉ごめんな、ただ言えることは。彼女のご両親は、娘の幸せを第一に思ってみえることは間違いないから、よくよく話し合えば何か解決策があるよ。随分と墓の事を心配してるみたいだけど、今は色んな墓があるからね。お骨だけ収めて、墓参りのときは自分の家の墓石を正面に呼び出せるような、共同タイプもあるしね。東京の方の話だけどね。
〈たいし〉 東京か・・・。まあ、東京にあるものは、何年かするとこっちにも入ってくるから参考にさせてもらいます。貴重な情報をありがどうございます。
〈シー(SEA)〉 そうだね。セブンイレブンみたいにこっちにも進出してくるかな・・・
〈わたがし〉 へェー、セブンイレブンって昔はなかったんですか?突然すいません。
〈のま〉 無かったよ。
先に謝っときます。ちょっと前から見てました。ごめんな
黙っていても良さそうな事だが、こんな風に言ってくれると、気が楽になる。私は〈のま〉の心遣いに感謝
した。
〈たいし〉 気にしなくていいよ。そんな深刻な話じゃないから。
〈シー(SEA)〉 まあ、実際には、お互い誰か分からないから、プライベートな相談もしやすいしね。
〈のま〉 じゃあ、ここらでセブンイレブンの弁当の話でもしますか?
〈シー(SEA)〉 いいけど、誰かさんは、先週いよいよテスト週間に突入って言ってなかった?
〈わたがし〉 ははは・・。息抜きです・・・。すぐ退散します・・・。
私と彼とのやり取りを、誰かが見ていてもおかしくはない。ただ、コンビニの話になった時点でオープンに
なった筈だ。もちろん履歴で見ることもできる。ただ、時間的な問題がある。普通は、二週間も前の広告なん
て、改めて手にすることはない筈だ。
それは〈シー(SEA)〉に相談をした、二週間後の金曜の夜の事だった。その日は季節はずれの台風が、
昼ごろにはこの地域を直撃するかと思わていた。しかし、前日の予想に反して台風の進路が変わり、太平洋
沿岸を日本列島に沿って北上していった。
〈キリン〉 そうか、そんなに美味しいんだ。
〈わたがし〉そういえば、前にもセブンイレブンの事で盛り上ったっけ、テスト中だったけどはまっちゃった。
〈キリン〉 へー・・。一回見てみよ。
私が訪れたときは、二時間ほど前の書き込みが残っていた。中には誰も居ないのかと思いスレッドを立ち上
げた。
〈たいし〉 明日の休みに向けて、実のある話をしましょう。
私は一旦台所へ行き、コーヒーを沸かした。そして、氷をたっぷり入れたグラスに注いだ。まだ三月だが、
私は一年中アイス派だ。ストローを使い全体をゆっくりと冷やしながら画面をのぞく、しばらくして。
〈キリン〉 やあ、テレビ見てたよ。もう誰も来ないかと思って。
〈たいし〉 そうだね。もう十二時半だしね。
〈キリン〉 そうそう、先に謝ります。コンビニの話になって、ちょっと履歴見てたら、プライベートな話見
てしまいました。黙ってようかとも思ったけど、のまさんも謝ってたから、気を悪くしないでね。
〈たいし〉 いいよ、いいよ。むしろ何かいいアドバイスがあればお願いしますね。
正直、私は少しムッとした。彼は悪くはないのだが、何か私の中に土足で上がりこまれた様な気がしたのだ。
後に続けた、アドバイスうんぬんは、当然の事ながら社交辞令である。しかし、彼には私の言葉しか伝わらな
かった。
〈キリン〉 そういえば、丁度手元に例のお墓の広告があるよ。テレビ見ながら、折込み広告見てたらあった
んだよ。
私は、一瞬何のことか分からなかった。次の瞬間、無性に怒りがわいてきた。無論、墓には興味があった。しかし、おせっかいに対する怒りが上回りそうな衝動に襲われた。〈キリン〉とは何度かチャットで話をしたことはある。しかし、ただそれだけの関係であり、以前からのチャット仲間程は気心が知れているわけではなかった。なのに、何故彼はこうも一気に踏み込んできたのか、あまりに無神経に思えた。
〈たいし〉 何処の墓?一度インターネットで見てみるよ。情報ありがとう。
精一杯の会話であった。この無表情な会話からは、私の怒りは伝わってはいないだろう。その後、私は直ぐに落ちた。〈キリン〉への嫌悪感を残して・・・。
次の日、私達は二人の家の中間にある町で合っていた。彼女が弁当を作ってきてくれたので、二人で少し早いお花見を決め込んだ。駅で降りた彼女を乗せて、国道沿いの大きな公園へやってきた。ピーク時には人で賑うその公園も、今はまだ静かで、屋台もまばらに見える程しか出ていなかった。まだ少し冷たい風が、頬を撫でていくが、日差しは柔らかく、満腹になった私は眠気をこらえてタバコを咥えた。
何と言う事の無い話をしながら、彼女の横顔を見ると、彼女の向こう側を20代のカップルが腕を組んで通り過ぎるのが目に入った。私は意を決し、「結婚しよう」と小声で呟いた。私の方を見て何も言わない彼女に、更に小声で呟く「結婚しよう。」小声ではあるが強く。彼女の答えは必要なかった。うれしそうに、うっすら涙を浮かべる彼女には、言葉は必要なかった。
その日は久しぶりにホテルに入った。二人でゆっくりと落ち着ける場が欲しかったからだ。肌を合わせながら、彼女と色々な話をした。そのほとんどは、浮ついた話ではなく、二人が立ち向かわなければいけない問題についてである。家はやはり、私の実家に同居する方向で話が進んだ。田舎の一軒家で、離れもあり、子供もすぐに欲しいので、落ち着いて生活をしていくためだ。そんな話をしていると、彼女が思い出したかのように身を起こし、小走りにバックをとりに行くと、中から一枚の広告を出して見せた。その広告は良く見ると、例の墓の物だった。「気にしてたお墓だけど、今はこんなタイプもあるみたい。」「ごめんね突然。」と彼女は付け加えた。彼女は私の怪訝な顔を見て、少し心配気に言った。「へー、少し調べておくよ。」「大事なことだし、心配かけてたんだな。」彼女は少しホットして笑った。広告は少し折れ曲がり、破れていた。何日も前からバックの中にしまわれていたせいだろう。彼女がこれをバッグにしまった時の気持ちを考えると、我ながら遅すぎる求婚を情けなく思った。そして、より愛おしく思え強く抱きしめた。抱きしめたがその瞬間、何かが頭の中で弾けた。
家に帰ると、両親に今日の話をしながら父と酒を酌み交わした。父は何も言ず、母はもう式場のことを一人で喋っていた。私は、飲みながらも頭の中で弾けた物を慎重に組み立て始めた。何かがおかしい。
部屋に上がり、一人になった私は目を閉じて考えた。広告は彼女の住む隣町の物件だった。無論、前日の夜〈キリン〉が言っていた物と同じであることは間違いなかった。あの後、それとなく彼女に確かめたのだが、この広告は二週間程前に入った物らしい。現に見学会の案内が先週の土日になっている。始め私は、あのおせっかいな〈キリン〉が、彼女と同じ広告を見ていたという嫌悪感に襲われた。しかし、そうではない。弾けた物は、もっと大きな怪物の様な気がした。正体を見極めようと再び組み立てる。「なにかが変だ」思わず声に出した。次の瞬間、大きすぎる怪物に押しつぶされそうになりながらも、一組のパズルが組み合わさった。
何故、〈キリン〉が、この広告を手にしていたか。私は急ぎ広告を片手に、携帯を探した。墓のサービスをしている会社は、土曜の夜だというのに電話がつながった。何を聴けばいい?どう聴けばいい?焦って電話をしてしまったことを後悔しながら、墓に興味があること。広告を見た事を告げた。すると、先方もいっそう愛想がよくなり、一度見学に来てくれと言い出した。先方のセールスを聞き流しながら、頭の中で質問を組み立てる。広告は友人に貰った物で、自分の住んでいる町では配られなかったのではということ。広告は何回程、何日と何日に新聞に入ったかなどである。変に、広告に焦点が向かないように、必死に取り繕い探った。偶然手に入った情報に喜んでいること、こんな情報はもっと大々的に宣伝すべきなどと力説しながら。
分かったことはこうだ、広告は二週間程前に一回うっただけであること。地域は件の南西にある地域、四市町村のみであるということだ。礼を言って電話を切った私は、喉がからからに渇いていることに気づいた。何かが目の前に居る。何時もの様にアイスコーヒーを作る余裕は無く。台所でペットボトルに入ったウーロン茶を見つけると、何かに追われるかのように部屋に戻った。
〈キリン〉は南西にある地域、四市町村に住んでいる可能性が極めて高い。そして、彼の見ていた広告は二週間前の物に間違いは無い。そして、彼が私と墓の事を知ったのは何時だったのか・・・。私は、意を決してパソコンの電源を入れた。
化け猫の目はアカウントを刻み、私を飲み込むように口が開いた。中では三人が、近況報告をしていた。丁度夕方から振りかけた雨が強くなり、雨音のリズムが今の私を冷静にさせた。私はチャットには加わらず、〈キリン〉の居ない世界を傍観した。〈わたがし〉は、どうやら追試も無く、無事進級が決まったらしい。〈のま〉は今日も仕事だったらしい。〈大河〉は、新しく雇ったバイトの男子学生の態度が気に入らないようである。しかも、ついさっき携帯電話を落として壊してしまったらしく、明日一番でショップに修理に出すと話をしていた。彼の心配は、修理の間、代替の電話が借りられるかと言うことだった。
しばらくしても、〈キリン〉が現れないことに拍子抜けしながらもホットして、ウーロン茶で喉を潤した。しばらくすると、〈シー(SEA)〉が現れ、彼が昨日給食で食べた枝豆コロッケの話に集中し始めた。この頃には、何人かの仲間が彼の職業を言い当て、彼も学校の先生であることを認めていた。N市で公立小学校の先生をしているとのことだった。今時の給食は、われわれの頃と違い、随分と美味しくなっているようで、彼も今日の枝豆コロッケを絶賛して紹介していた。面白そうな話になり、私もチャットに参加することにした。簡単に挨拶を済ませ、枝豆をすりつぶしたコロッケの食感について質問をした。
答えが返ってくるまでのわずかな間、ふと近くに置いた携帯が目に入った。そろそろ彼女に電話をしてみようかと思った。きっと彼女も今日の事を両親に報告し終えた頃だろう。私はチャットを見ながら電話をかけた。電話は直ぐに繋がった。彼女も電話をしようと思っていた矢先だったようだ。少し声が聴きづらい。彼女の方は雨だけでなく、雷も酷い様である。「キャッ」と言う叫び声に前後して、雷の落ちる音が響いた。「停電だよ。そっちは大丈夫?」「大丈夫、雨だけだよ。今時停電なんて珍しいね。」しばらくそのまま話をしていると。「まだ点かないよ。」と心配そうな声に変わった。「電話を切って、お母さんたちと一緒に居たほうがいいかもね。」彼女の言うとおりだと思った。既に二分以上が過ぎた。きっとお母さんたちも暗闇で困っているかもしれない。「懐中電灯は近くにないよ、どうしよう。」また不安げな声である。「携帯のライトで何とか移動できるだろう。やってみな。」励ますようにアドバイスをした。「あ、点いたよ明るいよ。これならいけるわ。また後で電話するね。ごめんねー。」彼女は一気に喋ると電話を切った。彼女の心配をしながらも、急にチャットが気になり目をやった。何も変化は無かった。何も・・・・。私はしばらくの間、変化のないチャットをぼんやり眺めていた。
次の日もその次の日も〈キリン〉が現れることは無かった。それは私にとって好都合でも会った。頭の中で幾つかのパズルを新たに組み立てながら、彼への質問を用意する時間が取れたからである。その間、私は部ログに参加するわけでもなく、ただ眺めていた。そこには居心地の良かった、馴染みの面々のやりとりがあった。
そして、水曜の夜帰りの電車の中で、携帯電話の中に〈キリン〉が現れた。私は間髪をおかずに入った。
〈キリン〉 ひさしぶり、誰も居ないようですね。
〈たいし〉 やあ。
手短に挨拶を済ませ、再度質問を精選した。
〈キリン〉 やあ、最近来てなかったから心配したよ。仕事忙しかったの?
〈ガラス〉 やあ二人とも久しぶりだね。
〈たいし〉 こちらもいそがしかったのかな?
私は二つのミスを犯した。一つは〈キリン〉に当てるつもりの会話が、〈ガラス〉が急に入ってきたため、画面上は〈ガラス〉に当てた言葉のように見えること。もう一つは、電車の揺れのせいか、緊張のせいか、「そちらも」と言うつもりが「そ」と「こ」を打ち間違え「こちらも」になってしまったことだ。変な会話の流れが、画面の中に登場した。焦っている私を知らずに〈ガラス〉が、強引に続けた。
〈ガラス〉 「こちらって」私のこと?まあまあ忙しかったわね。でも、昨日もその前もここに来たけど、二
人は居なかったよね。昨日の夜は、みんな来てたから、結構盛り上ってたわよ。
〈キリン〉 ああ、昨日まで三日間熱出して寝てたから、やっと熱が下がってきたよ。
〈たいし〉 病み上がりで悪いけど、一つ教えてもらえないかな?
〈キリン〉 何?
〈たいし〉 前の墓の件だけど、いつの広告か覚えてる?
〈キリン〉 ああ、あれいつだったかな?でもあの日の公告じゃないかな?ごめんね、なんかおせっかいしたみたいで、後で反省したんだよ。気を悪くしてないかって心配してたんだ。
〈たいし〉 いいよ、そんな事はもう気にしてないから。変な事聴いてごめんね。
〈ガラス〉 何の話?もし差し障り無ければ、仲間に入れて・・・・。
〈たいし〉 いや、たいしたことじゃなくて、探してた墓の広告を教えてくれたんだよ。
〈ガラス〉 墓?お墓?????
〈キリン〉 そう、お互い三十過ぎると色々と先のことも心配でね。
〈たいし〉 いや、二十代なんだけど・・・。
〈ガラス〉 へー、年齢分かっちゃった。じゃあね。明日、地元でお祭りがあるから、早く寝ますね。
とっさに、自分の年を二十代と返せたことに自分でも驚いた。気付かぬ内に、自分とは別の〈たいし〉がチ
ャットの中に生まれつつあるようだ。そして、また一つパズルが、何故〈キリン〉は私のことを三十代と
言ったのか、自分がそうだからか、それとも・・・。このパズルは私の中で黄色く見えた。
結局その日はそれ以上のことを聴くことができなかった。〈ガラス〉がいたため、個人的な質問をするのが
悪いと思ったからだ。そして、その夜・・・・
〈のま〉 ふーん、そんな事があったのか・・・・・。
〈たいし〉まあね、少し気味が悪いって言うか、気になってね。
〈のま〉 でも〈キリン〉も、ここ見るかも知れないけどいいの?
私は、自分の中で組み立てた罠を張ることにした。〈キリン〉が嘘を言っていること。きっと以前の私と〈シ
ー(SEA)〉とのやり取りを見ていながら、その場では明かさずにいたのだろうという事を書き込んだ。お
そらくは、見ているだろう〈キリン〉に向けて。
〈たいし〉たいした事じゃないよ。ただ、正直に言って欲しかっただけで、墓の件は感謝してるしね。
〈のま〉 彼は友達になって欲しいだけだよ。だからわざわざ広告まで採っといたんだよ。ここへ来る奴はみ
んな友達が欲しいんだよ。
その通りであろう、〈のま〉の言葉は、真実に思えた。十分〈キリン〉を代弁する物だった。思えば〈キリン〉からはこんな印象を受ける。比較的経済的には恵まれていない、三十代の会社員。現実の世界では、チャットの中ほどは、皆とコミニュケーションを取ることが得意ではない。あまり周りからは注目されることの無い、話題の中心にはなれない人物という印象がある。後になって思えば、友達を探しに姿を現したのだろう。彼の中の本質の部分が。
後から来た〈シー(SEA)〉〈ガラス〉を交え、〈のま〉と四人で〈キリン〉の話を始めた。個人を攻撃するような運びを、私も良しとはしないが、今は特に気にならない。私の中で確信があったからだ。結論は、〈キリン〉も悪気は無かっただろうという点であり、当然の結果だ。これで〈キリン〉も出て来やすくなっただろう。
その後、私は何度も履歴を見直し、ある結論に到達していた。〈キリン〉は誰でもない。私が〈シー(SEA)〉に相談した日、あの場に居た〈シー(SEA)〉〈わたがし〉〈のま〉の誰かが〈キリン〉じゃないかと。誰が?
また、〈キリン〉を探ろうと履歴を読み返すと、おかしな点があることに気付き始めた。例えば、2月2日の履歴から〈大河〉と〈シー(SEA)〉は〈キリン〉と同じ地区に住んでいるのではないかと、推測できる。何故、全員が奈良まで三時間半かかるのか?ちなみに私の家からなら二時間半程度で行ける。無論、住んでいる所が違っても、交通機関の都合で同じくらいの時間がかかるケースも考えられる。しかし、私がインターネットを使って調べた限りでは、県の中心にある市から出ている近鉄電車を使えば、南西にある四市以外では、電車だけで三時間半もはかからない事が分かった。すると、三人は〈キリン〉と同じ地区に居ることになる。〈大河〉が、たがた神社という有名な神社の近くに店があると以前言っていたが、どうも怪しくなる。
何が本当なのか?この非現実の世界の中で?
そう、住んでいる所で思い出したが、前の嵐の日、彼女の家が停電した日。私が見落としていた事があった。あれは、枝豆コロッケの話で盛り上っているときだった。彼女の家の停電に合わせるように、急に誰もがチャットが更新しなくなった。書き込みがストップしたのだ。しばらく待ったが誰も書き込みをしないので、私は挨拶を入れて、パソコンの電源を切った。そう、あの日あそこにいた〈わたがし〉〈大河〉〈シー(SEA)〉
〈のま〉の四人は停電の影響を受けたのだ。すると彼らの住所は、あの時停電になった地域に集中していることになり、また嘘が浮かび上がる。調べると、あの日の停電は、例の南西にある四市の内、A市と彼女の住むH市だけだったということが分かった。すると、〈わたがし〉が自分で言っていた、大きな町の東側に位置する高級住宅地という住所とは違ってくる。無論、〈大河〉についても同様だ。〈シー(SEA)〉と〈のま〉はどうか?彼らは嘘はついていないのか?ただ、偶然に同じ地域に住んでいるだけか?特に、一番信頼している〈のま〉の事が気になり、彼との会話を思い出してみた。特に、問題は無い、大丈夫、自分に言い聞かせるように振り返ると、もう一つのことが頭に浮かんでしまった。そう、彼はIBMのノートパソコンを愛用していた。何か問題か?そう、ノートパソコンならば停電しても、バッテリーでチャットを続けられた筈だ。停電しても電話回線は何の問題も無いはずだ。そう、電話・・・。何故、みんな携帯電話でチャットを続けなかったのか?無論、停電になり、チャットどころではなくなったのだろうが、彼らならこんな時にこそ、停電していることをチャットに書き込みに来るように思える。それが、誰一人来なかった。何故?携帯が壊れていたのは
〈シー(SEA)〉のはず。それとも、全員が携帯のバッテリーが切れてたのか?いったい・・・・・・。
〈のま〉に嘘をつかれていたことはショックだった。私の中の〈のま〉は、もう霞んで見えなくなっていた。この世界へ案内してくれた彼は、いったい・・・・・。そして、それ以上に、彼らはいったい・・・・。
私は、頭を整理した。誰が信用できるのか。今の時点では、〈シー(SEA)〉だけなのか?いや〈ガラス〉は?彼女は停電の時は居なかった。彼女の家は?2月9日の履歴を見ると、近くの地ビール工場のレストランで海を見ながらデートと書いてあった。県内で海に接している市で、地ビール工場のレストランがある所。
インターネットで検索をすると、それはU市だけであった。彼女は本当にU市に住んでいるのか?そう、U市では、あの日の翌日本当に祭りはあったのか?私は、結果が見えているような気がして、すぐには調べる気にはならなかった。
翌日の夜、インターネットで調べてみた。祭りはU市ではなくA市で行われていたことを知った。そして、その日はもう一つ分かったことがあった。私の勤め先に、N市の小学校に通う女の子をもつ女性がいたので、枝豆コロッケの話をしてみた。彼女は、自分たちの頃に比べて、いかに給食が豪華になったかを力説してくれた。そして、今は学校給食のほとんどが、地域ごとの給食センターで作られていること。また、先日のように台風が接近すると、休校となり、せっかく作った何千食もの給食が、全て無駄になってしまう恐れがあること。そのため、あの日N市では、給食を作らないように、教育委員会がセンターに指示を出していたことが分かった。そう、あの日は給食は無かったのだ。
こんなことは、よくある事なのかも知れない。仮想の世界に入る時、人は何かを脱ぎ捨て、仮面を被るのだ
ろう。自分自身も年をごまかしてチャットをしていた。他のメンバーを非難する資格もないし、するつもりも
ない。ただ、釈然としない気持ちだけが残った。ただ、〈キリン〉への嫌悪感だけは消えることなく燻ってい
た。誰が〈キリン〉だったのかという疑問とともに。その後も以前に比べ訪問する回数が減っていったが、チ
ャットは続けていた。互いに隠し事はあるものの、気軽に話をするには都合が良かったからだ。〈キリン〉と
も表面上は仲良く話をした。
しかし、その反面では〈キリン〉が〈シー(SEA)〉〈わたがし〉〈のま〉の誰なのかを探るようにしなが
ら。そのため〈キリン〉に、それとなくメンバーの話を持ちかけることもあった。
彼曰く、〈のま〉とは境遇が似ているように思うらしく、共感するところが多いそうだ。確かに、二人は彼
女はいないし(〈のま〉は、自分ではいると言っているが)、経済的にもあまり恵まれてはいない様に思う。また、〈キリン〉にとって自営業で成功している〈大河〉や高学歴で社交的な〈胃袋〉、理知的な〈シー(SEA)〉
は憧れであるようだった。そして、〈ガラス〉のはつらつとした雰囲気や、能天気すぎる〈わたがし〉の幼い
かわいらしさは、彼にとって理想の彼女像らしい。
思ったよりも彼は手ごわく、なかなか尻尾をつかませてはくれなかった。〈キリン〉が〈シー(SEA)〉や
〈わたがし〉〈のま〉と同時に現れ、互いに会話をすることもあった。ひょっとしたら、私の思い過ごしでは
ないかと弱腰になってしまう程に。だが、思い過ごしではないとしたら。彼は一人二役に徹してチャットをし
ていることになり、何とも薄気味悪く思えた。その薄気味悪い〈キリン〉だが、最近よく会う。私がチャット
に入ると、必ずと言って良い程に現れるのである。そしてある時、チャットを始めたきっかけに話が及んだ時
、彼がこう切り出した。
〈キリン〉実は友達が欲しくてチャットを始めたんだよ。
〈たいし〉ふーん。まあ自分も同じような動機かな。
〈キリン〉なかなか気の合う友達がいなくてさ、良かったら友達になってよ。
〈たいし〉ああ・・・いいけど・・この中ではみんなもう友達だろ・・・・
〈キリン〉んー。この中っていう訳じゃなくて、遠くに住んでるわけじゃないし、同じ県内なんだからたまに会ったり、電話やメールができる友達になって欲しいんだけど、駄目かな?
少し戸惑った。〈キリン〉も私も30代のおじさんである。そのおじさん二人が、友達になって悪いわけで
はないが、なんとなく気恥ずかしい。
〈たいし〉ああ・・・いいけど・・・言っとくけど、僕は男だよ、ナンパのつもりなら無理だよ。
〈キリン〉そんなつもりはないし、男の趣味があるわけじゃないよ。ただ、僕は友達がいないから・・・・
〈たいし〉まあそれなら・・・でも、やっぱり実際会うと、お互いチャットしにくくならないかな?
〈キリン〉何で?
〈たいし〉何となくさ、仮想の世界は仮想のままの方が良くないかな?ここには他にも友達がいるし、みんなでこれからも仲良くしていけば良いんじゃないの?
〈キリン〉友達になるのが嫌なら無理は言わないよ。ただ、君とはここで仲良くなれたから、君となら現実の世界でもいい友達になれるかなって思ったんだよ。
〈たいし〉でも、ここはここの良さがあるでしょ、ここだけの話みんな少しは本当の自分を偽って、ここだけの自分になりきってチャットしてるわけだし。
〈キリン〉僕は何も偽っちゃいないよ。
この時、私は〈キリン〉の異常なしつこさに嫌になっていた。そして、かまをかけてやった。
〈たいし〉そんなに言うなら、はっきりさせよう。君、ほんとは僕より前からここに来てたろう。本当は全部分かってるんだよ。君が誰かなんて。
〈キリン〉何のこと?
〈たいし〉君が、別の名前で前からここに来てたことは、分かってるって言ってるんだよ。
反応がなかった。証拠を出せと言われると、確定したものではなかったため、どきどきしながら彼の返事を
待った。しかし、彼からの返事はいっこうに返ってこなかった。私はそのまま他のメンバーを待ったが、その
日はもう誰も現れなかった。そして次の日の帰りの通勤電車の中で、昨日のことも気になっていた私は携帯電
話を取り出した。見ると、あれ以来誰も訪問者がいない。次の日も、その次の日も。六日目になり、私は一つ
の結論にいきつき、一言だけ書き込んだ。
〈たいし〉さよなら、大勢で一人ぼっちの〈キリン〉
私の結論は、ここは全て〈キリン〉が一人で作っていたチャットだと言う事だ。彼は、友達を探しにやって
きた。ただ、始めから自分を登場させるのではなく、もし非難の言葉や拒絶の言葉を浴びても良い様に、別人
格達を揃えて友達になってくれそうな来訪者を待っていた。ある人格は、彼に近い人物であり、また彼の憧れ
理想であり。そこに私が迷い込んだ。そして私は彼のテストに合格し、はれて〈キリン〉が登場したのだろう。
彼は、仮想の世界でも対人関係を結ぶことに臆病になり過ぎてしまっていたのだろう。〈のま〉〈ガラス〉〈わ
たがし〉〈大河〉〈胃袋〉〈シー(SEA)〉六人もの人物を演じきった〈キリン〉は、今どこに居るんだろうか。
だが、謎が全て解けたわけではない、何故〈キリン〉は私のことを三十代と言い当てたのか。そして、私の名前、木野川 泰志と、以前〈シー(SEA)〉の言っていた、SEAではなく「シ」に意味があるという言葉は、何か関係があるのかということが。