99話
陽が陰り始めた頃、室内を照らす松明の明かりが周囲を茜色に照らし出す。
その一室で、アルクは窓際に寄りかかりながら、明日執り行われる神殿を眼下に見下ろす。
明日、あの場所で自分の運命が決まるのだ。
ずっと死と追いかけられていたが、とうとう祭壇の前で追い詰められるのだ。
しかも……ルキアの肉体を奪ったレイールによって。
「ルキア……本当にお前は…」
最期の言葉は途切れ、否定するようにぐっと奥歯を噛みしめる。
生きていると、アルクはレクシュと同じように確証が欲しかった。
だが、いくら命の糸が繋がっているとはいえ、レイールの心の奥まで探ることはアルクにはできない。
それでも朧気ながら、ルキアの気配を感じる気がするのだ。
それともただルキアの肉体が生きているから、魂も存在していると錯覚しているだけなのだろうか。
「どちらにしろ……俺は行かなくてはならない…」
誰にともなく呟き、アルクは自嘲気味に笑う。
フィンソスは自殺行為だと詰ったが、アルク自身もその通りだとわかっていた。
フィンソスには臆病者になりたくないと言い返したが、本音は違った。
あれほど婚儀にこだわるレイールの本心が知りたいのもあるが、強い渇望がアルクを追い立てるのだ。
レイールに命を握られてから、気が狂い始めているかもしれない。
それとも、レイールの言うアスターのカケラが自分の中に存在し、元に戻るためにアルクを駆り立てるのかもしれない。
それによって命を落とすことになっても、アルク自身止めようがないのだ。
すでに病は呪いだとわかり、レイールの存在を知り、そして……ルキアを失ってしまった。
出会ってまだほんの数週間しか経っていないのに、まるでルキアとは何年も一緒に過ごしていたような気さえする。
お互いのことなどまだほんの少ししか知らないのに、すべてを知っているような気がするほど、ルキアはすんなりとアルクの中に入ってきた。
側にいることが当然だと、そう感じずにいられないほどルキアはオークに、そして自分にしっくりくるのだ。
「まあ……あれもある意味一目惚れみたいなものか…」
くすりと笑みを浮べ、アルクは初対面の時のことを思い出す。
互いに喧嘩腰で皮肉の応酬を言い合いあったあの頃。
あの時は病弱な私がなぜ、同じような王女を妻に娶らなければならないのかと、憤りしかなかった。
しかもルキアは噂に聞いていたのと違い、外見はとても健康そうに見えたのも苛ただしかったのだ。
あれがもう少し病弱に見えたならば、あんな態度もとらなかったかもしれない。
……いや、違うな。
あれが他の王女ならば、あんなにぶしつけな態度をとらなかっただろう。
体裁だけでも、歓迎の素振りを演じていたはずだ。
なのにルキアを見た瞬間、冷静な仮面が簡単にはがれ落ちてしまった。
それだけルキアには、何か心に触れるものがあったのだ。
だからカルがルキアが消えた告げたとき、正直ショックで言葉もなかった。
だが一人になったとき……まだルキアとの絆が切れてないと感じたのだ。
証拠も、そしてレイールに乗っ取られてしまった肉体からもその気配は感じ取れないのに、だ。
「ルキアは生きている……」
まだ……希望は消えていない。
そのための準備は、すでに整えてある。
アルクは窓際から離れ、きちんと整理された机の上から分厚い遺書を手に取った。
この中には次の後継者の名と、これからやらねばならない事を事細かく指示した内容が含まれている。
「これが日の目を見ることがないことを祈るが、万一の場合は……あとのことを頼む、フィンソス」
深く贖罪する気持ちで引き出しの中にしまうと、アルクは再び神殿の方に目線を走らせた。
「ルキア……」
狂おしいほど切なげに名を囁く、アルクはそっと左胸を押さえた。
興奮のざわめきに、眠っていたルキアの意識がゆるゆると目覚め始める。
水の中にいるように身体が重く、ここがどこなのか最初はわからなかった。
ゆっくりと混濁した意識が整理されはじめて、ルキアはここがレイールの中だと言うことに気づいた。
温室で交わした言葉と、触れた瞬間の意識の喪失はすさまじく、全身がはじけ飛んだのを今でも思い浮かべることができる。
吹き飛んだ意識はやがて沈殿物のように集まり、再びルキアを形作ったことも。
ただしすべて元に戻ったという感じはなく、ルキアであってルキアでないような感じを受けた。
誰か……そう、レイールの意識も自分の中で感じるのだ。
温室で出会った彼女の存在。
不思議と嫌な気持ちはせず、それどころかとても心地よく感じる。
たぶんレイールのアスターを思う気持ちに、ルキアも共感できるものがあるからだろう。
と、また興奮がさざめきがルキアを震わせる。
これは……レイールの感情なんだわ。
そしてこんなに興奮することはただ一つ。
まさか、アルクの命は!
急いで止めようとするルキアを、意識内のレイールが押しとどめ、まだだと囁く。
ルキアを安心させるように、レイールは感覚の一部を開放し、アルクの様子を教える。
アルクの命はまだ無事だとわかりわかり安堵したが、それも時間の問題と言うことも同時にわかってしまった。
だが残された時間は少なかったが、まだ間に合う。
ただしタイミングを間違えてしまえば、永遠にアルクは失われてしまう。
そうならないためにも、ルキアはもっとレイールの意識の中心にに近づく必要があると考えた。
ただし、存在に気づかれないようにしなければならない。
ルキアはレイールの意識に寄り添うように、ゆっくりと近づく。
今のルキアはレイールの意識の一部も取り込んでいるため、気づかれることなく近づくことができるだろう。
レイールの意識の中心に近づくにつれ、レイールの意識が強くなり、ルキアは自我を強く持ち続けるのが難しくなってきた。
それでもかろうじて意識を保っていられるのは、レイールの意識の一部を持っていたからだろう。
やっとレイールの意識の核とも言うべき場所に行き着いたルキアだが、純白の世界に驚いた。
もっと暗く、澱んでいるものだと思っていただけにルキアは触れるべきかどうか躊躇った。
純粋すぎる世界に触れたら切れそうなほどの危うさを孕んでおり、それゆえルキアは触れられずにいた。
だがルキアの中にあるレイールの意識が囁く。
中に踏み込め、と。
そうしなければ、アルクのことや外の様子が何もわからないままだと。
その言葉にルキアは覚悟を決め、恐る恐る触れた。
瞬間ルキアは白の世界に飲み込まれ、再び拡散してしまった。
鏡に映る自分の姿に、レイールは満足げなため息を漏らした。
亜麻色の髪は高く結い上げられ、髪飾りには美しく磨き上げられた宝石が煌びやかに輝いている。
その留め金には滑らかな肌触りのヴェールが、顔の回りから床まで軽やかな光沢を放ちながら流れていく。
首から肩にかけては銀糸のレース編みの美しい透かし刺繍の襟元、胸からウエストまでは真珠とがちりばめられた衣装が身体の線を美しく引き立てる。
腰からは光沢のある一枚布を使い、扇状のように後の裾が長く、そこにも刺繍や真珠がちりばめられていた。
そしてもうすぐ欲しいものが手にはいるという自信に、艶然と微笑む自身が映っていた。
美しい花嫁姿だと自分に納得し、鏡台の手前に置かれた手袋に触れた瞬間、静電気のような痛みが指先に走る。
顔をしかめるレイールに、後ろに控えていたムルガが用心深げに近づいてきた。
「どうかしましたか、ルキア様」
ルキアと呼ばれてぴくりと眉が上がったが、すぐに笑顔で取り繕う。
「なんでもないわ。手袋をつけてちょうだい、ムルガ」
「はい…」
ムルガに手袋を付けてもらっている間、レイールは先程の興奮が少し冷めてしまったことに苛立った。
ルキア。
この名前が気に入らない。
確かにこの身体はルキアのもので、レイールではない。
自分の髪は金髪だったし、瞳も翡翠ではなく、紺碧だった。
顔だってこんな可愛らしい顔ではなく、周囲の羨望を集めるほど美しかった。
だが自分の身体はとうに朽ち果て、大地の中に埋もれている。
これが自分の身体だったなら、どんなに良かったことだろう。
だがそれもあと少しの辛抱だ。
欲しいものが手に入ればこんな身体など用済みだし、ルキアと呼ばれることも二度とないだろう。
何不自由なく育ち、欲しいはすべて手に入れているルキアの身体を奪い、意識を追い払ったことにレイールは何の罪悪感もなかった。
かつては神に仕える修道女として生きてきたが、いったい神が私に何を与えてくれたのか。
何も……何も与えはしなかった。
いや…一つだけ、アスターに出会わせてくれたことには感謝している。
平穏な生活を奪い、王女として生かされる重責、それらをアスターは支え、伴侶として選んでくれた。
だがそれすら奪われてしまった。
そのすべてを取り戻すのに、ルキアを利用して何が悪いのだ。
「終わりました、ルキア様」
まただ。
ムルガが悪いわけではないとわかっている。
だが何故かムルガが自分のことをルキアと呼ぶたびに、苛つく気持ちが抑えられない。
実際今の自分はルキアだし、そう呼ばれるのは今だけだとわかっている。
あと少し我慢すればいいだけのことなのに、どうしてムルガに名を呼ばれると怒りが抑えられない。
何故かと考えたレイールだが、すぐに思考を放棄する。
だってそんな些末なことより、アスターを手に入れてからのことを考えたほうがよっぽど有意義だというものだ。
「ルキア様、これを」
目蓋を伏せたままムルガはレイールにブーケを差し出す。
こみ上げる怒りをぐっと押さえ、レイールはやや乱暴に受け取ると、ムルガはゆっくりとレイールの顔をヴェールで隠す。
と、後ろに控えていた数人の侍女達が皺にならないようドレスの裾を持ち上げる。
ドアに向かって歩き出したレイールだが、再びムルガが声をかける。
「ルキア様、お待ち下さい」
怒鳴るのを堪えるようにブーケを握りしめ、レイールは首だけ振り向く。
「何かしら、ムルガ」
突き放すような冷たい言葉にムルガはたじろいだものの、意を決して口を開いた。
「一つお聞きしたいことがあるのです。……アルク様の宝物は何がご存じですか?」
急に突拍子もないことを聞かれ、レイールはかっとなって一喝しようと口を開きかけた。
だがヴェール越しからムルガの真剣な様子を見て取ると、レイールの頭の中で警報が鳴る。
ムルガは私を試しているのだ。
ルキアなのかどうかを。
もしこの答えを間違えれば、ムルガは私をこの部屋から出さないつもりだとわかったからだ。
だが私はこの答えを知らない。
知っているのはルキア本人のみ。
どうすればいいか焦るレイールの脳裏に、一つの単語が浮かび上がった。
まるでルキア本人がレイールを助けるために教えた感覚に、支配したという達成感が表情に浮かび上がった。
「星を秘めた石よ。それがどうかしたの、ムルガ」
「ええ……その通りです。申し訳ありません。こんな時に……」
「いいのよ、気にしないで」
愕然とするムルガの表情が楽しくて、レイールは優しく微笑む。
だがその表情もすぐに強ばり、レイールはムルガから視線をそらす。
気づきたくないものに、気づいてしまった。
ムルガの落胆した瞳の中に、かすかだが希望の灯火が見えたのだ。
それは、まだレイールの中にルキアが存在しているという、レイールにとっては忌々しい感情が。
と同時に、焼き印のようにこびりついて離れない記憶が浮かび上がる。
かつて同じ視線を向けてきた侍女たちは、王女でない自分を蔑んできた。
だが、王女としての風格を身につけだしたレイールを、誰もが亡くなった王女をその後ろに描き出したのだ。
そして亡くなった王女の嗜好や仕草をレイールに押しつけてきた。
レイールの存在を否定して。
そして今、レイールはルキアの身体を支配してる。
となれば当然、ルキアとして振る舞わなければならないこともわかっている。
誰かの身代わりではなく、肉体そのものがルキア自身なのだ。
たとえ中身がレイールだとしても、一部の人間以外は誰もわからないのだ。
初めはルキアの振りをすることに何の抵抗もなかったが、ルキアと呼ばれるたびに苛ついていた理由がやっとわかった。
何をしても、レイールという存在は認められないのだ。
いや、そもそもレイールという人間自体が存在しないのだから。
自分で自分の首を絞めていることに気づき、レイールは押し殺した笑いを漏らした。
ならば最後までルキアを演じきってやろう。
最愛のアルクの命を奪い、欲しいものを手に入れたとき私はもうルキアの身体にはいない。
そして花嫁姿で、息絶えたアルクを胸に抱いた姿で戻ったルキアはどうするのだろう?
すぐに国王殺しとして処罰されるのか、それとも絶望のあまりその場で死んでしまうのか。
その最期はきっと見物だろう。
レイールはくつりと笑い、歪んだ満足感を覚える。
だがヴェールで隠された顔は誰もわからず、レールは促されるまま祭壇へと歩き出した。