98話
静かに扉を叩き、レクシュは部屋にそっと入る。
窓からは陽光が入り、室内を明るく照らす。
日の光と、暖炉で暖まった室内の中央には、寝台と小さな机と椅子が側に置いてある。
その小さな机の上には水差しとコップ、そして紙に包まれた薬と、フィンソスが毎日持ってくる花が活けられていた。
薬品の匂いが微かに漂う中、寝台で一人の女性が横になっていた。
しかし目蓋は開いて、入ってきたレクシュを見ることもなく、ただじっと天井を見ていた。
ルキアのことでまだ立ち直っていないのだと、レクシュは悲しげなため息を漏らす。
レクシュだとて未だにショックから立ち直ってはなかったが、それでも前を向いていかねばならないこともわかっていた。
ゆっくりとカルに近づき、レクシュは机の上に乗っている薬を一瞥する。
「カル、まだ薬を飲んでいなかったのね」
レクシュの問いかけにも答えず、カルはただ天井を見ているだけだった。
軽く目蓋を伏せると、レクシュは寝台に腰を下ろし、カルの頭を優しくなでる。
「さあ、起きて薬を飲みましょう」
レクシュはカルの上半身を抱きしめるようにして起すと、枕を背もたれのように整え、そこへカルの背中を預ける。
「……どうして……そんな風にやさしくするんですか…? 私にはそんな資格なんてないのに…」
両頬から透明な筋を作り、しゃがれた声で呟くカルを、レクシュは優しく涙を拭う。
「優しくするのは当然でしょう。貴方は私達の家族なのだから」
「家族だなんて……私は」
「貴方をルキアに会わせてしばらく経った頃、ルキアにこう言われたの。自分にとってカルは特別な友達になる、と。いつか離ればなれになっても、困ったことがあったら助けに行くと……そう言っていたわ。友達として接することがカルにとって負担に感じているみたいだから、侍女として接していると言っていたわ」
「姫様……」
「私も、貴方を侍女だと思ったことなど一度もないわ。私にとって貴方も、ルキア同様たいせつな娘だわ。もちろん、シエルもね」
やさしく髪を撫でながら、レクシュは愛しげにカルに微笑む。
「ど……して、そう思えるのです。あたしは……あたしが姫様を殺してしまったのですよ! 何故、誰も責めないんですか! なぜ……そんな優しい言葉を……その方があたしは……辛いのに…」
再び流す涙をレクシュはぬぐいながら、カルの双眸をじっと見つめた。
「ルキアは自分で選んで、貴方を助けようとしたの。貴方が殺したわけではないわ。……そう、理屈ではわかっていても、感情を押さえることは難しいわ。感情のままに貴方を責めて、罵れば少しは気が収まるかもしれない。だけど冷静になったとき…胸の中に残るのは言ってしまった後悔と、互いに残るしこりだけ。それに貴方を責めたところで、ルキアは戻ってこないし、ルキア自身もそんなことは望んではいないわ。そして……今の貴方の状態もね。……ルキアを悼んでくれる気持ちはとても嬉しい。だけど私達は生きていて、まだやるべき事が残っているわ。貴方はルキアの最期の願いを果たして欲しい」
「姫様の……最期の言葉…」
「ええ、そうよ。ルキアに託されたのでしょう。そのためにも一日も早く元気にならなくてはね」
レクシュは脳裏の片隅に残る、アルクの言葉を思い出した。
ルキアは生きていると言っっていたことを、カルに話すべきかどうか悩んだ。
だが確証のないことを言って、期待を持たせるのはかえって残酷だと思い、レクシュは口に出すのを控えた。
レクシュですら動揺したのだから、カルの場合はそれ以上に心乱されてしまうだろう。
今のカルに必要なのは、心身ともに安静が必要なのだ。
レクシュは笑みを絶やすことなくカルから離れると、水差しに手を伸ばした。
「さあ、カル。薬を飲んでもう一眠りするといいわ。……その前に新しい水に取り替えてくるわね」
そう言って寝台から腰をあげると、レクシュは水差しを乗せた盆を持って部屋を退出した。
レクシュが出て行った後、カルはぐったりと枕に寄りかかり、ぼんやりした顔で言われた言葉を思い出す。
確かにレクシュ様の言ったとおり、私は姫様の願いを叶えなければならない。
あれは……あの言葉は……姫様の遺言なのだから。
ずっと……認めたくなかった。
あの方が死んでしまうなど……もっとずっと先のことだと思っていた。
なのに……こんなにも早く逝ってしまった。
私を残して……!
レクシュ様は責めても、姫様は戻らないと言った。
だけど私は、責めて、罵ってもらった方がいっそ気が楽だった。
何も言わず無言のまま立ち去った陛下、心配で気が狂いそうになるのを必死で堪えているフィンソス、そして何よりもレクシュ様の態度がこたえた。
私の身体のことを心配し、手厚く看護してくれたことが、どれほど私をいたたまれない気持ちにさせたのか……きっとわからないだろう。
今も私の気持ちを気遣ってくれているのがわかるだけに、自分こそが姫様の身代わりとなって死ぬべきだったのだと感じずにはいられなかった。
(そんなことをルキアは望んでいなかったのを、貴方もわかっているはずよ)
突然頭の中に直接声が響き、カルはびくりと身体を強ばらせる。
呆然とするカルの目の前で陽炎が立ち上ると、それは半透明な人の姿を取り始めた。
(貴方とこうやって向かい合うのは初めてね。私は…)
「セリアね。……朧気だけど、覚えているわ。……あの時私の身体を乗っ取った」
きっとセリアを睨みつけ、カルは激しく非難した。
「貴方のせいで……貴方があの女と言い争ったせいで、姫様が死んでしまったのよ! あたしの…あたしの大事な人が! それを……よくも私の前に現われたわねっ。この人殺し!」
(……私にはわからなかった。彼女の心がこれほどまでに歪んでしてただなんて……。自分の殻に閉じこもって、私の声さえ届かなくなってしまった。だけど……伝えたことは後悔していないわ。……ただそれによって貴方やルキアを傷つけてしまったことは申し訳ないと思っているわ)
「謝って欲しくなんかない! そんなことをしたって姫様は戻ってこないわ! もう……姫様の身体は、あの女に支配されてしまったんだもの。……身体は姫様なのに、もう姫様ではないんだもの……こんなの……こんな残酷なことって…!」
嗚咽を漏らしながら泣き出すカルに、セリアはすうっと近づいてきた。
(泣かないで、カル。貴方はまだやるべき事が残っているわ)
「やるべきこと……ですって? …まさか、姫様の最期の言葉とでもいうの?」
真っ赤に染めた双眸がセリアの朧気な姿を捕らえ、唇の片端がつり上がる。
「私がしなくても、陛下はフィンソスを含めた警備兵達が守っているわ。仮に私にしかできないことがあったとしても、今のこの状態でいったい何ができるっていうの? 姫様の最期の……言葉は守りたいとは思ってる。……だけど足手まといになるだけだわ…」
ぐっと拳を握りしめ、セリアから視線をそらす横顔は怒りと悲しみに彩られていた。
痛々しいカルの姿を一瞥してから、セリアは微かな希望を口に乗せた。
(……ルキアはまだ……生きているわ)
「何…ぐっ!」
勢いよく身体を動かしたせいで肩に激痛が走り、カルは前のめりに倒れ込んだ。
片手でなんとか身体を起し、ギラついた眼差しでセリアを睨んだ。
「本当……なの。……嘘なら…許さないわよ!」
息も荒々しく、腹の底から響く声音で凄むカルを、セリアは静かな眼差しで受け止めた。
(あれをまだ、生きているというのならば。……彼女はルキアを殺すことはできないの。たとえルキアが彼女と血縁関係であろうと、彼女の魂を受けいられる器はもう、この世にはないのだから。どういうわけか、ルキアは彼女に取り込まれてしまったわ。今はかろうじて意識を保ってはいるけれど)
「ああっ!」
祈るように天を見上げ、喜びに打ち震えながらカルはこの吉報に感謝した。
そして希望がじわじわと全身に満ちあふれると、カルの頭の中にかかっていた靄も薄れ始めていく。
喜びから徐々に冷静さを取り戻し始めたカルは、次に何をすべきなのかを理解した。
カルの顔つきが変わるのを見て微笑むと、セリアは現われたときと同じように消えていった。