序章・3 『現在《いま》の彼女は愛を囁きたい』
2017/3/7 修正。台詞の前後を一行空けました
――携帯電話の着信音が鳴り響いた。丁度歯磨きを終えて、再び日記を読み返そうとしたタイミングだった。
軽快だが簡素な、初めからプリインストールされている初期設定の着信音だ。拘りなどなく、面倒でずっとそれに設定していた。
私は電話を手に取った。液晶画面に表示されていたのは、『彼』の名前だった。
来るかもしれないとは思っていた。しかし、期待し過ぎないようにしていた。今、その声を聞いてしまうのは複雑な感情だから。
日記帳をデスクに置き、少しだけ間を置いてから、電話の通話ボタンをプッシュする。通話はすぐに繋がった。
「……こんばんは」
『こんばんは、玲亜』
会話の始まりは、ごくごく一般的で自然な挨拶から。
「ふふ。どうかした?」
私は電話口の相手に問うが、用件は半分程度は察している。
『いや、声が聞きたかっただけだ』
「嘘。あなたはそんな弱々しいこと言わないし、優しい人だって知ってる。だから、本当は」
『本当は?』
「本当は、私があなたの声を聴きたがっているって、察していたのでしょう?」
『…………』
やっぱりそうだ。と、私は確信した。
彼は優しさを指摘されると無言になる。まだ付き合いは半年にしか満たないが、それでも私が見つけることの出来た彼の特徴の一つだ。
「有難う」
日記帳の表紙を一撫でしながら、私は彼にお礼を言う。
『いや、元気があるならそれでいい。単なるお節介を焼いただけだ』
「あなたの声がなかったら元気になってないわ」
嘘偽りのない事実。彼のことを想うだけで、彼と話しているだけで気力が出てくる。活力になる。
『そうか。役に立てたのであれば、それでいい』
彼の口調は普段通り素っ気無いが、その中に優しさが見え隠れしているのが心地良い。
「っくし」
と、唐突にくしゃみをしてしまう。流石に気温も低い夜にバスタオルでいるのは愚かしい行動だった。
『大丈夫か?』
「ごめん、湯冷めしてしまったみたい」
電話を持ったままクローゼットに向かい、引き出しを開けて下着を取り出す。
『風呂上りか。暖かくして過ごせよ』
「うん。心配してくれて有難う」
首と肩の間に電話を挟みこんで下着を着込み、寝巻きのキャミソールとショートパンツ、上からガウンを羽織った。
『今着替えてたのか。音が生々しいな』
「興奮する?」
『想像力は最大限に発揮されているな』
彼の方が一枚上手か。冗談めかして茶化したが、逆にこちらが恥かしくなってきた。
『さて。悪いが、そろそろ切るぞ。玲亜も今日は疲れただろう。あまり遅くまで起きてないでゆっくり休め』
「ん……わかったわ。有難う」
彼の言葉に、少し寂しさが募る。だが、彼にも都合がある。迷惑はかけられない。
「お休みなさい。また、明日」
『お休み。また明日』
「……ねぇ」
『ん?どうした』
「……ううん、なんでもないわ。ごめんなさい」
『そうか。であれば、今度こそお休み』
「お休みなさい」
今度こそ、通話が切れた。液晶には、彼の名前と通話終了の四文字が残った。
「…………」
胸に痛みが走る。けれどこれは、“発作”のものではない。
いや、ある意味では発作か。恋の病という大病の発作。
「はは、何をくだらないことを考えているの。私」
最後に彼に言い残したかったこと。しかし結局言えなかったこと。果たして私は、もう一度その言葉を彼に伝えられるのだろうか。
この胸の痛みは、いつになったら消えるのだろうか。
日記を再び手に取り、ベッドの上に横になる。髪を乾かしていない。傷んでしまうし、朝に凄い寝癖になってしまうが、今はなにもする気になれなかった。
枕元に一冊の本がある。チャンドラーの推理小説だ。読み途中で続きも気になってはいるが、今はこれも読む気分ではない。
日記を開く、先ほどの続きはどこだっただろうか。
――4月21日。ここだ。
思わず苦笑いを浮かべてしまう。よく見れば、この21日こそが『運命の日』だった。
タイミングが良すぎる。このページを前にして彼から電話が掛かってきて、『運命の出会い』の日を読み始める。まったく出来すぎた話だ。
私は再び日記を開き、4月21日の内容から過去の記憶を呼び覚ましていく。
――例の【追記】のところまで読み終えた時、私は自然と眠りに落ちていたのだった。
今の彼女と過去の彼女の対比に、五話構成で間に日記を入れる形になりました