序章・1 『現在《いま》の彼女は恋をする』
悲恋の話を書きたいと思い、投稿に踏み切った処女作です
2017/3/7 修正。台詞の前後を一行空けました
あの日私は、確かに『運命の出会い』に直面した。
人が人を変える出会いをそう呼ぶのであれば、間違いなくあれは『運命の出会い』なのだ。たとえ私の心がそれを否定しても、たとえ私の頭がそれを嫌っていても、私の中の理屈で答えはそれに辿り着いてしまう。
高校二年の秋。雨の中、一人で暮らすマンションへ帰って来た私は、ひたすら過去の出来事を振り返っていた。帰路の間も、ずっと。
傘も差さなかったので、水分を含みきった服は最早裸を隠す意味でしか機能していない。冷たさに身震いする。肩も重い。
気まぐれに女の子らしく施したメイクも落ちてしまった。『彼』がすぐに気付いて褒めてくれたメイクだから、少し残念だ。
服を脱ぎ洗濯機に放る。とにかくシャワーを浴びたい。お風呂は昔から大好きだ。身体を綺麗にする事自体も勿論のこと、考え事に耽るにも最適。早く温まろう。
我ながら苦笑してしまうくらいフラットな私の身体を、シャワーから降り注ぐお湯が流れていく。その中で、私は何度も同じことを考える。
それは無駄で無為。だが、理性で制御出来ることではなかった。
「恋をすることなんてない。……そんな風には思ってなかったけれど、まさかこんなに色々な想いが頭の中を錯綜し続けるなんて思わなかった」
声に出して呟くと、更に実感が湧いてくる。
これが、恋。
「ふふ……思っていたよりも、心地良い」
笑えてしまう。こんなに心地良いなんて。そして、それが私の生き方をそのものを変えてしまうなんて。あの頃の私は想像出来ただろうか。
顔を上げて顔からシャワーを浴びる。すると、思考がより鮮明に、クリアになっていく。
――私は、自分の人生を諦観していた。
“未来がないから”、などと言い訳するつもりはないが、何をしていても楽しくなかった。唯一の、ささやかな楽しみは、母も同じ趣味だったらしい読書くらいなものだ。
けれど、改めて考えてみれば、楽しめることが少ない割に拘りは強かった。好き嫌いは多い。苦手なものも多い。
読書が好き。推理小説は特に好き。綺麗にするのが好き。掃除も洗濯も、お風呂も。似合わないとは思うが可愛いものも好きだ。ハート型のアクセサリーとか、そういったものに心が惹かれる。色で言えば黒が好き。ファッションも、ブックカバーのような小物も黒がいい。月や星も好きだ。
自然は好きだが動物や虫の類は嫌い。不衛生に見える全てのものが嫌い。バラエティ番組が嫌い。騒音も嫌いだ。
ナスや蒟蒻など食感が独特なものが苦手。炭酸ドリンクが苦手。初対面で馴れ馴れしい人間が苦手。そして何より、病院が苦手だ。
これほど拘りの強い人間が、人生を諦観している。成程、矛盾しているかもしれない。私は思わず嘲笑を漏らした。
私は人生を『楽しもうとしていなかった』だけなのだろう。けれど、無意識下の私のその思考を、『彼』は大きく変えてしまった。
私はあの人に出会い、初めて気付いた。悦びや楽しみは、痛みや辛さも時に運んでくるのだと。それらは相反するものではなく、コインの裏表などではなく、常に隣り合い、時に重なり合うものなのだと。
室内は暖まっていたが、屋外の気温は低い。すぐに寒さが戻って来るだろう。横着せずお湯を張ればよかったと後悔しながら、髪や身体を洗い流す。
身体が温まると心が穏やかになる。
頭の中は『彼』のことでいっぱいだ。そのことに思わず表情が綻ぶ。私は自分で思っていた以上に単純な女らしい。
切るのが面倒で腰ほどまでに伸びた長く黒い髪を後頭部に纏める。長いままというのも、こうしてお風呂の時や手入れ、朝出かける前に整えるのが手間だけれど、そういった手間は嫌いじゃない。
――思えば、伸ばすと少しだけ癖が出るこの髪も、彼は気に入ってくれていた。
まったく空恐ろしい。恋だの愛だのというものはここまで人を変えるのか。それとも、私が今まで、無意識に興味がない振りをし続けていたからこそ感じる思いなのだろうか。
『彼』に出会った半年前――いや、本当の意味での『運命の出会い』はその更に1年前――を、私は再び思い返す。
あの時の私は何を思っていただろうか。大好きな推理小説を買った帰りだった。そう。あの時、私はあの人と話したわけではないのに、確かに奇妙な感覚を覚え、そして――
「……日記。日記を読み返そう」
考えながらも、全身をくまなく洗い流し終えシャワーのコックを閉めた私は強く思った。
私の趣味。日課。ルーチンワーク。それが日記。皆は日記を書く私を几帳面だと言うけれど、気まぐれに気分が乗らない時は大したことは記入しないし、基本的に未来の自分へ読ませる為に書いている為にところどころ文章も破綻している。とはいえ、元々日記は人に読ませるものでもない気はするけれど。
そして私の日記には、一年半前の『全ての始まり』が事細かに残っていたはず。
今が、まさにそれを読み返す時。あの時の私は確かに、未来への私に向けてその思いの丈を綴っていたはずだ。
お風呂場を出て髪を下ろす。ドライヤーは後でいいか、と横着し、全身を簡単にバスタオルで拭き取るとそのままバスタオルを巻いた姿で部屋に戻る。
そこで、着替えを出すよりも先にデスクに置かれた日記帳に目が行く。最早考えるよりも先に身体が、手が自然と動いていた。
手に取るのはデスクの中心に鎮座していた方の日記帳ではない。デスク奥の棚に並ぶ中で、最も最近のもの。去年一年を綴った赤いカバーの日記帳だ。
それには一枚だけ、付箋紙が挟まっているページがある。そこから前の数ページこそが、出会いに関係する想いを綴った数日間。
【一年半前の四月二十一日】。全ての始まり。私の人生の一部をドラマにするのであれば、物語の起点であり基点になるだろう日付だ。
付箋紙のページを開く。そこには、日記の余ったスペースに、罫線に沿わず数行の文章が残されている。内容は至ってシンプル。
私は、文字をなぞりながら心の中でそれを読み上げた。
【追記】
『日記を見返して、『彼』に関する出来事がここで一区切りとされているのでここに追記。この時私は、“何かの前兆”と書いているが、どうやら私の直感は当てになるらしい。文字通りここまでの出来事は前兆だった様だ。ここから約一年後――つまり今なのだが、私の人生にとある転機が訪れた。既に日記とは別の用途になりかけている気はするが、一つのきっかけとして、ここに残しておく。
これからの出来事は、再び今の日記帳の続きに記していく。また読み返す機会があるかもしれないので、ここには付箋紙を挟んで置こうと思う』。
「ふふ……」
今漏れた笑いは、果たしてどんな色を含んでいただろうか。
自分の感情の色も判らないままの不思議な気持ちで、私は、その【追記】から十数日前までの間の日記を読み返す。
我がことながらその数日間は長い内容になっていたが、今の私にはそれすらも心地良いものだった。
――そう。自分の病のことさえ忘れてしまえるほど、心地良かった。
日記だけだった序章から大幅に変更いたしました