第一章・3 『メビウスな想い-1-』
今日は非常に調子が狂う一日だった。原因は、最早考えるまでもなくあの男。
支見湊矢だ。
けれどそれも、昼がピークだった。屋上での一時以降は、特に会話があるわけでもなく平穏無事に放課後を迎えられた。
ホームルームが終わり、大河内が教室を去った後も、杉掛に声を掛けるクラスメイトはいても支見君に声を掛けるクラスメイトはいなかった。
屋上で彼が言っていた、自身もコミュニケーションが苦手と言っていたのは事実のようだ。別段疑っていたわけではないし、私も彼に同じ印象を持っていたが、まさか転入初日から誰も近づけないほどとは思いもしなかった。
彼は長身で、一般的にハンサムと称される顔立ちをしている。しかし目付きは鋭く、仏頂面は非常に威圧感がある。加えて、長身が相まってスラッとした印象を与える身体は、近くで見ると服の上からでも見て取れるくらい、筋肉が綺麗な逆三角形を描いているのが判るほどに鍛えられている。ボディービルダーの様な暑苦しいのとは違うタイプの筋肉。
クラスメイトに羨望や好意の眼差しを向けられそうなその風貌は、ただ一点、圧倒的な人を寄せ付けない空気を持ってして周囲に畏怖の感情を与え、台無しにしていた。
変わった人。所謂、不良やヤンキーという俗っぽい人間には見えない。かといって生真面目な人間にも見えない。
――普段の素行は私も同じか。
自分の好きなこと以外には適度に手を抜く。面倒が起きない程度には実力を磨いて発揮する。
少し親近感が湧く。なんとなくだけれど、きっと彼もそんな生き方をしている気がする。
私はふと支見君の方を一瞥する。彼は無表情で手元の教科書類を鞄に収めていた。相変わらず睨んでいるわけではないのだろうが、目付きは鋭い。あれだけでも近寄り難さは感じる。
暫くして、顔を上げた支見君と目が合った。すると、彼は口元に笑みを浮かべた。些細な微笑。僅かに瞳も細めて、確かに笑った気がする。
そのお陰か、視線が絡み合った事に気まずさは感じなかった。彼が何故微笑んだのかはまったく分からなかったが、嫌な気持ちにはならなかった。
微笑を見た後、気付けば彼の視線は窓の外へ向いていた。ほんの一瞬、まるで幻でも見たかのような感覚に囚われた私は、妙に意識し過ぎている彼の事を払拭すると、自分の席を立ち上がり、鞄を持って教室を出た。
――普通じゃない。
人は生きている内に少なくとも一度くらいは“数奇な出会い”に遭遇するという話を聞いた。私にとってはこれがそうなのだろうか。
顔を合わせて言葉を交わしたばかりの彼をここまで気にするのは、明らかに普通じゃない。先刻気にしないと割り切った筈の私の心は、矢張りどこか奇妙な違和感と蟠りに満ちている。
昔から疑問はいつまでも残るタイプな私。残った疑問は解決しないと気が済まない私。私が彼に感じる“陰”とはどういったものなのか。知りたいと思う私がいる。けれど、必要以上に他人に関りたくない私がいる。
「(……忘れよう)」
出口無き螺旋の思考を“忘却”という逃げ道に進め、色々なものを払拭するように私は首を振るった。
気付けば既に学園の敷地からは出ていた。今朝の予定ではこのまま家に直帰する筈だったけれど、気分が変わった私は、商店街へと足を向けていた。
心が落ち着かない時は本屋に立ち寄る。私の心を癒すものは、やっぱり読書という趣味だけだった。
本屋を目指し神楽町の商店街へ向う。
神楽町の商店街までの通りは、西洋風の煉瓦造りの建物が多い風変わりな街並みだ。紅い煉瓦の敷き詰められた道路、ランプの様な形をした街頭。何故こうなのかは知らないし興味もない。ただ、この手の雰囲気は非常に好みだ。
だから意味も無く足を運ぶこともある。人込みが苦手だから休日や平日の夜は滅多に来ないけれど。
私が好む本屋は商店街の中心と外れに一軒ずつある。
一方は小さな書店だが、物珍しい本がよく置いてあるので気に入っている。もう一方は中古専門なのだが、シリーズ物の推理小説が幾つも揃っているので打ってつけだ。
今日足を運ぶのは小さい本屋の方だ。手持ちの本はあらかた読み終えてしまっている為、新刊を求めていた。大手の本屋ではないから大して数はないが、マイナーな作家の新刊があるかもしれないというのはとても貴重だ。
しかしこの時間帯は社会人や学生の帰宅時間である為、人が多い。
鬱陶しい、とまでは思わないが、どうしても煩わしい。だからといってここで踵を返すのはあまりにも無駄足だ。
本屋は既に視界に入っている。入り口を目を向けると、店へ入って行く人の中に見覚えのある人物を見かけた。
「(あれは確か……渡良瀬さん?)」
学年では有名な、“秀才”であり同時に“変人”と称される隣のクラスの女生徒。確か名前は『渡良瀬碧』。
日本人離れした、透き通るように綺麗な亜麻色の長い髪で、いつも右側だけ結ってサイドテールにしているのが特徴的。身長は私より低く、小柄で痩躯、失礼なことを言うようだが貧相な体つき。体型の女性らしさについては私も人のことなど言えないけれど。
知っているというだけで、話したことも碌になければ、去年も今年もクラスが同じになったことはない。
しかし、利用頻度が高い私でも今まであの本屋で、学校の知り合いに出会うことがなかった為、稍々気になった。とはいえ、余計な交流を作る必要もないし、見間違いの可能性もあるので声をかけるつもりはない。
渡良瀬さんが店内へ入ってから十数秒ほど遅れて私も店内へ足を踏み入れる。
この書店は店員の人数も極めて少ない。店主らしき人物が一人と、アルバイトと思わしき店員が一人。休日や祝日でも一人増える程度。この規模だからチェーン店ではなく個人経営だろう。
「いらっしゃいませー」
アルバイトと思わしき店員がお決まりの挨拶で私を迎える。心が篭っていないと感じるのは私が捻くれている所為か。逆に心が篭っていたらいたで、鬱陶しく感じるのだけれど。
早速小説の新刊コーナーへ歩み寄る。文庫本サイズの本が並ぶ棚の列。ちなみに、周囲には立ち読みをしている客が一人いるだけで、渡良瀬さんの姿は無い。
二、三冊気になる本を見つけた。内二冊は良く知る作者の新刊だ。一通り帯や裏表紙のあらすじを見て思案し、結局、良く見知った作者の新刊を一冊だけ買うことに決めた。
その一冊を持ってレジに向う途中で、別の棚の列から出て来た渡良瀬さんにばったり出会った。
彼女は、少しだけ驚いた表情を浮かべたが、すぐに穏やかな笑みを浮かべた。
「おや、永嶺さん?」
「こんばんは。渡良瀬さん」
どうやら見間違いではなかったらしい。しかも、声を掛けないどころか、相手から声を掛けられてしまった。
「ふむ。こんばんは」
挨拶を返したはいいが、直後の会話の繋げ方が分からなかったようだ。それも当然と言えば当然。碌に会話もしたことが無い相手、しかも彼女にも当然の如く私の噂は耳に入っているのだろうから。
私は特に何も言わず、無視してレジへ向う。この方が双方にとって良いだろう。
「おっと、申し訳ない。少し待ってもらえるかな」
しかし、思いも寄らぬことに渡良瀬さんに呼び止められた。無視しても良かったが、無視する必要がある程交流があるわけでもないので、歩みを止めて振り返ることにした。
「……なに?」
「君はよくここに来るのかい?」
「……?」
予想だにしない質問に思わず訝しむ。何故突然私のプライベートに関ることの質問を投げかけてきたのだろうか。妙な気分になり、無意識に口元を強く閉ざしている私がいた。
「変な意味ではないよ。ただ、ここに詳しいかどうか……いや、僕が探している本の場所が君なら判るかもしれない、と思ってね」
私の様子に気付いたのか、渡良瀬さんは丁寧に理由を説明した。成程、本を探していたから『良く来るのか?』と訊いたのか。
嘘を吐く理由はないし、無視する理由も無い。快く人助けをするような真っ直ぐな性格はしていないが、本を探すのを手伝うくらいなら手伝うのも吝かではない。
しかし、私より小柄で、顔立ちは女の私から見ても幼くも非常に整っており愛らしい彼女は、見た目に反して随分と独特な話し方をする。一人称が『僕』というのも、あまり女の子では見かけない。彼女の口調で下から見上げられていると、不思議な感覚に陥る。
「何の本?」
私は端的に訊ねた。タイトルを聞いても判らない可能性はあるが、せめてジャンルでも判別できれば探し様はいくらでもある。小説であれば出版社さえ判明すればすぐに見つかる。文庫本かハードカバーかでまた探す場所は異なってくるけれど。
とはいえここは百歩も歩かずに一周出来そうな小さな書店。大手の本屋と違い探し物に何時間もかかるような店ではないし、ジャンルさえ判れば自力でもすぐに見つかりそうなものだが。
「詩集と、恋愛小説だよ」
「詩集……どんな?」
妙な組み合わせだ。というより、彼女が恋愛小説を読むのは意外だった。勿論彼女に興味があるわけではないので趣味趣向はまったくもって知らなかったわけだが、“秀才”と“変人”という先入観が先立って勝手に彼女の印象を決め付けていたようだ。
「劇詩だね。シェイクスピアの様な。ここにはそういうものは置いてあるかい?」
「あるわ。この通路の突き当たりの棚」
私は通路の奥を指差してから、渡良瀬さんを誘導するように目的の棚へ向った。
「本当だ。しかし、思ったより少ないね」
この本屋は店自体が小規模なのもあるが、歌集や詩集の類は極めて少ない。棚一つ分にすら及ばない。抑々、小説をメインに置いている本屋なので、文庫やハードカバーの小説以外の本はあまりない。ちなみに、漫画は一冊も無い。
「ところで、君は常連なのかい?」
「そうね。駅前の大手の本屋よりは、贔屓しているわ」
あまり自分のことを聞かれるのは億劫だったので、明確には答えなかった。
思えば彼女がこの本屋を訪れたこと自体が疑問だ。私はあまり行かないが、駅の傍には更に大規模な本屋がショッピングモールに入っている。
彼女は何故わざわざここに来たのだろうか。疑問に思いはするが、しかし彼女に直接聞くほどの興味はなかった。
横目で見ると、棚から手に取った本を軽くページを捲る渡良瀬さんは、内容が気に入ったのか心なしか上機嫌で頷いていた。
「恋愛小説は詳しくないけど、小説全般はそこの通路の両側の棚が文庫本で、その裏の列がハードカバーサイズ。新刊は入り口付近だから」
指差した方向を渡良瀬さんがしっかり見ていたのを確認すると、用事はもう済んだとでも言わんばかりの態度で私はレジへと向かった。事実、私にとってはこの店での用件など済んでいる。
「有難う。……あぁ、いや。ちょっと待って欲しい」
しかし再び渡良瀬さんに引き止められる。
「なに? 恋愛小説はタイトルを言われても判らないわ」
本の大体の場所だけを矢継ぎ早に教えて私が話を切ったのは、恋愛小説が専門外だからだ。後は出版社や作者の名前を手掛かりに自力で探してもらうしかない。だから引き止められてもこれ以上は手伝うことは出来ない。
だが、私が引き止められた理由は小説のことではなく、もっと意外なものだった。
「そうじゃなくてね。別の件で訊ねたいことがあるんだ」
渡良瀬さんは一端言葉を切ってから、
「今日、君のクラスに転入生が来たと聞いてね。その人物について訊きたいことがあるんだ」
と、僅かにでも予想しなかった質問を繰り出してきた。
「…………」
驚いたわけではない。気分を害したわけでもない。けれど私は、唇を強く噤んだ。
意図せず私は無言になったが、渡良瀬さんは私の様子に気付いていないのか構わず続ける。
「人づてに聞いた話で、名前までは知らないんだ。少し気になることがあって、是非教えて欲しい」
何故渡良瀬さんが私のクラスへ来た転入生を気にするのか。どうして彼女が少し挙動不審だったのか。彼女の様子や態度を、疑問に思いながらもそれ以上気にすることは特に無く、質問の理由など興味もない。
私は彼女の質問に答えなかった。すぐに答えれば余計な蟠りを残すことなくこの場を去れたのかもしれないけれど、私は彼女の質問に答えたくなかった。答えずに、踵を返した。
「永嶺さん?」
無言で背を向けた私の様子を流石に訝しんだのか、心なしか覇気のない不安そうな声で渡良瀬さんは私の名を呼んだ。
私は答えない。面倒事や厄介事を嫌う私が、わざわざ諍いの種を残してしまうような行動に出てしまったことには我ながら疑問を抱かざるを得ない。しかしその疑問の答えは既に判っている。何よりも明確に。
何も言葉を発さないまま、私はレジの店員に本を差し出し、手早く会計を済ませた。本は紙製のブックカバーをつけてもらい手渡してもらった。
店を出る時にほんの一瞬だけ視界に入った渡良瀬さんは、棚の方を向いて本を探していたようだが、若干首を傾げていた。彼女の動作は、本が見つからないことに対する動作なのか、私の対応に対する疑問への動作なのか。真実は本人しか知らない。しかし興味は無かった。
手に持ったままだった小説を、ブレザーのポケットに入れたままだったクリスティーの小説と入れ替えると、クリスティーの小説は鞄へとしまった。
――私は、どこまで『彼』を意識しているのだろうか。
先程の渡良瀬さんの質問はただの何気ない興味本位からの質問だったことだろう。しかし、どうしても答えることは出来なかった。彼の名前を出すのが怖かった。
意識の隅に追いやろうとしていた筈の彼のことが、再び私の中の全ての中心へと流れ込んで来そうで。
いや、もう既に私は再び考えている。意識の半分以上を彼のことに持っていかれている。人間は感情をコントロールすることが出来ない状況に陥ることも少なくは無いと、周囲を観察していて思うが、まさか自分にもこんな形で訪れるとは予想など出来る筈もない。
自らの深層心理に辿り着くことが出来ない。忘れようとすれば思い出す、エンドレス。メビウスの輪の様に、同じスタート地点へと戻って来る。人の心を読むことの出来る存在がいるのならば、今の私は滑稽に見えるのだろうか。
一体彼は、これからの私にとってどんな存在になっていくのか。
今は判らないし、解らない。
けれど、
――どうやら今日の日記の内容に困ることは無さそうだ。
私は少しだけ、久々に長い日記が書けそうな今日一日を悪くないと思えた。
閲読、有難うございます